上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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館林市本町2丁目の青龍神社。
前回の「竜の井」と繋がっているいるという「青龍の井戸がある」。
(「館林市本町二丁目・竜の井」参照)

青龍神社 (1)
青龍神社 (2)
青龍神社は館林城主だった徳川綱吉の生母・桂昌院が青龍権現社としてこの地に再建したと伝えられている。綱吉も将軍就任後、10石の朱印地を寄進しており、神社入り口には「葵の御紋」が輝いている。

桂昌院が建立したという割には、祠があるだけの小さな神社である。

青龍神社 (3)
青龍神社 (4)
この井戸は福寿院(現在は廃寺)の境内にあり、伝説によると延宝年間(1673~81年)に突然清水が吹き上がり、中から女官姿の青龍権現が姿を現したことから「青龍の井戸」と呼ばれるようになったという。福寿院が廃寺になった後も、延命長寿の霊験があるとし住民の方々に守られ続けてきた。

ところで、扁額には「清龍神社」ってあり、本当はどっちなんだろう?


館林市本町2丁目の竜の井。

竜の井 (1)
竜の井 (2)
かつてこの地にあった善導寺の本堂前にあった井戸。善導寺は天正18年(1590年)榊原康政によってこの地に移された。時は流れ、昭和61年(1986年)館林駅前再開発事業のため、現在地の楠町に再移転している。

竜の井 (3)
井戸の両脇には、当時からのもの思われるイチョウの木が2本あり、昔を偲ばせる。とは言っても、井戸そのものは昭和61年の再開発時に併せて整備されたものらしく、歴史の風情を感じることはできない。

なぜ竜の井と言うかというと、天正18年にこの地へ善導寺が移転して来たおり、寺で行われた説教に城沼に棲む竜神の妻が美しい女性に姿を変え真剣に聞いていたといわれ、その後竜神の妻は迷いから救われたお礼として、この井戸に入りお寺を守ったという伝説があるから。

この井戸と青龍神社の「青龍の井戸」は城沼と繋がっているという伝説もある。

城沼の竜神と言えば、天正18年(1590年)の北条攻めの際、館林城を攻めた石田三成と大谷吉継は、城沼に橋を架け城にを攻撃する作戦をたてたが、橋が完成した翌日にその橋が忽然と消えてしまったという。これは城沼の竜神の仕業との噂が立ったという伝承もある。


館林市栄町の仏光山覚応寺。

覚応寺 (1)
覚応寺 (2)
覚応寺 (3)
覚応寺の開基は鎌倉時代の武将・佐々木盛綱と伝わる。盛綱は源頼朝の旗揚げから仕えていたが、頼朝没後の建久10年(1199年)に出家し西念と称している。

建仁元年(1201年)には上野国磯部郷に在住していたとの記録もあり、覚応寺を開基していても不思議ではない。(ちょっと磯部と館林は遠いけど・・・)

盛綱夫妻の墓との伝承がある五輪塔が、安中市磯部の松岸寺にある。
(「伝佐々木盛綱夫妻の墓・磯明山松岸寺」参照)

その頃の創建なら、覚応寺は寺歴800年の名刹ということになる。

覚応寺 (4)
境内にある太子堂。聖徳太子を祀る。明治41年(1908年)の建立で、平成19年(2007年)に修復。祀られている聖徳太子像は、佐々木盛綱が親鸞聖人から授けられたと伝えられている。

覚応寺 (5)
覚応寺 (6)
浮世絵師・北尾重光の墓。
重光は文化11年(1814年)江戸生まれ。25歳の頃から館林に住み、店を構えて各種の幟や絵馬を描くことを生業としていた。重光の絵馬は館林市近郊の多くの社寺に奉納されており、その数は300枚以上といわれている。明治16年(1883年)71歳で死去。


藤岡市藤岡の富士浅間神社にある福島元七顕彰碑(福島翁の碑)。

福島元七顕彰碑
顕彰碑は福島式桑刻機を発明した福島元七を顕彰して、昭和4年(1929年)に富士浅間神社境内に建てられた。

高山社の清温育では、蚕の成長に合わせて与える桑葉の大きさを変えていたため、桑葉を刻む作業は農家の大きな負担であった。元七は明治33年(1900年)に、桑切り包丁を上下させることによって、次々に桑葉が刃の下へ送られる仕組みを考案した。

この桑刻機は好評を博し、約150万台も販売されたという。


藤岡市本郷の町田菊次郎の生家。

町田菊次郎生家 (1)
町田菊次郎生家 (2)
町田菊次郎生家 (3)
高山社2代目社長である町田菊次郎の家で、高山社の分教場としても活用された。

母屋は木造2階建て、切り妻造り、瓦ぶきで屋根で、上には4つの天窓が設けられ、屋内の間取りは高山社跡に残る母屋兼蚕室(明治24年建築)と酷似している。

町田菊次郎
町田菊次郎は高山長五郎の遺志を継いで、明治19年(1886年)2代目社長として清温育の普及に尽力した人物。菊次郎は勧業博覧会でたびたび受賞するなど、高山社の名声を高めている。

明治34年(1901年)には私立甲種高山社蚕業学校を設立(初代校長)、全国から生徒を受け入れて清温育を全国に普及させるのに尽力した。大正6年(1917年)66歳で死去。

町田菊次郎頌徳碑
藤岡市藤岡の諏訪神社にある町田菊次郎頌徳碑。

生家にはご子孫が住まわれているので、見学の際は一声かけてから。


前回に引き続き藤岡市高山の鷲峯山興禅院。

高山重栄の墓
興禅院には高山遠江守重栄(しげひで)の墓がある。

高山氏は桓武平氏良文流の秩父氏の一族。秩父三郎が武蔵国高麗郡高山邑(埼玉県飯能市にある高山不動)に住して高山三郎を名乗り、初代・高山三郎重遠となる。重遠は、上野国緑野郡高山(藤岡市高山)を本拠とした。源義朝に属していたというので、平安朝末のことになる。

重栄は元弘3年(1333年)の新田義貞の挙兵に父・時重と参陣し、数々の武功を挙げている。新田十六騎のひとりに数えられる。父の戦死(分倍河原の戦い)後も新田郡に従軍していたが、義貞戦死後は足利尊氏に従っている。貞和6年(1350年)67歳にて没。

高山重栄は高山長五郎の祖先である。また、江戸期の寛政三奇人のひとりとして著名な高山彦九郎は、分家の子孫にあたる。

関連
高山長五郎の墓・鷲峯山興禅院
太田市細谷町・高山彦九郎記念館


藤岡市高山の鷲峯山興禅院。

興禅院 (1)
興禅院 (2)
興禅院 (3)
興禅院は文明18年(1486年)二杖必華乗芳禅師の開山。高山社を興した高山長五郎(高山家)の菩提寺である。高山社は「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録された構成資産のひとつである。

高山長五郎の墓 (1)
高山長五郎の墓 (2)
高山長五郎の墓 (3)
高山長五郎の墓。
側面に長五郎の事績、裏面には明治20年(1887年)に連合共進会で追賞されたときの授与賞の文言が刻まれている。

高山長五郎
高山長五郎は、文政13年(1830年)現在の藤岡市高山に生まれ、明治17年(1884年)頃に「清温育」を考案し、この伝習のため同年自宅に「養蚕改良高山社」を創立した。

高山社は「清温育」の普及に大きく貢献したが、長五郎自身は明治19年(1886年)に病気により没した。享年56歳。辞世の句は「桑の根に魂(たま)はとゝめて枯にけり」であったという。

興禅院 (4)
興禅院は高山社奥の山腹にあり、そこから高山社がよく見える。長五郎が今でも見守っているということ。

関連
藤岡市高山・高山社跡


高崎市片岡町の七士殉職供養塔。

七士殉職供養塔
七士殉職供養塔は昭和10年(1935年)の大水害の際に殉職した、高崎第15連隊の兵士を供養するため、翌昭和11年(1936年)に建てられた。

台風による集中豪雨で、烏川の上流域と碓氷川支流の九十九川流域で山津波(土石流)が発生、さらには烏川、碓氷川の堤防が決壊。高崎市の家屋被害は、流失6棟、全壊3棟、半壊4棟、床上浸水818棟、床下浸水712棟という甚大なものとなった。

この水害の救助活動中に高崎第15連隊第11中隊の兵士10人が濁流にのまれ、うち7人が殉職するという悲劇が起こった。7人はいずれも県内出身者で、22歳、23歳の若い兵士であった。

7人の葬儀には県知事、高崎市長をはじめ、小学生や市内の関係団体など約5000人が参列し、兵士たちの死を悼んだ。

現在も花が手向けられており、高崎市民がいかに7人の死を悲しんだかが伝わってくる。


高崎市山名町の御野立所跡。

山名御野立所
御野立所跡。野立所とは演習などで野外に設けた天皇陛下の休憩所のことである。

昭和9年(1934年)11月に行われた帝国陸軍特別大演習を、昭和天皇がこの場所からご視察された。演習は阿部信行大将を指揮官とする東軍(第一師団・第二師団)と、荒木貞夫大将を指揮官とする西軍(近衛第十四師団)に分かれて行われている(高崎第十五連隊は西軍に所属)。

この碑は昭和11年(1936)に旧八幡村(現山名町)の方々により造立されたもの。揮毫は荒木貞夫陸軍大将である。

御野立所から (1)
御野立所から (2)
現在は住宅地が増え、昭和天皇がご覧になった(と思われる)景色は見ることができない。1枚目は御野立所跡付近から木部町方面、2枚目は佐野町方面を見たもの。田んぼが広がっているあたりで演習が行われた?

山名駅
上信電鉄の山名駅。御野立所跡は山名駅や山名八幡宮西側の佐野山にある。昭和天皇は山名駅でお召列車を下車され、愛馬・白雪に騎乗し佐野山へ向かわれた。

迎光碑
山名駅から山名八幡宮へ向かう上信電鉄の線路脇にある迎光碑。昭和天皇をお迎えになった記念碑である。揮毫は鈴木貫太郎侍従長(海軍大将)。鈴木大将は終戦時の首相として有名。

迎光碑は上信電鉄・山田昌吉社長(当時)が造立している。山田社長は高崎の渋沢栄一と呼ばれ、高崎の発展に尽力したひとりである。

上信電鉄
山名駅の南側をプラプラしていたら、高崎行きの上信電鉄が来た。上信電鉄は上野鉄道として明治28年(1895年)に設立され、明治30年(1897年)に高崎-下仁田間が開通。大正10年(1921年)に信州・佐久までの延伸を視野に、上信電気鉄道と改称している。まあ、種々の事情で下仁田から先の延伸は実現しなかったけど。


高崎市南町の愛宕神社。

愛宕神社 (1)
愛宕神社 (2)
愛宕神社は和田城の守護神として、和田義信が京都愛宕神社の分霊を勧請したのが始まりという。

和田義信は上野国和田氏の祖で、和田城の築城者ともいわれる。また、義信の父・義盛は鎌倉幕府創成期の重鎮で、侍所別当を務めている。和田義信の勧請とするなら、愛宕神社の創建は西暦1200年前後と考えられる。

愛宕神社 (3)
愛宕神社 (4)
江戸時代の元和3年(1617年)、高崎城主・松平信吉が再建している。現在の社殿はまだ新しいので、近年の新築。

愛宕神社 (5)
本殿は外からは全く見えない。完全な覆屋というか社殿内。

愛宕神社 (6)
愛宕神社 (7)
社殿前にある井戸。明治26年(1893年)に帝国陸軍の軍事演習視察に明治天皇が高崎に行幸された際、この井戸の水を御前水として差し上げた。脇にある碑はそれを記念する碑。明治天皇の侍従・堀河康隆子爵の詩と和歌が刻まれている。

愛宕神社のご祭神に軻遇突智命(かぐつちのみこと)があり、別名火産霊神といい防火の神である。(他に伊弉諾命、伊弉冉命)

高崎は火災が非常に多かったので、松平氏が防火のために再建したのかな(勝手な推定)。でもあんまり効果なく、高崎は江戸時代から明治時代まで大火続きであったのはご存知の通り。


高崎市乗附町の群馬県護国神社。

護国神社 (1)
群馬県護国神社は、明治42年(1909年)高崎公園内に建立された英霊殿が始まり。昭和16年(1941年)にその祭祀を継承し、現在地に護国神社が造営された。その際には、多額の浄財が寄せられれとともに、述べ12万人が勤労奉仕により協力した。

護国神社 (2)
護国神社 (3)
護国神社 (4)
厳かに参道を進むと二の鳥居が見えてくる。

護国神社 (5)
護国神社 (6)
護国神社 (7)
護国神社 (8)
護国神社 (9)
社殿は昭和15年(1940年)の建立。銅版茸流造・向拝附で東南に面し、皇居を遥拝するように建てられている。

護国神社の源流は招魂社で、招魂社は戊辰戦争以来、西南戦争、日清・日露戦争、昭和に入ってからの満州事変などの諸事変にて戦死した霊を祭祀するために全国各地に建立され、その数は150社を数えた。

群馬県にも前橋と館林にあったが、昭和14年(1939年)の1県1社制に伴い、高崎に指定護国神社を創建し、前橋と館林は指定外護国神社となった。現在、群馬県護国神社には47,000余柱の英霊が祀られている。

明治維新以来の国難に際し、尊い命を捧げた英霊をお祀りすることは現在を生きる我々の責務である。

関連
館林市代官町・邑楽護国神社


吾妻郡高山村尻高の名久多教会。

名久多教会 (1)
名久多教会 (2)
名久多教会は、日本基督教団関東教区群馬地区の教会。教会建物は、明治20年(1887年)に信者22名により建築された県内に現存する教会中、最も古い洋風建築物である。建築費用、資材なども信者の寄付で賄われている。

名久多教会 (3)
昭和46年(1971年)に復元工事、平成5年~6年(1993~94年)に屋根と内部全体の改修工事が行われている。この両工事も信者によって行われたという。

宗教には疎いが、けっこう田舎(失礼)だけど明治初期からキリスト教を信仰していた方がいたんだね。しかも奉仕の精神で教会建屋まで造ってしまうとは。

当然のことながら現在も現役の教会である。


吾妻郡高山村中山の三国街道中山宿の本陣跡。

中山宿 (1)
中山宿 (2)
中山宿は本宿と新田宿に分かれ、交代制で業務を営んでいた。これは新田宿本陣跡。

新田宿の本陣は文政年間(1818~30年)に焼失しだが、平形家が問屋であったこともあり、長岡藩主をはじめ三国街道筋の荷主飛脚問屋、その宰領の寄進によって、本陣として復興された。

写真の門屋と母屋の間には殿様が泊まった棟があり、上段の間、違い棚の床の間、畳敷きで木戸の無い風呂場、近臣が控えた次の間、宿札などが当時のまま保存されているという。

中山宿 (3)
中山宿 (4)
本宿の本陣は大正12年(1923年)に火災で焼失し、街道に面した門構のみが残っている。

三国街道は五街道に次ぐ要路として慶長17年(1612年)に整備された。それは天領(直轄地)である佐渡金山の重要性を示している。越後からは金を始めとし、米や海産物が多く輸送されたが、江戸からは「佐渡送り」と呼ばれた金山で労役につく犯罪人や無宿人も多数連行されている。


吾妻郡高山村尻高の熊野山福蔵寺。

福蔵寺 (1)
福蔵寺 (2)
福蔵寺 (3)
福蔵寺は永保元年(1081年)、修験者・熊野坊によって創建された。応永10年(1403年)には、白井長尾氏の一族である尻高氏が福蔵寺を祈願所としている。

福蔵寺 (4)
江戸時代の化政年間(1804~29年)、福蔵寺第16世法印廣順の夢枕に聖観音が現れ「信州別所北向観音を勧請せよ。厄災消除、寿命長久諸願成就の利益を與えん為なり」と告げたと言う。

北向観音は、厄除・家内安全・無事故交通安全・商売繁盛・諸願成就などの祈願に参拝者も多い。

福蔵寺 (5)
よく見たら七福神のようだ。通常情のものとはだいぶイメージが違うが。

ところで、肝心の北向観音の写真を撮ってくるのを忘れた。また吾妻方面に行く機会があったら、ということで。


吾妻郡中之条町横尾の桃瀬の水牢跡。

桃瀬の水牢跡 (1)
水牢は人を水の中に入れる水責めの一種で、おもに年貢の取立てに使われたといわれる。

水牢は吾妻郡の東部(東吾妻町や中之条町)にのみ残っている。きちんとした資料はないみたいだが、岩櫃城主の斉藤氏が行っていたのを、その後吾妻郡東部を勢力圏に入れた、真田氏も引き継いだようだ。

桃瀬の水牢跡 (2)
桃瀬の水牢跡 (3)
水牢は8ヶ所残っているようだが、ここが1番原型を残しているという。以前、池の薬師の水牢跡(東吾妻町)に行ったことがある。(「東吾妻町新巻・池の薬師水牢跡」参照)

「天下の義人 茂左衛門」で有名な杉木茂左衛門の直訴などにより真田沼田藩は真田信利の時に改易になった。茂左衛門資料館(?)でも、信利の悪行が紹介されている。
(「天下の義人 茂左衛門」参照)

で、オレも信利ってしょうもないヤツだなぁ~って思ってるんだけど、水牢が残っているのは吾妻郡東部のみ。利根・沼田方面には残ってない。また、資料の裏付けもない。ということで、一部には岩櫃城主・斎藤氏の時代にのみ行われていたという説もあるらしい。

まあ、よく分かんないけど、農民やその家族が入れられていたことは事実だと思うので、やっぱり悪領主が出てきちゃうと悲惨だよね。

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