上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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渋川市金井の登澤山金蔵寺。

金蔵寺 (1)
金蔵寺は応永8年(1401年)の創建。開基は白井城主・長尾清影、開山は祐道上人。

金蔵寺 (2)
金蔵寺 (3)
嘉永5年(1853年)金井の大火により全堂が焼失、庫裏、観音堂などは再建されたが、本堂が再建されたのは平成15年(2003年)。

金蔵寺 (4)
金蔵寺 (5)
墓地入口にある宝篋印塔。基礎部の銘文には「源義秀聖霊」「康永2年」とあることから、里見義秀の供養塔と考えられる。(康永2年は1343年)

この銘文の「義秀」を「義季」と読むことで、世良田義季の墓とする説が江戸時代からある。世良田義季はご存知のように、徳川家の祖とされてしまった新田義重の4男。

ただ、銘文には明らかに追刻された跡があり、「季」の文字のみ異常にいびつである。

金蔵寺 (6)
宝篋印塔の脇に五重塔があるのだが、これは江戸幕府がこの宝篋印塔を調査しに来た時の記念という。延宝6年(1678年)の銘がある。幕府の調査結果は不明だが、「義季」がらみの遺物なら、もっと幕府が大々的に保護したはずである。

当時、里見氏が旧赤城村宮田(渋川市内から見て利根川の対岸)まで支配下に置いていたことを考えると、里見義秀の供養塔と考えることが相当である。


渋川市村上の岩井堂観世音御堂。

岩井堂 (1)
岩井堂 (2)
岩井堂観世音御堂は延久5年(1073年)に岩井堂城主・山田太郎為村が創建したと伝えられる。その後、観応年間(1350~52年)に藤原季長が再興したという。

天正壬午の乱(1582年)では兵火で堂宇が焼かれ、徳川時代の享保年間(1716~35年)に再建され、大正3年(1914年)の大改修で現在に至っている。

岩井堂 (3)
岩井堂 (4)
断崖の洞窟を利用して建てられている懸崖造りの御堂。

岩井堂 (5)
御堂奥には30体余りの石仏が安置されている(洞窟観音)。

岩井堂 (6)
岩井堂 (7)
付近の岩山は小野子山の噴火によって溶岩が流出してでき、岩井洞集塊石と呼ばれる。

岩井堂は国道353号に面しており、渋川から吾妻(中之条や草津、四万)方面に行くのによく通る道。でも、だいたい気が付かずに「ビュン」って通り過ぎちゃうんだよね。


吾妻郡東吾妻町新巻の長徳寺。

長徳寺 (1)
長徳寺の創建は寛永年間(1624~44年)と伝わる。

長徳寺 (2)
本堂は茅葺で趣きがある。最近ではめっきり見なくなった。境内の植木類は良く手入れが行き届いている。

ところで、ここの住職さんは著書も多数あり、更には各地で講演活動をしているようだ。その講演の様子をネットで見たら、自分は日本一野暮ったい寺に住んでいると言ってた(笑)。

開いている戸は閉まらない、閉まっている戸は開かない、本堂を歩いていると自分が斜めになっているような気がすると、本堂の古さで笑いを取っていた。

本堂の建築年は分からなかったが、100年以上経ってるかな。


吾妻郡中之条町伊勢町のツインプラザ。

中之条町ツインプラザ (1)
中之条町ツインプラザ (2)
中之条町ツインプラザは、様々な文化活動に対応した交流拠点としての学習センターと、幅広い分野の本を所蔵した図書館を併設した生涯学習施設。平成12年(2000年)4月のオープン。敷地面積は約1万4000平方m、延べ床面積6000平方mの広さ。

田舎町には似つかわしくない立派な施設である。なんで、中之条町にこんな立派な施設があるかというと、この人の存在なくしては語れない。

中之条町ツインプラザ (3)
中之条町出身の小渕恵三元首相。
昨年、いろいろ世間を騒がせた小渕優子衆議院議員の父親である。そう言えば、調査して報告すると言っていたカネの問題はどうした?? このまましらばっくれるつもりか??

話を恵三元首相に戻すと、昭和37年(1962年)の初当選以来、連続12期当選。平成10年(1998年)から平成12年(2000年)には首相を務めた。首相在任中に脳梗塞で倒れ、そのまま退陣。さらには1ヶ月後、意識が回復することなく死亡した。62歳、若すぎる死であった。

小渕元首相が脳梗塞に倒れたのが4月2日、亡くなったのが5月14日。ツインプラザのオープンは4月15日。小渕元首相の遺産のようなもんだね。

ツインプラザの銅像は平成14年(2002年)5月に建立されている。


吾妻郡東吾妻町大戸の華庭山大運寺。

大運寺 (1)
大運寺 (2)
大運寺は興国年間(1340~46年)に宝誉上人の開山。

大運寺 (3)
大運寺 (4)
当時、上州の三大尽のひとりと言われた富豪・加部安左衛門(7代目)の寄進により大運寺は荘厳な堂宇となった。

本堂は平成2年(1990年)に火災により焼失、現在の本堂は平成6年(1994年)の再建。

大運寺 (5)
大運寺 (6)
大運寺 (7)
大運寺の境内は加部家屋敷跡の一部である。屋敷跡の遺構としては石垣が見られる程度だが、頌徳碑が建っている。

大運寺 (8)
加部家の墓。さすがに立派である。

加部家の初代は戦国の頃、まだ武士だったようだ。4代目の時代に大戸の関所が設置され、関守になっている(他三家)。

7代目(大運寺に多くの寄進をした)が、農業の他に酒造業や麻の売買などにより、多くの財をなしている。8代目は事業をさらに大きくした。また天明の浅間山の大噴火に際し、吾妻川流域の村への援助を行っている。その後、商売が傾いた時期もあるが、13代目が明治7年(1874年)まで続けていた。現在ご子孫は東京在住。

ちなみに、上州三大尽のもう2名は、佐羽吉右衛門(桐生)と鈴木重兵衛(甘楽)である。


吾妻町東吾妻町川戸の川戸神社。

川戸神社 (1)
川戸神社は貞治年間(1362~67年)の創建と伝わる。当時は首宮大明神といった。吾妻太郎行盛の首級を祀っているから。明治2年(1869年)に川戸神社となっている。

川戸神社 (2)
川戸神社 (3)
川戸神社 (4)
行盛は里見氏との戦いに敗れ討死しているが、川戸神社に伝わるところによると、行盛の最期は自ら首を切って相手に投げ、その首が2丁あまり先の大木の枝にとどまり霊光を放ったという。それが川戸神社の場所ということ。

川戸神社 (5)
宝物として行盛使用の甲冑や太刀等があったらしいが、慶応2年(1866年)に火災により焼失したという。

敗者や恨みを持って横死したものを手厚く祀るのは、日本の良き風習のひとつである。怨霊封じという意味合いもあるけどね。

関連
吾妻太郎行盛の墓・巌長山長福寺


吾妻郡東吾妻町原町の普光山善導寺。

東吾妻町・善導寺 (1)
善導寺は貞治年間(1362~68年)に岩櫃城主斎藤氏家老・秋間備前守が創建したといわれる。岩櫃城廃城後に現在地に移っている。

東吾妻町・善導寺 (2)
東吾妻町・善導寺 (3)
東吾妻町・善導寺 (4)
本堂は平成元年(1989年)の再建。

善導寺は吾妻太郎行盛の子・斎藤憲行(秋間斎藤氏の養子になった)の5代末裔・斎藤憲広(岩櫃城主)の怨念により、本堂の工事が仕上がるたびに火災に見舞われたという。

それは岩櫃城が武田信玄、真田幸隆などに攻められた際、善導寺の住職が岩櫃城に秘密の水源があることを武田方に話してしまい、それを断たれたことが原因で岩櫃城は落城したから。

住職は脅されて話したのだが、憲広は善導寺が裏切ったと思い、以後上記のように火災が発生するようになった(善導寺の怪火)。永禄年間(1558~70年)、慶長4年(1599年)、寛文3年(1663年)、享和3年(1803年)、天保8年(1837年)、明治35年(1902年)に火災で焼失している。

現在の本堂は平成元年(1989年)の新築。87年ぶりに本堂が再建された。現在は斎藤氏を祀る斎藤堂(小祠)があるので大丈夫!?

東吾妻町・善導寺 (5)
東吾妻町・善導寺 (6)
参道を歩いて行くと、吾妻線の踏切がある。踏切を超えると、今度は国道145号のバイパスが頭上を通っている。

参道を公共交通が横切ってしまったのも、斎藤憲広の呪いか(笑)。

*長福寺の記事でも書いたが、吾妻氏の系譜には諸説あり、斎藤氏の岩櫃城最後の城主説に関しても資料により違っていたりする。オレは斎藤憲広としたが、斎藤基国という名で書かれているものもあることを付記しておく。 (「吾妻太郎行盛の墓・巌長山長福寺」参照)


吾妻郡東吾妻町原町の密教山顕徳寺。

顕徳寺 (1)
顕徳寺は元和2年(1616年)に真田家家臣・出浦対馬守が潜龍院を移築して開基したといわれる。

顕徳寺 (2)
顕徳寺 (3)
天正10年(1582年)に武田勝頼が織田・徳川・北条に攻められ、さらに身内からも裏切り者が続出した際、真田昌幸が勝頼を岩櫃城に迎え入れるために岩櫃城搦手付近に御殿を建てた。

結果的に勝頼は小山田信茂の進言もあり岩殿山城を目指したが、信茂は元々裏切るつもりだったため、勝頼は追い詰められ天目山にて自刃して果てた。迎えるべき主を失った御殿は、昌幸配下の祢津潜竜斎昌月なる者がもらい受け、潜龍院という山伏修験寺となった。

前置きが長くなったが、その潜龍院が元和2年に移築され顕徳寺となったが、本堂は移築時のものだと伝えられている。但し、移築後顕徳寺は焼失し再建されているとか、潜龍院自体が焼失しており建物は移築されていないとか、諸説あるらしい。

ちなみに、潜龍院跡(つまり勝頼御殿跡)には石垣などが残っており、面積もかなり広いらしい。


邑楽郡邑楽町中野の精勤山永明寺。

永明寺 (1)
永明寺は元弘元年(1331年)夢窓国の開基と伝わる。足利尊氏の兜守本尊である薬師如来を本尊とする。

永明寺 (2)
永明寺 (3)
元は臨済宗であったが、寛永元年(1624年)吉宗正朔和尚が再興し曹洞宗に改宗している。

明和年間(1764~72年)に火災で焼失。その後、安政3年(1857年)に再度焼失。現在の本堂は明治3年(1870年)の再建。昭和50年(1975年)改築されている。

永明寺 (4)
永明寺 (5)
境内にあるキンモクセイは、開基の夢窓国が植えたといわれ、樹齢は700年近い。

昭和12年(1937年)には国の天然記念物に指定されている。その当時は、樹高16m、幹周り3.2m、枝張り18mもの威容を誇っていたが、昭和41年(1966年)の台風により主幹は地上5mで折れて、根が地上に出るほどに倒伏してしまった。

主幹は回復しなかったが、根から数本出た芽が現在では7mまでに成長している。

永明寺 (6)
本堂前にあった石造。小坊主が木魚を枕に居眠りをしている。かわいいけど、何を表しているのは良く分かんない(笑)。


邑楽郡邑楽町鶉の東光山恩林寺。

恩林寺 (1)
鎌倉幕府が新田義貞らに滅ぼされた時、14代執権・北条高時の弟・四郎慧性の夢枕に立った江ノ島弁財天から、「上毛の郷に霊地あり、その地で北条家の再興を図るべし」と告げられ、弟の荒間五郎友春ら主従5名で辿りついたこの地に、江ノ島弁財天を勧請した。

上記は邑楽町鶉新田の浮島弁財天の由緒である。
(「邑楽町鶉新田・浮島弁財天」参照)

恩林寺も同様に、彼らが文和2年(1353年)に鎌倉建長寺44世・東林友丘を開山として創建し、北条一門の菩提を弔い再起の祈願所としたという。四郎慧性は北条泰家のことと考えられる。

恩林寺 (2)
恩林寺 (3)
本堂は平成7年(1995年)の新築。本堂に安置されている薬師瑠璃光如来は、60年に一度ご開帳される秘仏。普段は奥の金色のお堂に安置されている。

恩林寺 (4)
邑楽町の天然記念物に指定されているケヤキ(写真右)と銀杏(同左)。

ちなみに、恩林寺がある地区は鶉というが、これは足利尊氏が雉狩りに来た際、鶉を捕獲し金の鳥かごに入れて持ち帰った、という言い伝えからその名がつけられたという。


邑楽郡邑楽町中野の廣学山神光寺。

新光寺 (1)
新光寺 (2)
神光寺は正和3年(1314年)新田義貞家臣・中野藤内左衛門景春の開基である中野山善正寺が始まり。景春は新田義貞とともに戦い、延元3年(1338年)義貞の死に殉じ自害している。

新光寺 (3)
新光寺 (4)
元々この地は中野景春の館跡で、戦国時代は富岡氏配下・宝田和泉守が修築し中野城としていたが、天正18年(1590年)廃城になっている。その後、慶長10年(1605年)館林・善導寺の霊存和尚が字前原にあった善正寺を中野城跡に移したのが現在の神光寺である。

新光寺 (5)
邑楽町の天然記念物であもある大カヤ。推定樹齢は約770年ということなので、中野氏が館を構えていた時の名残りということになる。樹高21mを誇る姿は壮観である。

新光寺 (6)
享保3年(1718年)に起こった館林騒動で処刑された竹岸武兵衛の顕彰碑。大正6年(1917年)の建立。
(館林騒動関係は「館林騒動 三義人の供養碑・阿妻山教学院」参照)

大カヤから志士之碑周りには芝生が敷きつめられており、それも入って行くのに気が引けるほどきれいに整備されている。


邑楽郡明和町中谷の阿妻山教学院。

教学院 (1)
教学院 (2)
教学院 (3)
教学院の由緒は不明だが、本堂は平成6年(1994年)に新築されているようだ。

教学院 (4)
教学院 (5)
享保3年(1718年)に起こった館林騒動の代表者3名の供養碑がある。館林藩主・松平清武が館林城の再築費用を賄うため領民に重税を課したことから生活が困窮した領民が一揆を起こしたもの。

領民は年貢の減免を求め江戸藩邸に強訴、結果として年貢は半減されたが、翌享保4年(1719年)3名の名主が斬首された。中谷村(明和町)の恩田佐吉、中野村(邑楽町)の竹岸武兵衛、田谷村(館林市)の小池藤左衛門。

領民は3名の死を悼み、館林小桑原の密蔵寺に供養碑を建てたが、城下に近く破壊されてしまったため、密かにこの教学院に再建している。

ちなみに藩主の松平清武は江戸幕府6代将軍・家宣の異母弟。家光の孫でもある。当時の館林は徳川綱吉の子・徳松死後、天領となっていた。普通ならこういう騒動を起こすと幕府から目を付けられるものだが、6代将軍は兄・7代将軍は甥という関係から、2万7千石だった清武は最終的には5万4千石に加増されている。


館林市本町2丁目の外池商店。

外池商店 (1)
外池商店は江戸時代の創業で、屋号を「和泉屋」という。江戸時代中期、近江の国(滋賀県)から移り込み、造り酒屋を営んでいたが、明治33年(1900年)には味噌、醤油の製造業に変わり、現在は酒の小売業を行っている。

外池商店 (2)
現在の店舗は昭和4年(1929年)の建築で、木造2階建て切妻、瓦葺、平入り、桁行4間、1階正面は下屋が張りだし、2階は格子戸となっている。

敷地内にある蔵は「百々歳蔵(ももぜくら)」と名付けられ、コンサートなどを行うことができるホールとして使用されている。築200年にちなみ、百を2つ重ねた名称のようだ。

同市内の分福酒造店舗(毛塚記念館)と同様町屋の特徴を備えている。
(「館林市本町二丁目・毛塚記念館」参照)


館林市本町2丁目の旧二業見番組合事務所。

旧二業見番組合事務所 (1)
二業とは芸者さんの置屋と料亭のことで、見番はそれらの取次ぎや料金の精算・取り締まりをしたところ。

建物は昭和13年(1938年)に建てられたもので、木造2階建、入母屋、桟瓦葺。1階が下見板張、2階が真壁造、白漆喰仕上げとなっている。正面は左右対称で両側を前に出させる事で、切妻屋根が重なるようになっており、手摺を廻す事で楼閣風の意匠にしている。

旧二業見番組合事務所 (2)
1階が事務所で、2階は芸者さんの稽古場であった舞台付き36畳の大広間がある。3方の壁には松や竹が描かれ、当時の華やかな空間が残されている。

現在は本町2丁目東区民会館として地域の方々に利用されている。ということは、中に入っても良かったのかな?


館林市本町2丁目の毛塚記念館。

毛塚記念館 (1)
毛塚記念館は江戸時代に建築された「分福酒造」の店舗である。分福酒造は江戸時代に創業し、かつて「丸木屋本店」を名乗った造り酒屋である。

毛塚記念館 (2)
毛塚記念館 (3)
建物の正確な建築年は不明だが、地籍図などから江戸時代末と推定されている。

木造2階建て、切妻、瓦葺き、平入、建築面積61平方mで、正面1階部分は下屋が張りだしている。正面は略格子戸で外壁は下見板張り縦押縁押さえ、妻部分のみは真壁造り、白漆喰仕上げ。

昭和50年(1975年)に酒蔵が野辺町に移転、さらに平成9年(1997年)に母屋が取り壊しとなり正面の店舗部分だけが残された。

現在は毛塚記念館として、当時使用した道具や家財、資料などが展示されている。見学してくればよかったと、ちょっと後悔。

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