上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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高崎市吉井町東谷の住吉神社。

住吉神社 (1)
住吉神社 (2)
当所にはもともと不動明王が祀られており、北向不動尊と称していた。言い伝えでは、奈良時代に多胡郡の郡司であった羊太夫が謀反の疑いで朝廷軍に攻められた際、朝廷軍は八束城の羊太夫を攻めあぐねたので不動明王に祈願したところ、その霊験で攻め落とすことができた。これにより朝廷軍の将が一堂を建立したという。地名から大沢不動尊と呼ばれてきた。

その後、明治初年の神仏分離に際して住吉神社と改めた。明治40年(1907年)に近隣5社を合祀している。

住吉神社 (3)
住吉神社 (4)
現在の社殿も北向である。それにしても田舎の神社(失礼!)にしては立派な社殿。拝殿は切妻で縦長。本殿は千鳥破風。

住吉神社 (5)
住吉神社 (6)
社殿奥に「住吉神社資料館」という建物があった。宝物庫兼祭具置き場といったところか。一般公開しているなら覗いてみたい。

ところで、馬庭念流8世・樋口定次が枇杷の木刀で岩を割ったという伝説があるが、その琵琶の木はこの住吉神社から切り出したといわれている。
(「高崎市吉井町馬庭・馬庭念流道場」参照)


高崎市箕郷町矢原の卜神(ぼくしん)諏訪神社。

卜神諏訪神社 (1)
卜神諏訪神社 (2)
卜神諏訪神社は、鹿島新当流を開いた剣聖・塚原卜伝が、永禄3年(1560年)に勧請したと伝わる。当地は字卜神というが、地名がなんとなく卜伝を彷彿させる。

卜神諏訪神社 (3)
境内にある碑に上記由緒が書かれている。

卜神諏訪神社 (4)
卜神諏訪神社 (5)
ムラの神社って感じのこじんまりとした社殿。本殿は覆屋に覆われていて見ることはできない。

塚原卜伝は茨城県鹿島の出身で、後に塚原家の養子となっている。卜伝は実父からは鹿島古流を、義父からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだ。

なぜ塚原卜伝が群馬に?
卜伝は「廻国」という修行の旅に出ており、その3回目が弘治3年(1557年)から永禄9年(1566年)まで、伊勢、甲斐、上野、下野などを廻ったということなので、箕輪城下を訪れている可能性はあるけど・・・。

当時の箕輪城主・長野業正の家臣に新陰流を開く上泉信綱がおり、塚原卜伝の弟子とする説もある。

ちなみに、剣豪は宮本武蔵など数多くいるが、剣聖と呼ばれるのは塚原卜伝と上泉信綱の2人だけである。(宮本武蔵、伊藤一刀斎、柳生宗厳なども剣聖と呼ぶ場合もあるけど)


甘楽郡甘楽町福島の天王塚古墳。

天王塚古墳 (1)
天王塚古墳は神明塚とも呼ばれる。全長76mの前方後円墳で5世紀初頭の築造と推定され、鏑川流域に分布する前方後円墳の中では1番古いものである。

前方部幅39m、高さ7.5m、後円部径約50m、高さ10mで、後円部が前方部より高くなっている。

天王塚古墳 (2)
後円部には舞台のような建物があった。何?

天王塚古墳は彦狭島王の墓という伝承がある。彦狭島王は豊城入彦命の孫。豊城入彦命は崇神天皇の第1皇子で、東国を平定し毛野氏の祖といわれる人物(彦狭島王は上毛野氏の祖といわれる)。

彦狭島王の墓との伝承がある古墳には、三島塚古墳や将軍塚古墳などがある。
 「高崎市石原町・三島塚古墳
 「高崎市元島名町・将軍塚古墳


富岡市田篠のしの塚古墳。

田篠しの塚古墳 (1)
田篠しの塚古墳 (2)
田篠しの塚古墳は現在地から100mほど南西にあったが、国道254号バイパス工事に伴い当地に移築復元されている。もともとは直径19m以上の円墳であったが、移築復元する際、直径14mに縮小されている。

中は盛り土だが表面全体に平たい石を貼った造りになっている。7世紀頃の築造と推定される。

田篠しの塚古墳 (3)
田篠しの塚古墳 (4)
石室はもとのまま復元されている。玄室は幅2m、長さ4.4m、高さ2mで、羨道を含めると7.8mになる。天井石は既になかったが、壁の石は砂岩、結晶片岩、安山岩などで組まれており、一番大きいものは3.7トンの重さがある。

田篠しの塚古墳 (5)
石室からは人の歯や耳飾りが複数発掘されており、5人以上の遺体が納められていたと考えられ、当時の有力氏族の家族墓と推定される。

国道254号バイパスの工事では、他に6基の古墳も発掘調査されたが、しの塚古墳以外は調査後に壊されている。もったいない。


富岡市上黒岩の平等山遍照寺。

遍照寺
遍照寺は貞和元年(1345年)新田義一の開基といわれる。新田義一は、新田義貞の長男・義顕の子といわれる。義顕は義貞とともに戦い、越前金ヶ崎の戦いで自害している。義顕は自害時20歳であり、子がいてもおかしくない年齢であったが、義一に関しては真偽不明である。

黒岩の大日堂 (1)
黒岩の大日堂 (2)
黒岩の大日堂 (3)
大日堂は遍照寺第一世・西念が貞和4年(1349年)に建立した。山門(楼門)は仁王様が鎮座し2階には鐘がある。

黒岩の大日堂 (4)
楼門は2階へ登れるようになっており、鐘を真近に見ることができる。

黒岩の大日堂 (5)
黒岩の大日堂 (6)
大日如来を安置する大日堂。何度か焼失しているが、安永9年(1790年)に再建されている。

黒岩の大日堂 (7)
黒岩の大日堂 (8)
大日堂の縁の下に潜ると、麻疹(はしか)が軽くすむという霊験があるといわれる。オレはとっくの昔にすんでいるので潜らなかったけどね。


甘楽郡甘楽町天引の笠塔婆と板碑。

甘楽町・笠塔婆 (1)
笠塔婆とは上部に笠石を載せた卒塔婆で、板碑と同じ意味を持つ供養塔であると考えられる。県内でも20基程が確認されているが、同所にまとまってあるのは珍しい。

甘楽町・笠塔婆 (2)
笠塔婆と板碑は4基とも地元で産する天引砂岩で造られ、笠塔婆は東向き、板碑は南向きに建立されている。高さはみな110cm前後で、すべてに正安4年(1302年)の銘がある。

笠塔婆・板碑の塔身正面には、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊種子を表す梵字が薬研彫りで刻まれている。また、向かって左から2番目と3番目の笠塔婆には、塔身左右側面に五輪塔発心門を表す梵字も刻まれており、阿弥陀三尊種子と発心門を示す梵字が刻まれている笠塔婆は、県内ではこの2基のみである。

平成6年(1994年)に笠塔婆の崩落を防ぐために保存修理が行われ、覆屋も構築されている。


甘楽郡甘楽町庭谷の庭谷城址。

庭谷城址 (1)
庭谷城址 (2)
庭谷城址 (3)
庭谷城は、東流する鏑川が大きく屈曲して断崖をつくり、奈免沢と
合流する部分に位置し、鏑川右岸の断崖上に立地する。
鏑川との高低差は約20mある。

規模は東西80m、南北140mあり、東側は断崖、南側は比高差
約15mの奈免沢に面し、北側の3分の1は南側より5mほど低い。

虎口は本丸西側のやや南寄りにあり、追手は本丸より約50~60m
西側にあった。堀は南側と西側にあったが、近年埋められてしまった。

庭谷城址 (4)
庭谷城址 (5)
本丸は40m四方で、土塁がめぐっていた。現在は赤城神社が祀られ
ている。

庭谷城は国峯城の支城で、小幡氏の重臣・庭屋左衛門大夫兼行が
城主だったといわれる。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原
攻めに際し、国峯城とともに落城した。


甘楽郡甘楽町庭谷の五輪塔群。
庭谷城主・庭屋氏代々の墓石と伝えられている。

庭谷の五輪塔 (1)
6基の五輪塔はいずれも直線的で豪壮な軒型をしており、鎌倉時代末から室町時代初期の特徴がみられる。石材は、向かって1番右・2番目・4番目が鏑川岸に露出する凝灰岩で、その他は天引砂岩である。

向かって右から4番目は建武3年(1336年)、3番目のものは観応元年(1350年)の銘が刻まれている。観応は北朝の元号(南朝は正平)なので、当時は既に北朝の勢力下にあったと考えられる。

古くに移動され窮屈な配置となっていたが、平成12年(2000年)に当所に再移動し、覆屋が架けられた。

庭屋氏についてはよく分からないが、小幡氏の一族のようだ。豊臣秀吉による小田原攻めの時、国峯城と庭谷城の守備をしていたのが、庭谷城主・庭屋左衛門大夫兼行といわれる。

庭谷の五輪塔 (2)
庭谷の五輪塔 (3)
五輪塔群は庭屋氏開基と伝えられる庭谷山慶恩寺の如来堂前にある。本堂は平成2年(1990年)の新築。

庭谷の五輪塔 (4)
庭谷の五輪塔 (5)
如来堂には阿弥陀如来像が鎮座していた。

この五輪塔群は甘楽町の重文に指定されているため、現地に解説板が設置されており、また甘楽町のHPにも解説がある。ところが、その内容が違うのだ。どっちを信用しようかと迷ったが、とりあえず現地解説板の内容を元に書いてある(深い意味はない)。


富岡市宮崎の宮崎神社。

宮崎神社 (1)
宮崎神社は、元は広鉾神社と言われ、ご祭神は大国主命。明治40年(1907年)に諏訪神社、白山神社とここにあった広鉾神社が合祀され宮崎神社になった。

宮崎神社 (2)
宮崎神社 (3)
宮崎神社 (4)
現在の社殿は、合祀の時に田島の和合神社の社殿を移築したもの。

宮崎神社 (5)
境内の大杉は樹齢は約800年で、樹高約25m、目通り7.6mの巨木。枝張りは東西12m、南北15mで、先端は20m付近で6、7本の太い枝に分かれて樹冠を形成している。富岡市内では貫前神社の藤太杉と同年代とされる。

この大杉があったので、この地に3社を祀ったといわれる。とみおか名木10選に選ばれている。


富岡市上高瀬の寶琳山薬師寺。

薬師寺 (1)
薬師寺 (2)
薬師寺の創建は不明だが、本堂(薬師堂)は天保3年(1832年)の建造と記された棟札が存在している。

薬師寺 (3)
薬師寺 (4)
薬師堂の様式は江戸時代に長野県諏訪地方で成立した、建築彫刻に重点をおいた大隅流様式の仏堂である。三間×三間の入母屋造に、軒唐破風の向拝一間を備えている。

向拝正面の頭貫上部や繋虹梁、手狭、木鼻、身舎の頭貫といった部分の優れた彫刻は、大隅流様式の特徴を良く伝えている。

昭和51年(1976年)に屋根や背部等の一部が改修されたが、富岡市内の残る数少ない大隅流の社寺建造物として、貴重な存在である。


富岡市上高瀬の横瀬八幡宮。

横瀬八幡宮 (1)
横瀬八幡宮は慶長18年(1613年)に、この地域の人々によって創建された。貞享3年(1686年)に建て替え、正徳3年(1713年)に修理が行われたことが棟札によって判明している。

横瀬八幡宮 (2)
横瀬八幡宮 (3)
社殿は一間社流造りの構造で、屋根は古くは檜皮葺であった。絵様、彫刻、蟇股の形式など質素で、落ち着いた意匠をあらわしているなど、室町時代末期から桃山時代の様式を伝えてる。

群馬県で現存する一間社流造りの社殿は、類例も少なく貴重なものである。


前橋市茂木町の大日山龍性寺。

龍性寺 (1)
龍性寺は承久2年(1220年)に文覚上人が奥羽巡錫のおり当地に立ち寄り、上人自ら刻した大日如来像を本尊とし創建したとされる。

文覚上人は元武士で、19歳で出家し仏門に入っている。ただ、文覚上人は建仁3年(1203年)に死去したとされており、龍性寺創建年とは少し合わない。

龍性寺 (2)
龍性寺 (3)
文久3年(1863年)に火災に遭い堂塔・什器・古記録類を焼失。現在の本堂の建立年は不明だが、近年の再建のようだ。本堂には本尊の阿弥陀如来を祀る。先に書いたように創建時の本尊は大日如来。文久3年の火災後、変わったと推定される。

龍性寺 (4)
龍性寺 (5)
境内にある石幢。総高2mで幢身から宝珠まで完全な形で残っている。円柱状の幢身に六角形の中台を乗せ、その上に六角柱の1面に1体ずつ6体の地蔵が彫った龕部を乗せている。江戸時代中期のものと推定される。

石幢の名称の起こりは、寺の内陣の須弥壇を取り囲んで掛けられる細長い布製の旗を幢幡と呼び、ここからきたものといわれている。幢幡を6枚または8枚組み合わせてかけている様子を、石造物で表現したものが石幢である。


太田市世良田町の長楽寺遺跡1号墳跡。

長楽寺遺跡1号墳跡 (1)
長楽寺遺跡1号墳跡 (2)
長楽寺遺跡1号墳は、現在の新田荘歴史資料館正面玄関前にあった径18mの円墳。盛り土は失われていたため高さは不明。現在は石槨の位置を示す形が残っているだけ。

石槨はローム層を掘りこんで、凝灰岩を側壁・天井石に使い、側壁の周りを河原石で覆い、さらに全体を粘土で覆っていた。

長楽寺遺跡は、新田荘歴史資料館の前身である東毛歴史資料館建設に伴う発掘により、古墳時代の住居跡30軒、古墳5基などが見つかっている。

関連
 「太田市世良田町・新田荘歴史資料館


太田市新田木崎町の木崎宿色地蔵。

木崎宿色地蔵 (1)
木崎宿色地蔵 (2)
木崎宿色地蔵は高さ73cmの石地蔵尊で、風邪のはやる季節に亡くなった子ども達の霊を慰め、子ども達の成育を祈願して建立されたといわれている。

台座には施主名などとともに寛延3年(1750年)の銘が刻まれており、平成13年(2001年)に改築された茅葺のお堂に安置されている。

江戸時代の木崎宿には飯盛売女が多数おり、女たちは前借年季奉公で遠出が制限されていたことから、宿はずれのこの地蔵様によく参詣していた。そのため「色地蔵様」と呼ばれるようになったといわれている。

木崎音頭には
「木崎下町の三方の辻に、お立ちなされし石地蔵様は、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持て投げる、これがヤー本当の、色地蔵様だがヤー」
と唄われている(らしい)。


田市出塚町の大和神社・行者堂。

大和神社・行者堂 (1)
大和神社・行者堂 (2)
大和神社(行者堂)は、もと長福寺の境内にあったもので、役行者の像を安置している。寛平年間(889~98年)大和から来た僧が、この像を背負って来たという。

大和神社・行者堂 (3)
役行者は役君小角、役小角、神変大菩薩などとも呼ばれ、奈良時代初期の山岳者呪術者で修験道の祖といわれている。

文化12年(1815年)の大火災で長福寺が全焼、役行者の像も半焼となった。その後、新たに同じ像が一体彫られ、半焼した像は御隠居様と呼んで別の厨子に保存されている。

行者堂はもともと現在地より南西約50mのところにあり、明治29年(1896年)に建て替えが行われた後、昭和14年(1939年)に現在地へ移築されている。この際、大和から運ばれた像に由来することから大和神社と呼ばれるようになったが、地元では古くから行者堂の名で親しまれている。

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