安中市松井田町入山・三宝荒神社
安中市松井田町入山の三宝荒神社。
三宝荒神社は天正年間(1573~92年)に当地に移り住んだ佐藤監物が創建したと伝わる。以後、佐藤家が祀り続けてきたが、現在は入山地区(遠入、久保、竜馬、小柏)の氏神として祭事を行っている。
鳥居の扁額は「大荒神」。
佐藤家元祖天徳院350回遠忌の碑。
山の傾斜地に建っているため、境内は非常に狭い。社殿は昭和49年(1974年)の改修。併せて石段・石垣の改修も行われている。樹齢300年のご神木が損傷したため、伐採・売却した費用を充てたという。
これがご神木の切り株かな。
鳥の巣箱? 木祠じゃないと思う。
三宝荒神社のご祭神は火産霊神、奥津日子神、奥津比売神。奥津日子神、奥津比売神は竈(かまど)や屋敷、農業(稲作)の神々とされる。奥津は竈のおき火から来ている。竈の神に火の神(火産霊神)を加えて、仏神である三宝荒神に置き替えて祀ったものと思う。
安中市松井田町西野牧・千駄木遺跡
安中市松井田町西野牧の千駄木遺跡。
千駄木遺跡は縄文時代前期から弥生・古墳時代の長い間にわたって、巨石の下を生活空間として利用した岩陰遺跡である。
ここは昔から鹿の骨や角・土器片などが出土することで地元の人々には知られていたが、昭和47年(1972年)の県道拡張工事に伴い発掘調査を行ったところ、石器・骨角器・土器・土師器・須恵器などが多く確認された。そのため道路の改修計画を変更して保存されている。
縄文時代前期から中期初めまでは、向かって右側の岩の岩陰を利用した比較的広い範囲で生活が営まれていたが、縄文時代中期に浅間山の噴火による地震で落石(左の岩)があり、それ以後は落石部との間の狭小な地域を利用していたと思われる。
2つの巨石の間。どういう生活単位(家族?)かは分からないが、これでは狭い。当時は定住という概念があったか不明だが、何ヶ所かある生活拠点のひとつって感じなのだろうか。
出土遺物は縄文時代の土器が最も多く、それらは長野県の八ヶ岳山麓地方の影響を受けているとみられ、文化圏を考える上で貴重な資料となっている。
安中市松井田町松井田・琴平宮
安中市松井田町松井田の琴平宮。
松井田琴平宮の創建は弘化年間(1844~48年)とされるが定かではない。ここは鎌倉時代の創建とされる九蔵坊という塔頭(たっちゅう)があり、修験僧が修業を行う場所だったようだ。江戸前期には徳川綱吉から朱印地を賜るほどであったが、明治初年の廃仏毀釈の流れを受け廃寺となっている。
鳥居は昭和8年(1933年)の建立。
一の鳥居前には大きな燈籠がある。
松井田琴平宮は小山の頂上にあるので、急な石段を上っていく。
石段の横にはもう少し緩やかに上れる参道がある。滑り止めにマットも敷かれている。
参道の途中に天狗を線刻した石碑があった。修験僧の修業場だったことを伺わせる。
二の鳥居。一般の鳥居と比べると横幅が広いと思う。
社殿前の燈籠は弘化5年(1848年)の奉納。松井田琴平宮が弘化年間の創建なら、そのときの奉納になる。
社殿は大正4年(1915年)の建立。
不動明王像。文化8年(1811年)の造立。創建よりも古いので、どこからか移されたものか。
社殿裏には国道18号松井田バイパスが走っているのが見える。
安中市松井田町新堀・天竈朝陽と古賀錦山の碑
安中市松井田町新堀の天竈朝陽(てんそうちょうよう)と古賀錦山(こがぎんざん)の碑。
天竈朝陽の碑(左)と古賀錦山の碑(右)は、元は別の場所にそれぞれあったが、国道18号松井田バイパスの建設の際に現在地へ移されている。
天竈朝陽は本名を松本安二郎といい、安永4年(1775年)旧八城村の生まれ。京都の吉益南涯から医術を学び、帰郷後は住民のため献身的に活動した。天保6年(1835年)に61歳で死去。碑は天保9年(1838年)に弟子たちにより建立されている。
古賀錦山は久留米(福岡)の生まれ。若くして江戸で医術を学び、帰省途中に松井田宿で病人を診察した縁で、住民に求められこの地に住むこととなった。慶応2年(1866年)に死去。「天竈朝陽のそばに葬ってほしい」との遺言を残している。碑は慶応3年(1867年)に建立された。
それにしても、何で国道18号の松井田バイパス沿いに移したのだろう。車の交通量は多いし、みんなスピード出しているし。この碑の前に車を停めるわけにもいかないので、下に置いて歩いてバイパスに上って行った。
安中市松井田町原・川久保薬師堂
安中市松井田町原の川久保薬師堂。
川久保薬師堂の創建は定かではないが、中山道の碓氷関所が現在地に設置された元和9年(1623年)以降とされる。「入鉄砲出女」を厳しく取り締まり、加えて碓氷峠が間近に控えるため旅人は難渋を極めた。そこで無事通過の願いと感謝を込めて薬師如来を祀る薬師堂が建立されたという。
燈籠は昭和53年(1978年)の奉納。
薬師堂内にはTVも置かれており、地域の集会所のような佇まいとなっている。薬師如来座像の造立年などは分からないが、病気治癒の霊験あらたかであることから地域の人々から篤く護られている。
薬師堂から数十m上ると薬師の湧水がある。この日は水が出ていなかった。たまたま? 枯れてはいないと思うが。
川久保薬師堂の手前からは上り坂となっており、心太坂と呼ばれて親しまれた。これは湧水を使った心太(ところてん)屋さんがあったため。現在は「薬師坂」と記された石碑がた建っている。平成15年(2003年)の建立。ちなみにこの坂道は旧中山道になる。
前橋市飯土井町・井出上神社
前橋市飯土井町の井出上神社。
井出上神社の由緒は不詳。上野国神名帳記載の「従四位井出上明神」は当社のこととされる。いつの頃からか稲荷神社となっていたが、明治11年(1878年)に井出上神社と改称している。
鳥居は大正4年(1915年)の建立。
社殿は一段高いところに建っている。
灯籠は大正2年(1913年)、狛犬は昭和17年(1942年)の奉納。
拝殿の建立年は不明だが、昭和24年(1949年)に瓦葺きに改修されている。
本殿は寛延元年(1748年)の建立。
境内の椎の木。樹高16m、目通り3.6mで、樹齢は200~300年と推定されている。地上2.5m付近で大きな枝が分かれ、その内1本は西側へ水平に7mほど伸びている。
境内社・末社群。八幡社、愛宕社、琴平社など。
元は神楽殿なのかな。中をみたらパイプいすや黒板が置かれており、会議室みたいな感じになっていた。
社殿裏、北側の鳥居。
境内西側の鳥居。平成5年(1993年)の建立。
鳥居の先は富士塚のようで、塚上には石祠が3基ある(左から木花開耶姫神社、雷電宮、阿夫利神社)。
前橋市下増田町・今宮八幡宮
前橋市下増田町の今宮八幡宮。
今宮八幡宮の由緒は不詳。口碑では推古天皇の御代に新田開発の勅命があり、勅使・飛騨鳥工が宇佐八幡宮と赤城大明神を勧請し社殿を造営したとされる。下増田町の近戸神社にも似たような由緒(口碑)が伝わっている。(「前橋市上増田町・近戸神社」参照)
一の鳥居前には御神橋跡がある。
二の鳥居は平成9年(1997年)の建立。
社殿前の狛犬は昭和6年(1931年)の奉納。
社殿の建立年など、詳細は分からない。本殿は立派だ。
社殿裏にある今宮八幡宮の石宮。寛永元年(1624年)の造立。元宮だろうか。建立者として数名の名前が刻まれている。
境内社・末社群。蚕影山宮、天満宮、天王社、諏訪社、秋葉山社、神明社など。
飼育神社? なんだろう。扁額の文字がかすれていて読みづらいが、社名の下に「祭神武内宿禰命」とあるように見える。この辺りで昔から「飼育」と言ったら養蚕かな。でも武内宿禰は?
前橋市上増田町・近戸神社
前橋市上増田町の近戸神社。
上増田近戸神社の由緒は不詳。社伝(口碑)によると、推古天皇の御代に諸国に新田開発の勅命があり、飛騨国より大仁氏がやってきて当地で新田開発を行った。その際に飛騨国にて崇敬してた水無大明神と当国の赤城大明神を勧請し、近戸山神として社殿を建てて祀ったの始まりという。なお、水無大明神は飛騨国一ノ宮である現在の水無神社。
狛犬は昭和54年(1979年)の奉納。
社殿は天正18年(1580年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に兵火にかかり焼失。この時に大仁氏勧請の古記録等も焼失。そのため由緒明細が不明となったとされる。現在の社殿は宝暦年間(1751~64年)の建立とされる。
本殿は茅葺のようだ。
境内社・末社群。神明社、稲荷社、八坂社、琴平社など。
境内の千手観音堂。中を見るとお祭りの時に使う万燈が大量に置かれている。千手観音はどこに?
千手観音には次のような逸話が残っている。明治期の神仏分離により千手観音を近戸神社から切り離し境外に遷したら村内に災難が続いたので、再び近戸神社境内に戻したら何事もなくなったという。と言うことは、奥の方に鎮座しているのかな。
前橋市荒子町・荒子神社
前橋市荒子町の荒子神社。
荒子神社は明治11年(1878年)に稲荷神社と諏訪神社が合併して荒子神社となってる。それぞれの神社の由緒は不詳。その後、明治40年(1907年)に村内の神明宮と諏訪神社を合祀している。
一の鳥居の扁額は破損しているが「子」の字が見えるので、「荒子神社」と刻まれていると思われる。
二の鳥居の扁額も破損している。こちらも「荒子神社」と刻まれていと思われる。
社殿前の灯籠は文化11年(1814年)の奉納。
社殿は明治16年(1883年)の建立。
神楽殿。明治14年(1881年)の建立、平成20年(2008年)に屋根の改修を行っている。
境内社・末社群。秋葉社、八坂社、雷電社、琴平社など。
日露戦役紀念碑(左)と並んで「軍馬應徴紀念碑」(右)があった。お隣の西大室町の大室神社にも同様の碑があるので、このあたりは軍馬(というか馬)の飼育が盛んだったのかな。(「前橋市西大室町・大室神社」参照)
境内に遊具(ブランコのみだが)が設置されており、子ども達の遊び場になっているようだ。神社前の道路には子ども達の安全のための心得みたいな看板(みたいなもの)があった。頭文字をとって「いかのおすし」(荒子小PTAが設置)。最近いろいろ物騒なので気をつけてもらいたい。
前橋市荒子町・薬師堂
前橋市西大室町・長尾景英の供養塔(めいがん様)
前橋市西大室町の長尾景英の供養塔。地元では「めいがん様」と呼ばれている。
長尾景英は白井長尾氏6代当主。父・景春が主家である関東管領・山内上杉顕定、山内上杉家家宰である総社長尾氏・長尾忠景に対し反乱を起こした(長尾景春の乱)ため、当初は景春とともに戦うが後に景春と対立。景英は景春の下を離れて顕定に降り、山内上杉家の重臣に復帰している。
家督を嫡子・景誠に譲った後は、大室城に隠棲していたとされる。大永7年(1527年)に没している。48歳とされる。
長尾景英の供養塔とされる五輪塔。「明巌宗哲禅定門」と刻されており、その読みから「めいがん様」と呼ばれている。また「めいがん」との読みから、目の神様として信仰されるようになった。
景英の墓は渋川市上白井の空恵寺にあり、その戒名は「明岩窓哲」である。「めいがん様」とは漢字が異なっているが同じ読みである。
(長尾氏累代の墓は「白井長尾氏累代の墓・天霊山空恵寺 その2」参照)
なお、地元では「めいがん様」は景英の父である景春の供養塔(墓)で、景英が建立したと伝えられている。理由は分からない。なお、前橋市の「城南地区文化財巡り」にも景春の供養塔との説明が書かれている。ちなみに、景春の墓も空恵寺にある。
安中市松井田町横川・百合若大臣の足痕石
安中市松井田町横川の百合若大臣の足痕石。
百合若大臣の足痕石は、その名の通り百合若大臣が足で踏み潰したといわれる石。その昔、百合若大臣という大男の若者がいて、大きな弓と長い矢で川向こうの山(妙義山)に向け矢を放つ際に、後ろ足を踏ん張った時に石が凹んだといわれる。
確かに足跡のような感じで凹んでいる(写真だと分かりづらいが)。
案内板のすぐ横にも、同様に足跡のように凹んだ石がもうひとつあり、「あれ、どっちだ?」状態に。多分、大きめの石の方だと思うが、案内板がちょっと微妙な位置にある。
百合若大臣が矢を射たのを見ていた家来のひとりも負けてはならぬと思い、腰に下げていた弁当のおむすびを山に向かって力一杯投げた。すると、百合若大臣の大臣の矢と、家来のおむすびの2つ穴があいたという。
その穴が今でも夜空の星のように見え、「星穴岳」と呼ばれるようになったいわれている。百合若大臣がそのときに使った弓矢は、妙義神社に奉納されている。
写真は横川辺りから見える妙義山(総称)だが、星穴岳を調べてみたら下仁田町の中之嶽神社あたりから登っていく相当な岩山らしい。横川からだと5km以上は優にあるだろう。百合若大臣(と家来)恐るべし(笑)。
もちろん百合若大臣は実在の人物ではないが、日本全国にその伝説が残っている(特に大分県に多いらしい)。
安中市松井田町横川・旧国鉄浄化貯水槽跡
安中市松井田町横川の旧国鉄浄化貯水槽跡。
浄化貯水槽跡は矢の沢川の水を浄化するための施設で、浄化した水は横川駅などの旧国鉄施設に給水され、飲料水・生活用水やSL(蒸気機関車)などに使われていた。特に昭和40年代(1970年前後)まで信越線を走っていたSLは、石炭を燃やし蒸気を発生させるために大量の水を使用したため、水の供給は重要であった。
10年ほど前まで水が貯められていたようだが、現在は水は抜かれ砂で埋められている。
裏側には配管も残っており、往時を偲ばせる。
貯水槽上部にはレンガが使われており、旧信越本線の碓氷第三橋梁(通称・めがね橋)と同じレンガといわれる。めがね橋は明治26年(1893年)に竣工しているので、浄化貯水槽も同期時の建設だろうか。(めがね橋は「碓氷峠のめがね橋・碓氷第三橋梁」参照)
安中市松井田町横川・諏訪神社
安中市松井田町横川の諏訪神社。
横川諏訪神社の由緒は不詳だが、碓氷関所(番所)が関長原から横川へ移転すると同じく、諏訪神社も同所から遷座してきたという。明治10年(1877年)に稲荷神社と八幡宮を合祀している。
社殿へは急な石段を上っていく。
社殿は明治44年(1911年)の建立。
境内社・末社群。詳細は分からない。
双体道祖神。上の写真の双体道祖神には天保10年(1839年)の銘があった(下のは不明)。
横川諏訪神社には江戸時代中期に始まったといわれる獅子舞が伝承されている。碓氷関所の役人まで倒れてしまうほど疫病が流行った際には、疫病退散の獅子舞を関所上段の間で舞ったところ疫病が治まったという。そのため神社だけでなく、関所にも奉納することが恒例になったと伝えられている。
後継者不足からたびたび途絶えたが、平成21年(2009年)に復活。碓氷関所まつりや諏訪神社秋季例大祭で奉納されている(写真は安中市HPから拝借。碓氷関所まつり)。