Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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富岡市中高瀬の高瀬神社。

高瀬神社 (1)
高瀬神社 (2)
高瀬神社 (3)
高瀬神社は建仁3年(1203年)に八幡宮として創建されている。明治42年(1909年)に高瀬村17社を合祀し高瀬神社と改称。以来、高瀬村の総鎮守として崇敬されている。

高瀬神社 (4)
高瀬神社 (5)
現在の社殿は江戸時代末の改築と伝えられる。拝殿の質素感と比べると本殿は彫刻も施され重厚感がある。

高瀬神社 (6)
二重虹梁蟇股になっており、鬼(かな?)が虹梁に噛み付いている。鬼だとしたらやさしい顔をしている。

春の例祭には中高瀬獅子舞や式三番などの伝統芸能が演じられていたが、現在は休止されている。式三番は群馬県内では高瀬神社と二宮赤城神社(前橋市)のみ現在まで伝承されている。また、毎年7月には桐渕地区の氏子による「凶事(まがごと)流し」という穢れを乗せた小舟を鏑川に流す神事が行われており、富岡市の無形文化財に指定されている。

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富岡市富岡の小舟神社。

小舟神社 (2)
小舟神社 (3)
小舟神社は白鳳7年の創建と伝わる。白鳳は正式な元号ではなく、寺社縁起などに使われている私元号。白鳳の期間として650年から、661年から、672年からなど複数の説がありはっきりしない。いずれにせよ、小舟神社の創建は飛鳥時代と称される年代になる。

小舟神社 (4)
小舟神社 (5)
小舟神社 (6)
小舟神社 (7)
元は字小舟という場所にあったが、火災に遭い元禄年間(1688~1704年)に現在地に再建されたといわれる。拝殿は平成3年(1991年)に修築されているようだ。また、拝殿前の狛犬は新しく、平成27年(2015年)の設置。

小舟神社 (1)
境内入口の標柱に、貫前神社の「境外摂社 舊祓戸」と刻まれていた。「舊祓戸」は禊ぎを行う場所の意味。

伝承では貫前神社の経津主神が舟を使ってやってきて、当地で禊ぎをしてから貫前神社に入ったことから「舊祓戸」になっており、またその舟を祀ったことから小舟神社という名称になったといわれている。そのため、後に貫前神社参拝時の前宮となっている。

小舟神社の主祭神も貫前神社同様主祭神は経津主神である。

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藤岡市浄法寺の御倉御子神社。

御倉御子神社 (1)
御倉御子神社 (2)
御倉御子神社 (3)
御倉御子神社の創建は不詳。日本書紀の安閑天皇2年(532年)の条に、全国26ヶ所に屯倉を設置とあり、その中に上毛野国緑埜の地名が見られること、またご祭神が稲倉魂命(うかのみたまのみこと:穀物・食物の神)であることから、この一帯が緑埜屯倉でその守護のために祀られたと考えられる。

御倉御子神社 (4)
鳥居前の石段脇に「表参拝道」の標識。横には「御倉御子神社男坂」とある。まあ、あまり深く考えずに登り始める。

御倉御子神社 (5)
山あいなので参道は長くはないが、写真のイメージよりもず~っと急坂。しかも中ほどで石段がなくなってしまう。

御倉御子神社 (6)
「自分で道撰び ここより石段がありません。あなたの好きな道を撰び登坂してください。(中略)急な険しい道ですので注意して登ってください。痛いのはあなた持ちですよ!」とのこと。

御倉御子神社 (7)
これが本当にけっこう危ない。足場を選びながら慎重に登る。足が痛い。でも「あなた持ちですよ」と言われているので(苦笑)。

御倉御子神社 (8)
御倉御子神社 (9)
御倉御子神社 (10)
何とか割拝殿にたどり着いたと思ったら、境内から見たら神楽殿だった。御倉御子神社の太々神楽は藤岡下栗須(稲荷神社?)から伝えられたもので、流派は大和流。元は江戸の流れをくんだ当地にて、最初に奉納舞を行ったとされている。

御倉御子神社 (11)
御倉御子神社 (12)
御倉御子神社 (13)
社殿は安政2年(1855年)建立。近年建て替えられているようだ。狛犬は平成14年(2002年)の奉納。

御倉御子神社 (14)
御倉御子神社 (15)
鳥居前を通り過ぎ、舗装道を緩やかに上って行くのが「裏参拝道」「女坂」。回り込む感じで境内に入れる。

御倉御子神社 (16)
社殿裏の末社群。

御倉御子神社 (17)
御倉御子神社 (18)
末社群の横からさらに登っていく道があったので行ってみた。しばらく行くと石宮があった。奥の院(奥宮)かな。

参拝するには「表参拝道、男坂」から登っていくのが正道かな。でも「裏参拝道、女坂」なら社殿脇(ちょい下)まで車で行けるよ。でも、道は狭い。

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藤岡市鬼石の野栗神社。

野栗神社 (1)
野栗神社の創建は不詳だが、次のような伝説が残っている。日本武尊が野栗沢(上野村)から流した弟橘媛の髪の毛が、神流川の屏風岩に漂い着いたとき、神が馬に乗って屏風岩の断崖を駆け上って、ここに鎮座したという。

知っている限りでは、神流川岸に屏風岩という岩はないと思うが、三波石峡に屏風石というのがある。同じく駒足石というものある。何か関係ある?

野栗神社 (2)
灯籠は昭和62年(1987年)の奉納。

野栗神社 (3)
石祠は昭和42年(1967年)の建立。

野栗神社 (4)
野栗神社 (5)
鳥居前には石仏や庚申塔、道祖神などが並んでいる。

群馬県は各地に日本武尊伝説・伝承が残されており、吾妻郡や嬬恋村の由来にもなっている。藤岡市(旧鬼石町)にもあるのね。

神流川は「野栗(上野村)で疫病が流行したとき、野栗神社(現乃久里神社)のご神体である弟橘媛の髪を流したて浄めた」ことから、髪流川、神流川となったといわれる(諸説あり)。

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藤岡市篠塚の義輝山光源院。

光源院 (1)
光源院は木喰覚海上人が篠塚伊賀守重廣の館跡に、万仏の中心である大日如来祀り開山したのが始まりと伝わる。当時は無量山大日寺と言ったが、開山の木喰覚海上人が、実は室町幕府第13代将軍・足利義輝の孫だったため、後に義輝山光源院となっという。光源院は義輝の戒名「光源院融山道圓」からと思われる。

ところで、足利義輝は永禄8年(1565年)に松永久秀、三好三人衆に攻められ殺害されている。記録に残る義輝実子は輝若丸がいるが、3ヶ月で病死したとされる。真偽不明な説では、義高(2男)、義辰(3男)がいたともいわれる。

光源院 (2)
光源院は明治初年に廃寺になっており、現在は「閻魔堂」と呼ばれるお堂があるのみ。なので、正確には「旧光源院」と言った方がいいのかもしれない。地元では光源院よりも「閻魔堂」の名称で呼ばれている。

光源院 (3)
屋根瓦には「足利二つ引」家紋が刻されている。

光源院 (4)
開山塔と呼ばれる木喰覚海上人の墓。木喰覚海上人は高野山で僧となり湯殿山で修行した修験者とされる。天台宗の僧兵に追われ当地に来たといわれる。

光源院 (5)
光源院10世で、中興とされる実相の墓。文政7年(1824年)没。

光源院 (6)
実相墓の隣の墓碑(写真左)は、実相没後の33回忌にあたる安政3年(1856年)に建てられたもの。発起人筆頭に馬庭念流18世・樋口定伊の名がある。学問・仏教の弟子だったようだ。

この墓碑に「当院は覚海義高僧正の剏(はじ)むる所なり」とある。「義高」は義輝の2男とされる義高のことかな。 まあ、義輝の子でも孫でも、そういう謂れが残っているのは、木喰覚海上人が足利氏ゆかりの人だと信じる何かがあったのだろう。

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藤岡市立石の若宮山立石寺。

立石寺 (1)
立石寺 (2)
立石寺は大永2年(1522年)東林上人の開山。寛文8年(1669年)に前橋藩主・酒井雅楽頭忠清の祈願寺となっている。

天明3年(1783年)に堂宇を焼失、本堂は文政4年(1821年)の再建。平成4年(1992年)に屋根の葺替えを行っている。地蔵殿堂の扁額がかかるが、何だろう。本尊は薬師如来のはずだが。

立石寺 (3)
鐘楼は慶応元年(1865年)の再建。梵鐘はない。先の大戦で供出し、そのままなのかな。

立石寺 (4)
六地蔵は比較的新しい。

立石寺 (5)
双体道祖神。 平成8年(1996年)檀家の方の奉納。

立石寺 (6)
大正2年(1913年)建立の宝塔。

立石寺 (7)
立石寺には多数の仏像が安置されており、その内4体が藤岡市の重文に指定されている。指定仏像が安置されている宝物殿らしき建屋。

4体は、薬師如来立像(像高56.5cm、製造年代は室町時代と江戸時代初期の2説ある)、阿弥陀如来立像(像高77.5cm、鎌倉時代)、十一面観音立像(像高70cm、鎌倉時代)、不動明王像(像高98cm、鎌倉時代)。

本尊でもある薬師如来立像は酒井忠清の念持仏である。念持仏とは、個人が身辺に置き私的に礼拝する仏像のこと。また、不動明王立像の背面裾には「立石寺」の墨書があるみたいだが、後世の追加だと思う。不動明王像の製造年代と立石寺の創建と年代が合わないので。

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藤岡市下栗須の稲荷神社。

下栗須稲荷神社 (1)
下栗須稲荷神社 (2)
下栗須稲荷神社は文暦元年(1234~35年)の創建と伝わる。その後荒廃していたが、当地の豪族・金山図書之助が伊勢外宮から分霊として神鏡を受け再興したという。

下栗須稲荷神社 (3)
下栗須稲荷神社 (4)
下栗須稲荷神社 (5)
下栗須稲荷神社 (6)
社殿は天正16年(1588年)焼失、宝暦2年(1752年)に再建されている。これが現在の社殿とされる。最近では、平成4年(1992年)に改修されている。

下栗須稲荷神社 (7)
神楽殿。比較的新しい。

下栗須稲荷神社 (8)
下栗須稲荷神社 (9)
社殿右に境内社の諏訪神社。左には他の境内社(末社)がまとめられている。

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藤岡市中大塚の大慈悲山千手寺。

千手寺 (1)
千手寺 (2)
千手寺は小林五郎左衛門尉重義の守本尊である千手観音像(約5cm余り)を、重義の死後に木像の胎内に納め、小堂を作り安置したのが始まり。その後、貞享5年(1688年)法印快照を住職として招き、寺院として整備が進んだ。

千手観音像は聖徳太子の作といわれるが、大正12年(1923年)の調査で、実は不動明王像と判明(年代不詳)。小さい像なので、見間違ったのだろうけど・・・。守本尊を納めた木像は、千手観音なのかな?

山門は相当老朽化しており、倒壊を心配するほどの状況。扁額も、こういうデザインと言うより、ムシに喰われたと思われる。

千手寺 (3)
千手寺 (4)
千手寺 (5)
山門をくぐるとすぐに観音堂。千手寺は南毛霊場多野藤岡三十三観音の第7番札所。堂内を覗くと厨子が見えた。ただ中はホコリまみれで、観音霊場の面影はない。観音様もどんな状況になっていることかと心配してしまう。

千手寺 (6)
本堂も老朽化が進んでいる。無住とは言え、山門・観音堂含めもう少し手当をした方がいいのでは。

千手寺 (7)
元文2年(1737年)建立の宝篋印塔。

千手寺 (8)
境内の小林家の歴史を記した碑。

小林重義は秩父平氏の出で、小林氏は高山氏の分家にあたる。天文10年(1541年)関東管領・上杉憲政の信濃出兵時に討死。子孫は当地に土着している。小林家は代々名主などを務め、近年では村長や県会議員を輩出している。

千手寺 (9)
千手寺 (10)
千手寺 (11)
千手寺を囲むように土塁・空堀がきれいに残っており、昔はすごいお寺だったのかなぁと思ったら、ここは小林家の居館・中大塚城の遺構だった。それにしても、ここまできれいに遺構が残っている城郭(居館)跡には、めったにお目にかかれない。千手寺の北西が主郭(本丸)で、そこには現在も小林家の住居がある。

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藤岡市緑埜の美国神社。

美国神社 (1)
美国神社 (2)
美国神社は加賀国(現石川県南部)の白山比咩神社を勧請し、白山神社として創建した。明治43年(1910年)に飯玉神社を合祀したときに美国神社と改称している。武家に深く信仰され、平井城の鬼門除けであったと伝えられている。そのため、創建年は不詳だが室町時代以前より当地の鎮守を兼ねていたと思われる。

美国神社 (3)
参道には多数の道祖神が並んでいる。これは当地の堀口伝兵衛貞明が万延元年(1860年)に発願し、自分の屋敷周辺の路傍に建てたもの。明治に入り道路に建てることが禁止されたため、美国神社などに移している。49基が現存しているが、そのうち45基が美国神社に置かれている。

美国神社 (4)
美国神社 (5)
美国神社 (6)
社殿は天保14年(1843年)の再建。緑埜が生んだ女流画家・斎藤香玉の母・こうが寄進している。平成8年(1996年)に屋根の修復を行っている。

美国神社 (7)
修復前の屋根に乗っていた(と思われる)瓦が置いてあった。飾るわけでもなく、奉納するわけでもなく、ただ置いてある。

美国神社 (8)
拝殿の天井格子絵は斎藤香玉の手によるといわれる。天井絵には「椿山」の名も見える。椿椿山(つばきちんざん)のことで、香玉の師匠。母が寄進した拝殿に、娘が師匠とともに絵を供したことになる。

美国神社 (9)
社殿裏の一段高いところに石祠があった。昭和27年(1952年)の建立。奥の院? ただ、この石祠は社殿と逆を向いている(北向)。あと、ここは古墳かな。社殿も参道から一段高いし。

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藤岡市高山の御霊神社。

御霊神社 (1)
高山御霊神社は天平5年(733年)の勧請と伝わる。上野国神名帳記載の緑埜郡荒御玉明神とされ、約1300年の歴史を誇る古社である。

御霊神社 (2)
三名川にかかる五料橋がご神橋のような感じ。

御霊神社 (3)
御霊神社 (4)
一ノ鳥居は昭和59年(1984年)の建立。鳥居前や参道に置かれている石は何だろう。何かの謂れがある?

御霊神社 (5)
御霊神社 (6)
石段を登ると二ノの鳥居と社殿。二ノの鳥居も昭和59年の建立。一ノ鳥居に比べると新しく見えるけど。狛犬は昭和10年(1935年)の奉納。日露戦争30年を記念し、従軍された方が奉納したようだ。

御霊神社 (7)
御霊神社 (9)
社殿は兵火で度々焼失し、現在のものは寛政4年(1792年)の再建。大正7年(1918年)、昭和59年に改築・改修されている。

高山御霊神社のご祭神は磐余彦命(神武天皇)だが、鎌倉権五郎を祀るとの伝承もある。鎌倉権五郎が当地の黍(きび)畑で眼を射られたことから、御霊神社の氏子は一切黍を作らず、もし黍を作ればその家は絶えるといわれている。藤岡市高山と鎌倉権五郎の接点はよく分からない。(鎌倉権五郎に関しては「鎌倉権五郎景正を祀る -五郎神社-」参照)


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高崎市吉井町黒熊の三木市右衛門の墓。

三木市右衛門の墓 (1)
上信越自動車道北側の側道脇にある墓地に標柱が立っている。

三木市右衛門の墓 (2)
三木市右衛門の墓 (4)
三木市右衛門の墓。

市右衛門は当地を領していた旗本・倉橋内匠の圧政に耐えかねた農民の代表として幕府への直訴に及び、投獄・所払いの罰を受けた旧黒熊村の名主。

緑埜村(藤岡市)の名主・堀越三右衛門が、寛文7年(1677年)にまず直訴に及び成功したが、同年に死罪となる。しかし、倉橋内匠は懲りずに過酷な年貢取り立てを止めなかったため、市右衛門が翌年に2度目の直訴に及んだ。残念ながら事前に露見し、8年間の投獄の末、所払いとなる。

しかし2人の身を捨てた訴えにより、年貢を減らす処置がとられ、倉橋は追放となっている。

関連
 「義民・堀越三右衛門の墓
 「義民・堀越三右衛門、三木市右衛門を祀る -光心寺-

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高崎市吉井町黒熊の黒熊山延命寺。

延命寺 (1)
延命地は文禄元年(1592年)の創建と伝わる。

延命寺 (2)
慶長元年(1596年)に焼失、翌年順慶法師が再建している。室町時代の作とされる一木彫りの勢至菩薩像(像高37cm)がある。本尊は薬師如来なので、阿弥陀三尊の脇侍と思われる勢至菩薩像は、もともと別寺のものか。

延命寺 (3)
延命寺 (4)
延命寺 (5)
墓地の宝篋印塔と五輪塔。宝篋印塔のひとつには元文3年(1738年)の紀年名が読み取れた。

延命寺 (6)
明治7年(1874年)には黒熊小学校(現入野小)が置かれた。現在も境内にブランコや滑り台などの遊具が設置されている。

延命寺の院号は地蔵院と言い、境内に地蔵菩薩を祀る地蔵堂があるとのことだったが、それらしきお堂は見あたらなかった。見逃したかな。

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高崎市吉井町多比良の新堀城跡。

新堀城跡 (1)
新堀城は多比良城とも呼ばれ、平井城(藤岡市)の別城であった。築城年代は不明だが、多比良氏の居城だった。多比良氏についてはよく分からないが、吾妻鏡に多比良小次郎の名が見えるので、鎌倉時代から当地に根付いていたと考えられる。

新堀城跡 (2)
現在は畑が拡がっており、素人のオレには遺構らしきものは見分けられなかった。

新堀城は平井城の背後を守る城であると同時に、関東管領・山内上杉氏の宝物を保管する宝物城であったとされる。永禄6年(1563年)の武田信玄の西上州攻略時に落城・焼失。

時の城主・多比良友定は「上杉家の宝物を信玄に奪われては末代までの恥。今日は北風が強いので火をかけて焼いてしまおう。自分は宝物が焼けるのを見届けて自害する」と言い火をかけたとされる。多比良氏方は全滅したと伝わる。

地元には、宝物に関する伝説が残っている。「朝日さす 夕日かがやく 楠のふもとに 小判千枚朱が千枚」との宝のありかを示すような歌が伝わっている。当時、大手門横に楠の大木があり、30日も焼け続けたといわれている。この楠(跡)の下に埋まっている?

また、堀の北西端の外に「殿様井戸」と呼ばれる古井戸があり、落城時に宝物を投げ込んだともいわれる。もちろん現在井戸は埋まっているが、今も水が湧き出ているという。

新堀城自体は、武田氏の後、織田氏(滝川一益)、北条氏と城主が変わったが、豊臣秀吉の北条攻め(天正18年:1590年)により廃城となっている。

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高崎市吉井町多比良の瑠璃山普賢寺。

普賢寺 (1)
普賢寺は延喜年間(901~23年)に比叡山13世座主・法姓坊尊意が当地で修行中に開山したという。明治末から大正年間に、近隣の柳谷阿弥陀堂、諏訪前観音堂、西浦大日堂などを合併。昭和30年(1955年)には清瀧寺、瀧の前観音堂を合併している。

普賢寺 (2)
普賢寺 (3)
堂宇は永禄6年(1563年)の武田信玄の西上州攻略時に焼失(直接は新堀城落城時の火災)。貞享年間(1684~87年)に再建されている。現在も本堂下や付近を掘ると、焼けた瓦や土が出てくるという。(関連「武田信玄の陣城跡 -天久沢観音堂-」)

普賢寺 (4)
普賢寺 (5)
鐘楼は昭和13年(1938年)の再建。梵鐘は先の大戦中に供出されたが、再鋳されている。

普賢寺 (6)
境内の宝篋印塔。相輪部がない。寛保3年(1743年)の銘が見て取れた。

普賢寺 (7)
普賢寺 (8)
境内の天満宮。中には天神様(菅原道真)と思われる像がおられる。祠は平成20年(2008年)の新築建立。合併された清瀧寺から遷されたもの。

清瀧寺は菅原道真ゆかりの寺で(真偽不明だが)、境内には道真が幼少時に苦学したところと伝わる「天神の井戸」があった。また、道真直筆とされる法華経が伝わっており、これも普通賢寺に移されている。

ついでの話として、清瀧寺の本堂は昭和31年(1956年)に神流町(当時は万場町)柏木の大林寺に移築されている。
(「255年間土中に埋まっていた銅鑼 -大林寺-」参照)

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高崎市新町の竹本百合太夫の墓。

竹本百合太夫の墓
義太夫界の大家・竹本百合太夫の墓。
百合太夫は文政年間(1818~31年)に新町に来て、横山家(屋号・金子屋)の養子となり、義太夫の師匠として天保3年(1832年)に没している。享年51。

竹本土佐太夫&百合太夫の墓
すぐ隣(向かって左)には、太夫・竹本土佐太夫の墓がある。
(「義太夫節の太夫・竹本土佐太夫の墓」参照)

新町を中心に、多野藤岡地域では義太夫が盛んに行われるようになり、また著名な太夫も輩出している(藤岡出身の6代目・大西東造、吉井出身の7代目大西東造など)。これは江戸で活躍した百合太夫、土佐太夫が晩年を新町で過ごしたことが大きな要因である。

実は竹本土佐太夫の墓を訪問したとき、隣に百合太夫の墓があることは知っていたのだが、百合太夫の墓との確証が持てなかったので、紹介していなかった。今回、夫人の名が調べられ、墓石にその名も確認できたので紹介した。

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