Tigerdreamの上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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高崎市新町の竹本土佐太夫の墓。

竹本土佐太夫の墓 (1)
義太夫節の太夫である竹本土佐太夫の墓。
竹本土佐太夫は初代から7代目までいるが、3代目だと思う。江戸末から明治の人で、晩年を新町で過ごしている。

竹本土佐太夫の墓 (2)
左側面に「播州池田米屋町 加茂屋利兵衛倅 竹本土佐太夫」とある。

義太夫節は竹本義太夫が始めた浄瑠璃の一種。ビートたけしの祖母が女義太夫の太夫だったと「たけしくん、ハイ!」(ビートたけし著)で読んだ記憶がある。

ところで竹本土佐太夫の墓は、旧多野郡新町の重文に指定されていたようだが、高崎市に合併後の重文にはなっていない。なぜ?

山崎栄造の墓
同じ墓地内にある山崎栄造の墓。
群馬県医学校(現群馬大医学部)の初代校長・大久保適斎が、明治27年(1894年)に行った群馬県内初の人体解剖に身体を提供した人物。大久保に恩があった山崎が申し出たといわれる。

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高崎市倉渕町権田の長井石器時代住居跡。

長井石器時代住居跡 (1)
長井石器時代住居跡は縄文時代後期の遺跡で、平らな石を巧みに敷き詰めた住居跡。標高550mにあり、約9度の勾配を持った南西向きの傾斜面に位置し、昭和28年(1953年)に開田作業中に発見されている。

長井石器時代住居跡 (2)
長井石器時代住居跡 (3)
1辺3mの隅丸方形に石を敷き並べ、西側に張り出しを持つ柄鏡形の敷石住居である。中央には90cm×60cm方形の石囲炉がある。

炉の北西70cmほど離れたところにも方形の石組みを備えている。これは底面にも板石が敷かれており箱状になっているが、炉石のような火熱を受けた痕跡がなく、祭祀的な施設と考えられている。

住居内から壺状の土器、石棒片、磨製石斧などが出土している。

覆屋のガラス面に張り紙があり(1枚目写真参照)、そこには「マムシ注意」の文字が。覆屋周りは草が伸びており、けっこうビビりながらの見学だった。

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高崎市上里見町の橋場の地蔵尊。

上里見橋場の地蔵尊 (1)
上里見橋場の地蔵尊 (2)
橋場の地蔵尊(坐像)は宝暦14年(1764年)の建立で、総高は210cmの大きさ。傍らにある同型像が破損したため、再建されたようだ。信州高遠の石工の作で、旧榛名町内で最大規模を誇る。

当地は旧榛名街道の渡河点があったところ(だから「橋場」)で、草津信州道と榛名街道の分岐点にあたる。往来の旅人の安全を祈願して建立されたと考えられる。

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高崎市倉渕町三ノ倉の藤鶴姫の墓。

藤鶴姫の墓 (1)
永禄9年(1566年)の箕輪城落城の際、長野業盛夫人・藤鶴姫は家来とともに城を脱出。藤鶴姫は上杉家の出であったため越後を目指したが、当地(高野谷戸)までたどり着いたところで、「オーイ」と呼ぶ家来の声を追手と思い違い自害したといわれる。

藤鶴姫の墓 (2)
家来は当地に藤鶴姫を埋葬、墓を造り供養したと伝わる。

藤鶴姫は19歳のたぐい稀な美貌の姫とされる。墓を穢すと鼻血が出るといい、厚く礼拝すると美人になるとの言い伝えがある。

業盛の子・亀寿丸(2歳)は家臣と落ち延び、和田山極楽院に匿われ後に出家して鎮良と名乗り、極楽院2代目の院主になったという。事実とすれば、藤鶴姫も亀寿丸と一緒に極楽院に逃げればよかったのにと思う。

ところで、藤鶴姫を長野業盛の父・業正の夫人とする説もある。藤鶴姫の墓は高崎市(旧倉渕村)の重文になっているが、名称は「箕輪城主夫人 藤鶴姫の墓」となっている。曖昧な名称だが、説明文を読むと業正夫人とある。

一方、現地の解説板(「藤鶴姫墓所の由来」地元関係者一同)には業盛夫人とある。業盛夫人説、業正夫人説のどちらも明確な根拠が有るわけではない。

今回、業盛夫人説をとったのは、落城時19歳なら業盛夫人だろうということもあるが、「姫」と呼ばれているから。前城主(業正)夫人なら、それなりの歳だろうし「◯◯の方」と呼ばれるかなぁと思ったので。

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渋川市赤城町上三原田の歌舞伎舞台。

上三原田の歌舞伎舞台 (1)
上三原田の歌舞伎舞台 (2)
上三原田の歌舞伎舞台は、大工の永井長治郎が上方に修行に行き、帰郷後の文政2年(1819年)、天竜寺境内に建築したと伝えられている。明治15年(1882年)に現在地に移築されている。

舞台の特徴は、三方の板壁を外側に倒して、舞台面を2倍以上の広さにするガンドウ機構。舞台の奥に遠見と呼ぶ背景をつけ、奥行きを深く見せる遠見機構。平舞台いっぱいの回転部を回転させる柱立式廻転機構。二重と呼ぶ小舞台を天井・奈落の双方からせり上げ、せり下ろすセリヒキ機構。これらの機構は全国に例を見ない特殊な機構となっている。

上三原田の歌舞伎舞台 (3)
この舞台での歌舞伎公演は途中何度か中断されたが、地元伝承委員会による舞台操作技術の伝承と古典芸能保存会による地芝居の復活により、現在も歌舞伎が公演されている。

写真は歌舞伎舞台前に設置されている平成13年(2001年)の公演の様子。

上三原田の歌舞伎舞台 (4)
今年(2018年)の公演は11月25日に開催され、こども歌舞伎や農村歌舞伎が上演される予定である。また、来年(2019年)は歌舞伎舞台が作られてから200年にあたる。何か特別な催し物があるかも。

ところで、tvk(テレビ神奈川)が制作し、GTV(群馬テレビ)でも放送されている「キンシオ」って知ってる? イラストレーターのキン・シオタニが街ブラをする番組で、現在は「一文字地名の旅」(関東各地の漢字一文字の地名辺りをブラブラする)というコーナーが中心になっている。それで、渋川市赤城町樽が取り上げられたとき、この歌舞伎舞台を時間を割いて紹介していた。マイナーなローカル番組だけど、けっこう面白いよ。GTVでは月曜の夜11時から放送中。


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渋川市中郷の菅原神社。

中郷菅原神社 (1)
中郷菅原神社 (2)
中郷菅原神社の創建年は不詳であるが、元亀2年(1571年)に真田幸隆が白井城を攻めた際、その兵火で焼失したといわれていることから、それ以前の創建と考えられている。

中郷菅原神社 (3)
中郷菅原神社 (4)
中郷菅原神社 (5)
鳥居をくぐると、すぐにご神橋。池には祠がある。水神様かな。

中郷菅原神社 (6)
けっこう急な石段。

中郷菅原神社 (7)
中郷菅原神社 (8)
中郷菅原神社 (9)
中郷菅原神社 (10)
本殿は別当寺(長泉寺)の亮順が貞享3年(1686年)に再建したという。近年では、平成22年(2010年)に大改修が行われている。本殿は、和様・唐様の折衷様式の一間社流造りで、旧子持村内に現存する神社では最古の建築物とされる。

中郷菅原神社の由緒は、境内の由緒碑(旧子持村設置)から引用したが、真田幸隆が白井城を攻略したのは永禄10年(1567年)で、元亀2年に白井城を攻めたのは真田昌幸(幸隆3男)という説もあり。

まあ、中郷菅原神社の歴史的価値には何も関係ないことだけど。

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渋川市北牧の中ノ峯古墳。

中ノ峯古墳 (1)
中ノ峯古墳 (2)
中ノ峯古墳は傾斜面に築かれた直径9m、高さ1mの円墳。6世紀初めの榛名山噴火による火山灰層の上に造られ、6世紀中ころの榛名山噴火による軽石層に埋もれていた。地学上から築造年代の分かる貴重な古墳。

中ノ峯古墳 (3)
中ノ峯古墳 (4)
中ノ峯古墳 (5)
石室は自然石乱石積の袖無型横穴式で、全長5m・埋葬部長3m。人骨5体、直刀2口、銀製飾金具、鉄鏃、玉類などが出土している。

昭和54年(1979年)軽石採取の際に偶然発見された。軽石層に埋もれていたため、きれいな原型をほぼとどめているのだが、季節がら草に覆われ残念ながらその形はよく分からず。草の枯れる秋から冬に訪れるのがいいと改めて認識。

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渋川市北牧の人助けのカヤ。

人助けのカヤ
天明3年(1783年)の浅間山の大噴火(浅間押し)による泥流が吾妻川を流れ下り、流域の村々を押し流し民家・田畑に大きな被害をもたらした。

旧北牧村も例外ではなく、多くの民家が流され人的被害もあったが(50名以上)、このカヤの木によじ登ることで、数十名が難を逃れることができた。そのため、後に「人助けのカヤ」と呼ばれるようになった。

「人助けのカヤ」は高さ13m、根本の周囲3.4mの大樹。樹冠は東西10m、南北8m。樹齢は約400年と推定される。カヤの木の下にある碑には、泥流で6m埋もれていると書かれていた(と思う)。碑の写真は撮って来るのを忘れた。

このカヤの木は実と葉からくさい匂いがすることから、地元の人々は「へだまの木」と呼んでいる。

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渋川市北牧の延寿山興福寺。

興福寺 (1)
興福寺 (2)
興福寺は慶長13年(1608年)空恵寺16世・斎香桂🌑の開山(🌑は見たことない漢字で読めない)。天明3年(1783年)の浅間押しにより流出。享和3年(1803年)に再建されている。

興福寺 (3)
再建本堂は嘉永6年(1853年)に火災により焼失。現在の本堂はそれ以降の再建で、昭和60年(1985年)に増改築、平成9年(1997年)に屋根の改修を行っている。

興福寺 (4)
興福寺 (5)
興福寺 (6)
六地蔵、大日如来坐像、慈母観音像。いずれも比較的新しそうだ。

興福寺 (7)
賑貸感恩碑。天明3年(1783年)の浅間押しの被害から立ち直った教訓と、幕府勘定吟味役・根岸九郎左衛門鎮衛の救済措置の恩恵を忘れないよう、浅間押しから47年目の文政12年(1829年)に建立したもの。

根岸は勘定吟味役として、河川改修、普請工事に才腕を振るったことから復興工事の巡検役に任命されたもの。後に勘定奉行、南町奉行に任命されている。

賑貸感恩碑は当地の浅間押しの被害の状況と、江戸時代の民政の一端を知る上で貴重な資料である。

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渋川市横堀の根本常南の墓。

根本常南の墓 (1)
根本常南の墓 (2)
根本常南は常陸国の出身で絵を好んで描いていたが、師事する師匠はなく宋画を手本としていた。若くして京都、江戸など諸国を巡り、後に仙台や鎌倉に滞在している。鎌倉では建長寺の誠拙禅師のもとで修行し、名を言成と改めている。

文化8年(1811年)上野国を訪れ、雙林寺に泊まって涅槃図(渋川市重文)を弟子の菅井梅関とともに完成させている。さらに同寺山門の格天井、榛名神社山門の格天井、その他の装飾画を手がけているうちに病にかかり、横堀宿升屋の寮で文化9年(1812年)に49歳で没している。

墓があるのは、元升屋の寮の庭先である。

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渋川市小野子の八木沢清水縄文時代住居跡。

八木沢清水縄文時代住居跡 (1)
八木沢清水縄文時代住居跡は昭和51年(1976年)に発見され、翌年の発掘調査により縄文時代から弥生・古墳時代に及ぶ住居跡、土坑などの遺構や石器・土器などの遺物が確認された。

特に、地表下1.5mの関東ローム層上面で発見された住居跡は、縄文時代草創期後半(約9000年前)のもので、群馬県内最古の竪穴式住居と判明した。

八木沢清水縄文時代住居跡 (2)
住居は直径約5mのいびつな円形で、当時の地面から50~60cmほど掘り込んで床面を作っている。床面には柱を立てたと考えられる直径20cm、深さ30cmほどの穴が16個あいている。

住居内に炉の跡はなく、また土が焼けた痕跡もないことから、まだ火をたく習慣(文化)が無かったことが分かる。

現在は標高460mの比較的高地だが、当時はもっと低地だったのではないかと思う。神流町の「恐竜の足跡」がある所が海だったといわれているので(1億年前の話だけど)。
(「恐竜の足跡!? -神流町恐竜センター-」参照)

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渋川市小野子の飯塚大学の石堂。

飯塚大学の石堂 (1)
飯塚大学は白井長尾氏の家臣で、白井城内の「白井の聖堂」で教学に当たったといわれ、「白井聖堂の教学の士」と尊敬を受けた。

石堂は飯塚大学が寛正5年(1464年)に没した後、関係者により天文17年(1548年)に建立された供養石堂。高さ141cm、幅88cm、奥行き88cm。前面に唐草文様、竪連子、幾何学的文様などが刻まれている。小野上地区の石堂では最古のもの。

飯塚大学の石堂 (2)
内部に像が安置されているが、人物像なのか仏像なのか分からない

飯塚大学の石堂 (3)
墓地内にある木の間の宝篋印塔(木の間は字名)。安永6年(1777年)の建立。

この墓地内には天明3年(1783年)浅間山の大噴火による泥流(浅間押し)で亡くなった方々の供養塔があるのだが、ちょっと草が生い茂っていて見つけられなかった。

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渋川市金井の岸豊後守積保の墓。

岸豊後守積保の墓 (1)
岸豊後守積保は享保20年(1735年)宮大工の家に生まれる。実技を祖父から伝授され、明和年間(1764~72年)には京都で卜部氏に学び、豊後守の号を授けられるまでになった。

棟梁として神社仏閣建造の指揮を執るとともに、多くの門弟を養成した。妙義神社の総門や伊勢崎市・宝憧院の本堂が代表作である。天明3年(1793年)49歳で没している。

岸豊後守積保の墓 (2)
積保の墓がある墓地は、旧寺院の墓所なのか岸家の墓所なのか不明だが、周りには立派な石塔や石仏が多くある。

関連
 「本殿の修理が完了しました -妙義神社 その2-
 「駒井政直・親直の墓 -宝憧院-

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前橋市(旧大胡町、旧宮城村、旧粕川村、旧富士見村)

前橋市富士見町・横室の大カヤ
前橋市粕川町・石造馬頭観音立像と笠かぶり地蔵尊
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膳城の守り神 -膳八幡神社-
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前橋市富士見町横室の大カヤ。

横室の大カヤ (1)
横室の大カヤは、地元旧家である金澤氏が寛延2年(1749年)に邸外に諏訪神社を祀り、そのご神木としたもの。諏訪神社自体は、明治40年(1907年)に地元の赤城神社に合祀されている。

横室の大カヤ (2)
横室の大カヤ (3)
樹高24.2m、根回り14.4mで、樹齢は1000年以上ともいわれる。日本三大カヤのひとつに数えられている。ちなみにもう2つは、「浜北の大カヤ」(静岡県)、「与野の大カヤ」(埼玉県)である。

かつては秋になると4石(約720リットル)もの実をつけ、食料にしたり油を絞るなどして、地域住民の生活を支えたといわれる。なお、現在もカヤ及び敷地は金澤氏の所有(私有地)のため、見学の際はマナーを守りましょう。

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