Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

訪問ありがとうございます。クリックしてもらえるとうれしいです♫ ⇒

Tigerdreamのまったりとスペシャル系」もよろしく! 


高崎市福島町の永光山金剛寺。

福島金剛寺 (1)
金剛寺は永享6年(1434年)恵裕上人の開山。永禄9年(1566年)箕輪城落城の際に焼失したが、箕輪城代となった内藤正豊が再建している。当時は字西浦北にあったが、江戸時代半ばに三国街道の整備に伴い現在地に移転。その後荒廃していたが、寛政元年(1789年)法印宗英が中興開山した。

福島金剛寺 (2)
福島金剛寺 (3)
福島金剛寺 (4)
門前には石祠、庚申塔、二十二夜塔、六地蔵などが整然と並ぶ。

福島金剛寺 (5)
本堂は平成27年(2015年)の新築建立。

福島金剛寺 (6)
弘法大師像。昭和58年(1983年)の造立。手前左には仏足石、右には不動明王像。山門に「修験道神変加持祈祷道場」と掲げられていることから、護摩行(加持祈祷)などを行っているかな。不動明王像はその関係か。

福島金剛寺 (7)
中興の法印宗英の墓(供養塔)。寛政元年(1789年)の銘がある。

福島金剛寺 (8)
福島金剛寺 (9)
福島金剛寺 (10)
本堂裏にある「顔切り薬師」。鳥居は平成3年(1991年)の建立。

福島金剛寺 (11)
お堂内には新旧6体の石仏があるが、後方右が「顔切り薬師」像。

福島金剛寺 (12)
福島金剛寺 (13)

「顔切り薬師」像は南北朝末から室町初期の造立と推定されている。この薬師像には次のような伝説が残っている。

江戸時代初期、当地に住み着いた夜盗が村内を荒らし回っていた。夜盗は次々と無理難題を吹っかけ、娘たちに乱暴を働くようにもなった。ある夜、夜盗が弘法ヶ池で沐浴する美女を襲ったところ、はね返されたので太刀で斬りつけた。翌日、池から寺まで血の跡が残っており、薬師像の顔が真横から切られていた。池では夜盗が口に菱を詰め込まれ息絶えていた。美女に姿を変え、顔を切られながらも村人を救ってくれた薬師さまを、村人たちは「顔切り薬師」と呼んで崇敬したという。

福島金剛寺 (14)
「顔き切り薬師」の後方には樫の木の巨木が薬師を見守っている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


みどり市

みどり市笠懸町・天神山古墳群3号墳
みどり市笠懸町・来迎阿弥陀三尊笠塔婆
みどり市笠懸町・青龍山清泉寺
新田義重の創建 ー鹿田赤城神社ー
みどり市笠懸町・金山神社
みどり市笠懸町・久永山長昌寺
みどり市笠懸町・西鹿田中島遺跡
みどり市笠懸町・中島の薬師如来
大和郡山藩主・本多政長夫妻の菩提を弔う ー長寿院ー
みどり市笠懸町・岩松山地蔵院
みどり市笠懸町・臥龍庵
二子山のご本尊ではないけど・・・ -寝釈迦像-
貧乏神・疫病神追放神社 -招福神社-
みどり市東町・太郎神社
プロモ動画があります -正福寺-
桐原地区の鎮守様 -八宮神社-
みどり市大間々町・遠之久保稲荷神社
梵字を刻んだ種子六尊の庚申塔 -みどり市・日輪寺-
弘法大師の開創 -南光寺-
柿薬師 -光栄寺-
古代人が闊歩した野山? -岩宿の里-
松島家の菩提寺 -松源寺-
閉館時間を過ぎていた・・・ -陶器と良寛書の館-
水彩の詩画を通して生命の尊さを語る -富弘美術館-
大間々・浅原の百観音
名誉県民・長谷川四郎元衆議院議員が眠る -世音寺-
はっきり言ってつまらない博物館 -岩宿博物館-
旧石器時代の存在を証明 -岩宿遺跡-
渡良瀬川・草木ダムと草木湖
童謡の父・石原和三郎 -童謡ふるさと館-
日本近代製鉄の父・今泉嘉一郎の生家
今泉嘉一郎の母校 -旧花輪小記念館-
珍しい水おみくじ -貴船神社-
未完成のお地蔵様 -角地蔵-
大間々・穴原薬師堂
樹齢1,000年(?)の大杉 -小平の大杉-
楠木正成の愛馬を供養? -岩穴観音-
大間々・庚申塔および大日如来像
岡登景能の墓 -国瑞寺-
江戸時代の年貢貯蔵庫 その2 -桐原郷蔵-
伝説の鍾乳洞? -小平鍾乳洞-
優雅に回る水車 -野口水車保存館-
山田氏および里見兄弟の墓
関東の耶馬溪 -高津戸峡-
大間々の鎮守 -大間々・神明宮-
コノドントって何? -大間々博物館-

このエントリーをはてなブックマークに追加


上州まったり紀行の中から「古墳・遺跡」に関するものをリスト化したもの。古墳に行くのが(見学するのが)主目的でない場合も含んでるけどね。


前橋市(旧郡部を除く)

今井神社古墳
正円寺古墳
桂萱大塚古墳
新田塚古墳
金冠塚古墳
亀塚山古墳
天神山古墳
天川二子山古墳
遠見山古墳
愛宕山古墳
荒砥富士山古墳
大室公園・前二子古墳
大室公園・中二子古墳
大室公園・後二子古墳
大室公園・小二子古墳
大室公園・M-1号古墳
八幡山古墳
蛇穴山古墳
宝塔山古墳
総社二子山古墳・保渡田二子山古墳


前橋市(旧大胡町、旧宮城村、旧粕川村、旧富士見村)

鏡手塚古墳
壇塚古墳
堀越古墳
上庄司原2号古墳&4号古墳
上庄司原1号古墳
九十九山古墳


伊勢崎市、佐波郡(玉村町)

東村46号墳跡
丸塚山古墳
十二所古墳
玉村町15号墳
一ノ関古墳
台所山古墳石棺
梨ノ木山古墳
お富士山古墳
雷電神社古墳
鶴巻古墳
権現山
軍配山古墳


渋川市、北群馬郡(吉岡町、榛東村)

いなり塚古墳
中ノ峯古墳
八木沢清水縄文時代住居跡
金井古墳
小室敷石住居跡
将軍塚古墳
虚空蔵塚古墳
中筋遺跡
黒井峯遺跡
滝沢古墳
三津屋古墳
南下古墳群・E号古墳&F号古墳
南下古墳群・C号古墳&D号古墳
南下古墳群・B号古墳
南下古墳群・A号古墳
滝沢石器時代遺跡


高崎市(旧郡部を除く)

漆山古墳
五霊神社古墳
桜塚古墳
少林山薬師塚古墳
少林山天頭塚古墳
八幡原A号及びB号石槨
剣崎長瀞西古墳
将軍塚古墳
上小塙稲荷山古墳
普賢寺裏古墳
不動山古墳
浅間山古墳
大鶴巻古墳
安楽寺古墳
三島塚古墳
若田原遺跡
観音塚古墳
山ノ上古墳
観音山古墳


高崎市(旧群馬町、旧箕郷町、旧榛名町、旧吉井町、旧新町、旧倉渕村)

多比良古墳(諏訪前古墳)
長井石器時代住居跡
恩行寺古墳
南高原1号古墳
片山1号古墳
金古愛宕山古墳
御穴塚古墳
多胡薬師塚古墳
保渡田薬師塚古墳
保渡田八幡塚古墳
総社二子山古墳・保渡田二子山古墳


安中市

龍的塚古墳
簗瀬二子塚古墳


富岡市、甘楽郡(甘楽町、下仁田町、南牧村)

高瀬26号古墳
粘土山古墳
伊勢塚古墳
太子堂塚(旅寝塚)古墳
北山茶臼山古墳
天王塚古墳
田篠しの塚古墳
堂山稲荷古墳
笹森古墳


藤岡市、多野郡(神流町、上野村)

原古墳
胴塚稲荷古墳
霊符殿古墳
諏訪古墳
戸塚神社古墳
平地神社古墳
中大塚縄文時代敷石遺構
平井地区1号古墳
皇子塚古墳
譲原石器時代住居跡
伊勢塚古墳
白石稲荷山古墳
七輿山古墳


太田市(旧郡部を除く)

巌穴山古墳
稲荷山古墳
塚廻り古墳群第4号古墳
茶臼山古墳
茶臼山古墳


太田市(旧新田町、旧尾島町、旧藪塚本町)

長楽寺遺跡1号墳跡
中原生品神社・敷石住居跡
長円寺古墳
北山古墳
西山古墳


桐生市

愛宕塚古墳
天神古墳
中塚古墳
普門寺遺跡


みどり市

天神山古墳群3号墳
長昌寺A号墳・B号墳
西鹿田中島遺跡
岩宿遺跡


館林市、邑楽郡(大泉町、板倉町、邑楽町、千代田町、明和町)

筑波山古墳
米山薬師古墳
堂山古墳
古海原前1号古墳
城之内古墳
山王山古墳


沼田市、利根郡(みなかみ町、片品村、川場村、昭和村)

梨の木平敷石住居跡
深沢遺跡配石遺構
矢瀬遺跡


吾妻郡(中之条町、長野原町、草津町、嬬恋村、東吾妻町、高山村)

四戸の古墳群
中山敷石住居跡

このエントリーをはてなブックマークに追加


みどり市笠懸町西鹿田の天神山古墳群3号墳。

天神山3号墳 (1)
天神山古墳群は、昭和52年(1977年)の道路改修工事の際に発見された6基の古墳群。石室の形態が竪穴式と横穴式の双方確認され、前者は6世紀後半、後者は7世紀中頃の築造と推定される。

6基の内、現在3号墳のみ保存されており、昭和58年(1983年)の調査で、竪穴式石室が確認されている。

天神山3号墳 (2)
天神山3号墳 (3)
すぐ上は墓地になっている。年代的に円墳だったと思うが、発見時には削平され墓地になっていたのだろう。

金網内に何があるのかと覗いて見たが、何? 状態。3号墳の石室は全長2.13m、幅0.7mなので、どうやら石室が保存されているような気がする。

天神山3号墳 (4)
いろいろ調べてみたら「みどり市地域文化財総合整備計画」という資料内に発掘時の写真があったので借用しました。ちょっと見づらいけど。

天神山3号墳 (5)
内部から直刀3本が発見されている。発見された直刀は、岩宿博物館に保存されている。みどり市には古墳が20基程度と少なく、出土品そのものが貴重である。こちらの写真はみどり市HPから借用。

ちなみに、この墓地の向かって右端に前回の「来迎阿弥陀三尊笠塔婆」がある。
(「みどり市笠懸町西鹿田・来迎阿弥陀三尊笠塔婆」参照)

このエントリーをはてなブックマークに追加


みどり市笠懸町西鹿田の来迎阿弥陀三尊笠塔婆。

来迎阿弥陀三尊笠塔婆 (1)
来迎阿弥陀三尊笠塔婆 (2)
来迎阿弥陀三尊笠塔婆は、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩と勢至菩薩)の来迎図を薄肉彫りした笠塔婆である。現在、笠石は失われている。天神山産出の凝灰岩製で、総高105cm(阿弥陀如来像は25cm、観音菩薩像・勢至菩薩像は各17cm)。阿弥陀如来は蓮華座で来迎印を結ぶ。鎌倉時代後期の造立と推定される。

来迎図は阿弥陀三尊が死者の魂を瑞雲に乗って迎えにくるのを表現したもの。死後に阿弥陀浄土に生まれ変わろうと願う、浄土信仰の高まりを示している。

浄土宗開祖・法然の弟子・智明が、法然から与えられた阿弥陀如来像を桐生まで持ち帰り崇禅寺を開いて以降、現在の東毛地区には早くから浄土信仰が広まっている(鎌倉時代初期)。(「智明上人の開創 -崇禅寺-」参照)

このエントリーをはてなブックマークに追加


みどり市笠懸町鹿の青龍山清泉寺。

清泉寺 (1)
清泉寺の創建年代は不詳だが、良尊和尚の創建と伝わる。寛永17年(1640年)俊海和尚の再興。再興の俊海が世良田・長楽寺の出のため、江戸時代は長楽寺末の「山五ヶ寺」として重要視されていた。

他の「山五ヶ寺」は、伊勢崎・華蔵寺、赤堀・大光寺、新里・善昌寺、国定・養寿寺。

清泉寺 (2)
本堂は文政5年(1822年)に焼失、同13年(1830年)に再建。昭和54年(1979年)に改築されている。

清泉寺 (3)
本堂前の人物像。誰なのか見てこなかった。台座に名前があるが、写真からは読み取れない。

清泉寺 (4)
清泉寺 (5)
六地蔵が2つあった。ひとつは平成16年(2004年)、一石六地蔵は昭和(年数読めず)の奉納。

清泉寺 (6)
「泉澤城戦没者之供養塔」というのがあった。泉澤城は鹿田山南麓(清泉寺付近一帯)に築かれた城。築城年代などは分からないが、金山城の支城となっていた。泉澤城のめぐる合戦があったのかな。

清泉寺 (7)
歴代住職の墓。この中に再興とされる俊海の墓はない。そのため、3世・俊鎮の再興との説もある。創建の良尊は享保7年(1722年)建立の供養塔がある。

ひとつだけ宝篋印塔があるが、俊賢大和尚とあった。入寂年が享保(1716~36年)と読めたので、良尊の供養塔を建てたのは俊賢かもしれない。

このエントリーをはてなブックマークに追加


みどり市笠懸町鹿の赤城神社。
背後の山が「鹿田山」というので鹿田赤城神社と呼ばれる。笠懸村誌(昭和62年:1987年)では山際赤城神社とされている。

鹿田赤城神社 (1)
鹿田赤城神社 (2)
鹿田赤城神社は新田氏の祖・義重が、三夜沢赤城神社の分霊を勧請したと伝わる。そうすると、平安末から鎌倉初期の創建か。

鹿田赤城神社 (3)
奥側の灯籠は昭和9年(1934年)に奉納。

鹿田赤城神社 (4)
鹿田赤城神社 (5)
鹿田赤城神社 (6)
こぶりな社殿の前に建つ狛犬は昭和3年(1928年)の奉納。

鹿田赤城神社 (7)
社殿裏に生品社、榛名社、菅原社、稲荷社などの境内社・末社群が並んでいる。

鹿田赤城神社 (9)
鹿田赤城神社のすぐ西側に地区公民館がある。その入口にも新しい鳥居が建っていた。公民館に駐車場があり、ここにクルマを停めればよかった。

このエントリーをはてなブックマークに追加


みどり市笠懸町西鹿田の金山神社。

金山神社 (1)
金山神社の創建は不詳。境内にあった由緒碑には創建のことは書かれておらず。この碑が残念ながら風化(摩耗)と雨シミで非常に読みづらく、読み落としがあったかもしれないが。

鳥居は金属製。由緒碑には「鳥居は元禄4年(1691年)奉納の石鳥居」と書かれているので、由緒碑建立(昭和53年:1978年)以降金属製の鳥居が建立されたようだ。

金山神社 (2)
社殿は一段高いところにある。

金山神社 (3)
金山神社 (4)
金山神社 (5)
社殿の創建などは不明。ご祭神(主祭神)は金山毘古命と金山比賣命。両神は鉱山(金属)の神とされるが、この地に鉱山でもあったのかな。まあ、他にも子孫繁栄や安産のご利益もあるけど。

金山神社 (6)
金山神社 (7)
境内社の蚕影神社。

金山神社 (8)
金山神社 (9)
社殿下は広くなっており、鉄棒や滑り台など遊具が設置されている。地域の子ども達の遊び場になっているのだろう。

このエントリーをはてなブックマークに追加


みどり市笠懸町西鹿田の久永山長昌寺。

長昌寺 (1)
長昌寺は天元元年(978年)慶範和尚の開山と伝わる。その後、寛永2年(1625年)に忠慶和尚の開山、当地領主の旗本・久永源兵衛重勝の開基で中興されている。創建から中興までの期間が長く、またその間の資料もなく、創建に関しては不明な点が多い。

長昌寺 (2)
長昌寺 (3)
本堂は天保11年(1841年)に焼失、同15年(1845年)の再建。昭和62年(1987年)に大改修が行われている。

天保の火災により、当時の住職は7日間の「遠慮」という処罰を受けたとの記録が残っている。「遠慮」とは江戸時代の軽微な刑罰。現在の「謹慎」かな。

長昌寺 (4)
長昌寺 (5)
境内の大日堂。大日如来を祀る。由緒は不詳だが、境外にあったものを明治期以降に合併、境内に移している。

長昌寺の墓地には2基の古墳がある(長昌寺A号墳・B号墳)。
長昌寺 (6)
A号分は径17m、高さ2.5mの円墳で、7世紀前半の築造と推定される。墳丘を囲むように石仏や庚申塔が多数並べられている(もちろん後世の手による)。

長昌寺 (7)
墳丘上には五輪塔、層塔がある。

長昌寺 (8)
B号分は径20m、高さ2mの円墳で、6世紀後半の築造と推定される。

長昌寺 (9)
墳丘は削平されており、歴代住職の墓になっている。

地方を領有している旗本って、領地からむしり取るイメージしかなかったが、久永氏は長昌寺を開基しただけでなく、脇差し一振りを寄進している。その脇差しはみどり市の重文になっている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


みどり市笠懸町西鹿田の西鹿田中島遺跡。

西鹿田中島遺跡 (1)
西鹿田中島遺跡は縄文時代草創期(約1万3千年前)の集落遺跡。東日本における縄文時代の定住生活や、その具体的な内容を知る上で重要な遺跡として、平成16年(2004年)に国の史跡に指定されている。

現在は「西鹿田中島遺跡史跡公園」として整備されている。

西鹿田中島遺跡 (2)
西鹿田中島遺跡 (3)
集中部Cと土坑群との解説板があった。知識がなくよく分からないが、集中部Cと呼ばれる場所からは、長脚鏃(ちょうきゃくぞく:やじりの一種)などが見つかっている。

75号土坑(写真)はフラスコ型で、木の実などの貯蔵に適した形をしているという。

西鹿田中島遺跡 (4)
第11号住居跡。ここからは多縄文系土器や石鏃を作った時の未製品の石くずが見つかっている。

西鹿田中島遺跡 (5)
西鹿田中島遺跡 (6)
西鹿田中島遺跡 (7)
立派なガイダンス施設もある。史跡公園の来場者が休息できたり、西鹿田中島遺跡についてより深く学習できるよう史跡の解説、出土品や縄文時代草創期の景観を復元した展示模型、史跡の解説映像などが置かれている。

実際には中に入っていないので、中の写真はみどり市のHPから拝借してます。

西鹿田中島遺跡 (8)
遺跡から見た赤城山。赤城山は縄文時代には噴火も収まり、現在とほぼ同じ形状(裾野など)をしていたと考えられるので、縄文の人々もこの赤城山をみていたのかなぁ。なんて考えると感慨深い。

このエントリーをはてなブックマークに追加


みどり市笠懸町西鹿田の中島の薬師如来。

中島の薬師如来 (1)
中島の薬師如来 (2)
中島地区の薬師堂内に2基の薬師如来が祀られている。

中島の薬師如来 (3)
向かって左の薬師如来像は、安山岩製で像高46cmの半肉彫坐像。光背上部は欠損している。右手を上げ掌を外側に向けた施無畏印を結び、左手には薬壺を持っている。戦国時代の造立と考えられ、みどり市指定の重要文化財となっている。

右側の薬師如来については情報がなく分からない。見た目の感じとして、もう少し造立年代は新しいようだ。

2基の薬師如来は目(眼)の神様として、地域の人々の信仰を受けている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


気がついたらPV数が100万回を超えていた。2010年にブログを開設して以来、もうすぐ丸10年。訪問していていただいた方々のおかげです。

巷の人気ブログのように1万PV/日なんて訳にはいかないが、コツコツ積み上がった数値には満足感がある。まあ、PV数などはオレの自己満でしかないのは良く分かっているけどね。

途中でOCNブログからライブドアブログに引っ越しをしているので、正しい数字ではないかもしれないが、それでもよくここまでと思う。それにブログを10年続けられているということも、自分としては驚きではある。

もともとは「まったりとスペシャル系」としてスタートし、2015年にその中の「上州まったり紀行」「上毛かるた紀行」を分離・独立させ、「上州まったり紀行」として再編したもの。PVカウントは「上州まったり紀行」で引き継いでいる。

「上州まったり紀行」分離後の「まったりとスペシャル系」も存続させており、それなりに記事を更新している。「Tigerdream のまったりとスペシャル系

これからも群馬県各地の神社仏閣、古墳・遺跡、史跡などを訪問・紹介していくので、よろしくお願いします。

このエントリーをはてなブックマークに追加


みどり市笠懸町阿佐美の高松山長寿院天龍寺。

長寿院 (1)
長寿院は室町時代の創建と伝わる阿弥陀堂を当地に移し、延宝8年(1680年)阿弥陀堂住職・天龍禅師の開山、大和郡山藩主・本多家の開基。

長寿院の創建には次のような経緯がある。
延宝7年(1679年)大和郡山藩主・本多政長が死去。天龍禅師が本多家の江戸屋敷に奥方を訪ねお悔やみを申した際、奥方から政長を弔うため一堂を建立してくれと頼まれた。その上で、2尺余り(60cm強)の地蔵菩薩像を賜った。その奥方も政長の後を追うように同年に死去。

そこで阿弥陀堂を移し、政長の院殿号「高松院殿」、奥方の院殿号「長寿院殿」と天龍禅師の法名から「高松山長寿院天龍寺」とした。

本多政長は徳川四天王・本多忠勝の5世孫。奥方は土佐藩主・山内忠豊の娘。忠豊は有名な山内一豊の孫。天龍禅師は山内家と縁の深い湘南禅師の弟子。その関係で、天龍禅師は政長奥方にお悔やみを言いに行ったようだ。

長寿院 (2)
長寿院 (3)
長寿院 (4)
本堂は明和2年(1765年)の建立。寛政12年(1800年)、嘉永6年(1863年)などに改築・改修。もちろん以降も修築が行われている。昭和41年(1966年)に屋根を瓦葺きにしている。

本尊は阿弥陀如来。政長奥方から賜った地蔵菩薩像は、現在も本堂に安置されているという。写真ではよく分からないけど。

長寿院 (5)
歴代住職墓地にある開山・天龍禅師の墓。

長寿院 (6)
長寿院 (7)
長寿院 (8)
境内の竹沢薬師。由緒などは不明。以前は長寿院の東400mのところにあったが、寛政12年(1800年)に長寿院境内に移されている。厄除け薬師として地域住民から信仰されている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


みどり市笠懸町阿佐美の岩松山地蔵院延寿寺。

地蔵院 (1)
地蔵院は寛文年間(1661~73年)南光寺4世・良栄上人が同寺境内にあった地蔵堂を移して開山。

南光寺は慶長年間(1596~1615年)に赤石永真が中興しているが、赤石氏は新田岩松氏の家臣であった。地蔵院の山号が「岩松山」なのは、地蔵院の創建にも赤石氏が開基的な役割を果たしているのではないだろうか。

地蔵院 (2)
地蔵院 (3)
境内入口に大きな不動明王像がある。「岩宿不動尊」とある。プレートに新田氏家紋の大中黒・新田一つ引が書かれている。

地蔵院 (4)
地蔵院 (5)
本堂は嘉永6年(1853年)に南光寺16世・螢幢上人が隠居する際に建立。この頃には地蔵院は南光寺住職の隠居寺となっていたようだ。

現在の本堂は平成17年(2005年)の新築建立。屋根の鴟尾が光り輝いている。

地蔵院 (6)
本堂前には宝塔、供養塔や石仏がまとめられている。

地蔵院 (7)
中央の宝塔は延享元年(1744年)の造立。

地蔵院 (8)
歴代住職の墓地。前列中央は開山の良栄上人。

天文年間(1532~55年)に岩松氏は横瀬氏(後の由良氏)の下克上にて没落したが、そのころ赤石氏の先祖・赤石筑後も横瀬氏によって金山城外で切腹させられたと伝わる。以降、赤石氏は当地に土着したと考えられる。

このエントリーをはてなブックマークに追加


みどり市笠懸町久宮(くぐう)の臥龍庵。

臥龍庵 (1)
臥龍庵は元禄9年(1696年)国瑞寺開山の独湛禅師の創建と伝えられる。ただ、独湛は天和元年(1681年)までには笠懸を離れているので、創建は国瑞寺2世・大梁和尚と考えられる。

臥龍庵 (2)
臥龍庵 (3)
臥龍庵 (4)
創建当初は質素な庵室のみであったが、宝暦8年(1758年)に久々宇村名主・高橋十兵衛が自分の所有地を提供し本堂を建立している。

「臥龍庵」以外に「四天王尊」の扁額も掛かっているが、享和元年(1801年)に四天王像を安置している。四天王は諸病を治す霊験があるとされ、参拝者が絶えなかったという。そのため従前地(字元庵)では手狭になったため、天保7年(1837年)に現在地(字西浦)へ移転している。

臥龍庵 (5)
本尊の観音菩薩像と四天王像。

臥龍庵 (6)
本堂脇の庚申塔や供養塔。

久々宇村は武州(埼玉県)本庄近郊の利根川沿岸にあり、利根川の氾濫に度々遭遇し難渋していた。そこで岡登景能が開発した笠懸野に希望者を移住させて、新たに笠懸野の「久々宇村」としたと伝えられている。埼玉・久々宇村は現在本庄市になっている。

寛文年間(1661~73年)の記録には「久々宇村」の名は見られないので、それ以降の臥龍庵創建(元禄9年)までに移住が進み、村が形成されたと考えられる。

久々宇村には阿弥陀堂があったが焼失してしまったため、村人が国瑞寺に臥龍庵の創建を依頼したという。移住してきて、何かと苦労があったと思われるので、何か信仰できるものが欲しかったと言うことかな。

このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ