Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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藤岡市譲原の子宝神社。

子宝神社 (1)
子宝神社 (2)
子宝神社は譲原地区が旧三波川村から分離し「村」になる時に、三波川村の総鎮守である姥神社から分祀したのが始まり。その際「姥」に対して「子宝」にしたといわれる。
(姥神社は「三波川村の総鎮守 -姥神社-」参照)

譲原村が三波川村から分離したのがいつかは分からなかった。地名の由来は慶長8年(1603年)に当地を関東郡代・伊奈忠次に「譲り渡した」ことからとされる。忠次は現玉村町周辺の新田開発を行ったことでも知られる。

子宝神社 (3)
写真のイメージよりも急な石段。実は一気に上れずに途中休憩したほど。

子宝神社 (4)
子宝神社 (5)
子宝神社 (6)
余り広くない境内に、こじんまりとした社殿が建っている。平成14年(2002年)に改修が行われている。

子宝神社 (7)
子宝神社 (8)
本殿も以前は彩色され、壁画も描かれていたことを想像させる。

子宝神社 (9)
子宝神社 (10)
舞台かな。中には数枚の奉納絵馬が掲げられていた。写真の絵馬には文政(1818~31年)の文字が見える。

子宝神社のご祭神は大穴牟遅神(おおあなむのかみ)である。分祀したという姥神社のご祭神は石凝姥命(いしこりどめのみこと)と異なっている。詳細は分からない。大国主が縁結びの神ともいわれるので、子宝の名からそうなった?

まあ細かいことは別にして、子宝神社って名前は素晴らしいね。

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藤岡市三波川の琴平神社。

三波川琴平神社 (1)
三波川琴平神社は明治21年(1888年)新井岡五郎氏創建の御嶽教神社。同氏は少年期に物乞いの姿で当地に現れた琴平大神から、直々に神技を伝授されたといわれる。現在も新井家が管理している。

三波川に掛かる朱色の欄干が目に付く「瀧乃橋」。

三波川琴平神社 (2)
三波川のかなり上流になるので、川幅も狭い。と言うか沢程度の流れ。

三波川琴平神社 (3)
三波川琴平神社 (4)
明治22年(1889年)には奥の院にあたる雨降山を開山し、山頂付近に御嶽三柱大神を祀り山岳道場としている。

三波川琴平神社 (5)
創建者かと思ったら、創建者のお孫さんらしい。平成元年(1989年)の建像。

三波川琴平神社 (6)
湧き水が引かれていた。

三波川琴平神社 (7)
三波川琴平神社 (8)
二の鳥居以降、ちょっときつめの石段。

三波川琴平神社 (9)
三波川琴平神社 (10)
三波川琴平神社 (11)
社殿の建立年は不詳だが、創建と同時の建立かな。

奥の院のある雨降山は、東西御荷鉾山の東麓にあたる1012.5mの比較的低い山(この辺りでは)でハイカーも多い。5月の山開き時には、火渡り護摩の神事が行われる。

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藤岡市三波川の堅固山金剛寺。

三波川金剛寺 (1)
三波川金剛寺は養老2年(718年)行基の開基と伝わる。天長3年(826年)弘法大師(空海)が教化の道場とした。そのため、平安時代末には醍醐三宝院の中本寺として、末寺39寺を有していたという。創建は御荷鉾山であったが、山崩れなどのため現在地へ移っている。

三波川金剛寺 (2)
山門前の六地蔵。

三波川金剛寺 (3)
三波川金剛寺 (4)
寛文5年(1665年)の火災により堂宇は焼失。宝暦3年(1753年)に再建されている。その後、本堂は昭和24年(1949年)に老朽化により解体。長きに渡り仮本堂だったが、昭和57年(1982年)に現在の本堂を新築建立。

三波川金剛寺 (5)
三波川金剛寺 (6)
境内の不動堂。近年の建立と思われる、本尊は大同2年(807年)弘法大師作と伝わる。

三波川金剛寺 (7)
本堂裏の「十三仏積庭石」というもの。十三仏がいるのかなとと思って一生懸命探したが、写真の1体しか見つけられなかった。

三波川金剛寺 (8)
三波川金剛寺 (9)
三波川金剛寺 (10)
本堂裏山にお堂があり、「厄除 弘法大師」とあった。中には石仏があり、風化していてのっぺりしているが弘法大師像なのかな。

三波川金剛寺 (11)
山門手前の庚申塔群。寛延2年(1749年)、宝暦2年(1752年)の銘が見られる。

三波川金剛寺 (12)
三波川金剛寺 (13)
訪問した時は裏山のヤマツツジが満開で、斜面を赤く染めていた。

ところで、金剛寺には源義経が寄進したとされる鞍と鐙(あぶみ)が寺宝として残されている。吾妻鏡にも義経が金剛寺を宿願所としたと書かれている。義経と三波川地区・金剛寺との関係性はよく分からない。

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藤岡市三波川の子育日切地蔵尊。

三波川 子育日切地蔵 (1)
三波川子育日切地蔵尊の建像年などは不詳だが、古くから子どもを病気などから護り、日限(期限)を切ってお願いすると全快するといわれる。

三波川 子育日切地蔵 (2)
三波川 子育日切地蔵 (3)
地蔵尊は地域の方々が奉納した(と思われる)様々なものを身につけ、石の部分はお顔の一部しか見えない。

三波川 子育日切地蔵 (4)
三波川 子育日切地蔵 (5)
三波川 子育日切地蔵 (6)
庚申塔が多く並んでいる。奥には青面金剛像もあった。

石碑には子どもの夜泣き・かんの虫・夜尿症などから、大人の頭痛・腹痛・肩痛・腰痛などへの効能も書かれていた。さらには、交通安全・無病息災などの諸願が成就するともあり、地域の護り神的な存在のようだ。

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藤岡市三波川の妹ヶ谷不動尊。

妹ヶ谷不動尊 (1)
妹ヶ谷不動尊 (2)
妹ヶ谷不動尊は元禄8年(1695年)江戸小石川無量院4世・快慈がお堂を建て、不動明王像を安置したのが始まりとされる。妹ヶ谷は字名。三波川に掛かる橋を渡って行く。

妹ヶ谷不動尊 (3)
境内入口前に湧き水が引かれていた。きれいな水だったが、飲むのはパス。

妹ヶ谷不動尊 (4)
最後の石段を登ると境内。

妹ヶ谷不動尊 (5)
妹ヶ谷不動尊 (6)
現在の不動堂は明治元年(1868年)の建立。祀られている本尊(不動明王像)は勇尊和尚の作とされる。像高約54cmの純金製というが本当だろうか。

妹ヶ谷不動尊 (7)
妹ヶ谷不動尊 (8)
妹ヶ谷不動尊 (9)
お堂の彫刻は素晴らしい。

妹ヶ谷不動尊 (10)
旧不動堂だろうか。

妹ヶ谷不動尊 (11)
神楽殿かな。

妹ヶ谷不動尊 (12)
妹ヶ谷不動尊 (13)
明治初年に梵鐘が寄進されたが、先の大戦時に供出。現在の梵鐘は昭和21年(1946年)の寄進。

妹ヶ谷不動尊 (14)
比較的新しい不動明王像。

妹ヶ谷不動尊 (15)
松尾芭蕉の句碑(裾山や 虹はくあとの 夕つつじ)。天保年間(1831~45年)の建碑。

妹ヶ谷不動尊 (16)
境内の宝篋印塔。元文3年(1738年)の銘が読み取れた。

妹ヶ谷不動尊 (17)
不動堂に向かって山道を歩いている途中に「不動滝入口」の案内板があったので、帰りに寄ってみた。かなり急な道を下って行く。

妹ヶ谷不動尊 (18)
こじんまりとしているが、よく見ると2段の滝。弘法大師(空海)が巡錫の際に修行した場所との伝承もある。

妹ヶ谷不動尊 (19)
滝壺というほどではないが、そのほとりに仏塔らしきものが見えた。よく見ると石を積んだだけのものだった。宮崎・高千穂などでよく見かけるが、石を積みながら願い事をすると叶うといわれるので、訪れた人が積んだのだろう。

ところで、妹ヶ谷の地名は平家に縁があるとされる。同じ藤岡市の日野地区(妹ヶ谷から山を越えると日野地区)の小柏氏は平維盛の子・維基の末裔とされる(真偽は・・・)。その小柏氏の妹が住んだ所なので「妹ヶ谷」との地名になったといわれる。

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藤岡市三波川の姥神社

姥神社 (1)
姥神社は大同年間(806~10年)の創建と伝わる古社である。祖母大明神と称していたが、宝暦6年(1756年)神祇官領長上・卜部朝臣兼雄から宣旨を受け姥大明神と改称している。

姥神社 (2)
現在の鳥居は昭和5年(1930年)の建立。

姥神社 (3)
姥神社 (4)
社殿の建立年などは不明。

姥神社 (6)
姥神社 (7)
境内社と道祖神。

姥神社のご祭神は石凝姥命(いしこりどめのみこと)。石凝姥命は日本神話に登場する神で、天照大神の岩戸隠れの際に八咫鏡を作ったことで知られる。三波川地区と鏡作部の関係はよく分からないが、旧鬼石町から神流町、秩父市(埼玉県)一帯では、古代の石器・石棒が多く発見されている。これは同地域が青石の産地であるためとされる。

三波川流域は三波石(青石の一種)の産地であるので、古代から祭祀にかかわる石器の産地でもあったのかもしれない。石凝姥命を祀るのはその繋がりからかな。

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藤岡市保美濃山(ほみのやま)の抜鉾神社。

保美濃山抜鉾神社 (1)
保美濃山抜鉾神社 (2)
保美濃山抜鉾神社 (3)
保美濃山抜鉾神社の創建は不詳だが、貫前神社(抜鉾神社)から経津主命の分霊を勧請したものと思う。

保美濃山抜鉾神社 (4)
保美濃山抜鉾神社 (5)
下久保ダムのダム湖・神流湖の岬のような丘上に社殿は建っている。拝殿は正面の軒唐破風の兎の毛通しの裏に、神山和泉守が文政11年(1828年)に建立した旨の墨書銘がある。神山和泉守については分からない。

保美濃山抜鉾神社 (6)
保美濃山抜鉾神社 (7)
拝殿内には絵馬が多数奉納されている。いずれも明治期のもの。

保美濃山抜鉾神社 (8)
保美濃山抜鉾神社 (9)
本殿覆屋の彫刻は、鶴に乗る王子喬仙人と鯉の乗る琴高仙人だろうか。いずれも周(中国)の時代の人とされる。

保美濃山抜鉾神社 (10)
保美濃山抜鉾神社 (11)
境内に敷石住居跡らしき遺構があった。旧鬼石町の文化財を示す標識があった(石棒とある)が、合併後の藤岡市の文化財一覧には見当たらない。石棒自体も見当たらなかった。

ちなみに、御荷鉾山の鬼が投げたという石棒(投石峠のもの)を、村人が担いできて祀ったとの伝説が残っている。「鬼が投げた石」は旧鬼石町(現藤岡市鬼石地区)の名前の由来とされる。(「鬼が投げた石 -鬼石神社-」参照)

保美濃山抜鉾神社 (12)
保美濃山抜鉾神社 (13)
保美濃山抜鉾神社 (14)
南側参道に貞治(1362~67年))、康応(1389年のみ)銘の板碑が2基ある。貞治・康応のいずれも南北朝期の北朝側の元号。その他、無銘の板碑も4基ある。

保美濃山抜鉾神社 (15)
保美濃山抜鉾神社 (16)
昭和43年(1968年)建立の「水没の碑」。揮毫は時の首相・佐藤栄作。昭和43年に完成した下久保ダム・神流湖により、保美濃山地区の大半は水没している。境内から水を湛えた神流湖が見通せる。

上記の板碑も水没地域から抜鉾神社参道へ移転されたものである。


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藤岡市浄法寺の日枝神社。

浄法寺日枝神社 (1)
浄法寺日枝神社は元応2年(1320年)に当地の引田氏が近江国二宮(日吉大社)の分霊を勧請し、山王大権現として創建されたと伝わる。明治初年に日枝神社と改称。なお、引田氏については分からない。

浄法寺日枝神社 (2)
浄法寺日枝神社 (3)
拝殿は寛保2年(1742年)、本殿は正徳5年(1715年)の建立。以降の改築なども棟札が残っているという。

浄法寺日枝神社 (4)
明治42年(1909年)に合祀された稲荷神社。

浄法寺日枝神社には、常陸国鹿島神宮から伝習したとされる獅子舞が伝わっており、現在も例祭時に奉納されている。

当地は「山王の森」と呼ばれていたが、当然のごとく現在は「森」の面影はまったくない。

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富岡市、甘楽町、下仁田町、南牧村

日本一の大黒様は野球の神様? -中之嶽大国神社-
日本一の大黒様 -中之嶽神社-
富岡市・西小野神社
富岡市大島・北向観音
富岡市大島地区の氏神さま -鎮火神社-
素晴らしい漆喰彫刻 -富岡市・成田山不動堂-
旧高瀬村の総鎮守 -高瀬神社-
白鳳時代の創建 -小舟神社-
原田篠の薬師様 -田篠の石造如来三尊坐像-
小さいながらも充実の展示 -富岡市郷土館-
富岡市妙義町・女神像碑と十一面観音菩薩碑
富岡市・高瀬26号古墳
富岡市・粘土山古墳
富岡市・伊勢塚古墳
富岡市・太子堂塚古墳
恵心僧都作の十一面観音像 -寿福寺-
子授け・安産の観音様 -小桑観音堂-
木彫馬頭観音立像 -藤木観音堂-
円空作の十一面千手観音立像 -黒川不動堂-
山田道政の館跡 -若宮八幡神社-
甘楽社小幡組由来碑
甘楽町轟・厳島神社
圓通閣の地蔵菩薩坐像
富岡製糸場物故者慰霊碑 -一峰公園-
富岡市妙義町・弘法の井戸
姫街道の関所跡 -西牧関所跡-
下仁田町・鏑神社
下仁田戦争・水戸天狗党戦死者の墓
大隅流の装飾彫刻 -下仁田諏訪神社-
下仁田町・伊勢山の百庚申
下仁田の鐘 -霊山寺-
下仁田町宮室・常光寺
下仁田町最古の宝篋印塔 -清泉寺-
慈恵大師の開基 -栄命寺-
下仁田町馬山地区の総鎮守 -馬山神社-
富岡市・鳴沢不動尊の霊泉
富岡市最古の板碑 -仁治の碑-
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小幡氏歴代の墓 その2 -興巌寺-
織田の御馳走門 -長岡家の薬医門と四脚門-
那須与一所縁のお社 -与一八幡社-
甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-
甘楽町で2番目に古い板碑 -建長の板碑-
甘楽町・城町下薬師堂の石仏
上野蔵屋敷跡 -吉田家の土塁・濠跡-
天引石の阿弥陀三尊 -今宮寺-
庭木盆栽式アカマツ -鍛冶屋沢の松-
甘楽町天引・向陽寺
奉行ザクラ -天引諏訪神社-
文永5年銘の小幡型板碑 -甘楽町・宝勝寺-
力士・柳川子之吉の碑
大隅流素木造りの山門 -最興寺-
元磨墨神社の大絵馬 -伏見神社-
奪衣婆がお出迎え -永隣寺-
万葉集東歌の歌碑 -丹生神社-
横尾丹波守吉泉の墓
建治銘の石造地蔵菩薩像 -額部神社-
元応2年・貞治2年銘の板碑 -富岡市・西方寺-
富岡市・北山茶臼山古墳
稲部市五郎種昌の顕彰碑
稲部市五郎種昌の墓 -富岡市・金剛院-
橋本暮村の墓 -伝宗寺-
満願虚空蔵菩薩 -星田の虚空蔵堂-
甘楽町・天引の笠塔婆 その2
仮面ライダーゴーストの大天空寺! -光厳寺-
高田大和守憲頼の墓 -陽雲寺-
千鳥破風の鬼面彫刻 -富岡市妙義町・菅原神社-
鏑川上流の渓谷 -不通渓谷-
下仁田町・安楽地の板碑
いろいろな碑が建っている -貫前神社前公園-
ゆかりは古し貫前神社 再訪
平安時代の創建 -高太神社-
彦狭島王の墳墓? その3 -天王塚古墳-
富岡市・田篠しの塚古墳
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甘楽町・天引の笠塔婆と板碑
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伝・庭屋氏累代の墓 -甘楽町・庭谷の五輪塔-
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富岡市・横瀬八幡宮
世界遺産・荒船風穴
群馬自由民権の碑 -光明院-
富岡市・堂山稲荷古墳
七日市藩前田家の元祖廟 -前田家御宝塔-
昭和初期の近代和風建築 -富岡市社会教育館-
甘楽古代館再訪
本殿の修理が完了しました -妙義神社 その2-
荒船・妙義山系山岳信仰 -黒瀧山不動寺-
生物の進化が分かる -群馬県立自然史博物館-
富岡製紙工女の墓 その2 -海源寺-
高橋道斎の墓 -常住寺-
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下仁田戦争の碑 -義烈千秋の碑 & 維新之礎碑-
驚き!の空堀 -麻場城址-
甘楽町・天引中宿の薬師様
小野小町所縁の薬師様 -小野の塩薬師-
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地方商人の家宝(?) -岡部温故館-
「おのれの滝」の水源 -曽木神社-
昭憲皇后(明治天皇妃)の歌碑とおのれの滝
お菊の墓が旧妙義町にもあった
前田利家側室・明運尼の墓 -永心寺-
上野国十二之宮 -宇芸神社-
小野小町の開基 -得成寺-
組石造りの地蔵像 -法華経供養遺跡-
笹森稲荷神社と笹森古墳
日本一大きい磨崖仏・・・ -長厳寺-
お菊伝説 -宝積寺 その2-
小幡氏歴代の墓 -宝積寺-
無料こんにゃく料理バイキング -こんにゃく博物館-
日本最古の一般住宅? -旧茂木家住宅-
七日市藩主の菩提寺 -長学寺-
七日市前田家の崇敬社 -蛇宮神社-
県立富岡高校内にあります -七日市藩陣屋跡-
富岡製紙工女の墓 -龍光寺-
甘楽町・松井家住宅
拝殿の天井絵がみたい! -小幡八幡宮-   
中世の薬師如来像 -宝泉寺-
土日・祭日は休館って・・・ -甘楽古代館-
下仁田町ふるさとセンター歴史民俗資料館
学問のすすめの意外な事実 -甘楽町歴史民俗資料館-
唯一残る大名公園 -楽山園-
織田家7代の墓碑
富岡市・もみじ平総合公園
本殿は修理中でした・・・ -妙義神社- 

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甘楽郡下仁田町上小坂の中之嶽大国神社。
前回の中之嶽神社の境内社。(中之嶽神社は「日本一の大黒様 -中之嶽神社-」参照)

中之嶽大国神社 (1)
中之嶽大国神社 (2)
中之嶽大国神社は弘仁9年(818年)藤原冬嗣と弘法大師(空海)が登嶽し、大国主命を祀ったの始まりといわれる。

藤原北家で当時大納言(後に左大臣、死後に太政大臣が贈られた)の冬嗣と、弘仁7年(816年)朝廷から高野山を賜り、当時は金剛峯寺の開創に着手していた空海が、そろって上野国くんだりまで来るとは思えないけどね。

中之嶽大国神社 (3)
中之嶽大国神社 (4)
中之嶽大国神社 (5)
社殿は明治以降の建立(詳細不明)。

中之嶽大国神社 (6)
中之嶽大国神社 (7)
狛犬などの代わりに大黒天が2体。上の写真はは小槌をもつ大黒様、下は剣をもつ大黒様。

中之嶽大国神社 (8)
中之嶽大国神社 (9)
大黒様のご利益で「縁結び」「縁切り」を願う「願い玉」が多数奉納されている。縁切り願いもけっこうあるんだね。

中之嶽大国神社 (10)
中之嶽神社の象徴になっている「日本一の大黒様」。高さ20m、重さ8.5トン。平成17年(2005年)の建造。中之嶽大国神社氏子・崇敬者、甲子講中の方々の奉納。

中之嶽大国神社 (11)
中之嶽大国神社 (12)
中之嶽神社・大国神社には甲子講中からの寄進物が目につく。江戸時代中頃から、大黒天の縁日が甲子(きのえね)の日であることから、甲子講が盛んになった。

中之嶽大国神社では年6回「甲子(きのえね)祭」を行っている。甲子は「気が栄える」と言い、大黒様のご利益を最大限に受け運気が高まる日とされる。

最近では、この「甲子」が「甲子園」と結びつき、野球の神様としても人気になっている。甲子園球場も甲子の年に完成したので甲子園と名付けられた。「野球お守」「野球絵馬」「願いバット」などの授与品の他、必勝祈願お祓いなどを受けに来るチームも多い。

実は宮司さんのご子息は、前橋育英が甲子園で優勝したときのレギュラーメンバー。そんなこともあり、ご利益が大きいのがよく分かる(笑)。

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甘楽郡下仁田町上小坂の中之嶽神社。

中之嶽神社 (1)
中之嶽神社 (2)
中之嶽神社は欽明天皇の御代(539~71年)に妙形氏が創建したといわれる(公式サイトより)。妙形氏について分からないが、なんとなく「妙義」を思い浮かばせる。

北甘楽郡郷土誌(大正6年:1917年)には白鳳2年(674年)の創建とある(天皇で言うと天武天皇)。日本武尊が東征のおり山中に住む賊を成敗し、また弟橘姫を偲び追想の情を発したのを見て、村人が武尊大神と称し社宇を建立したといわれる。

寿永2年(1183年)には藤原祐胤が宝剣を献納している。剣は現存し、神宝となっている。

元和2年(1616年)、北条氏家臣であった加藤長清(妙義山の岩穴に長く住んでいたといわれる)が、神殿・社殿を再築し金洞山巌高寺という巨刹を創建している。この際、弘仁9年(818年)創建の大国神社(大黒天)を前宮、武尊大神を奥宮と位置づけた。

その後、幕末に山火事により被災。そのまま明治維新・神仏分離を経て、中之嶽神社、境内社の大国神社の関係になっている。公式サイトを見ると現在も、大国神社を「前宮」・中之嶽神社を「奥宮」としている。

中之嶽神社 (3)
中之嶽神社の象徴になっている「日本一の大黒様」。高さ20m、重さ8.5トン。平成17年(2005年)の建造。一般的に大黒様は小槌をもっているが、この大黒様は剣を持っている。不動明王と大黒様が融合したもの説、中之嶽神社の神宝が剣だから説などがある。

ただ厳密に言えば、境内社である大国神社(ご祭神は大黒天)に由来するものである。奉納者も大国神社氏子・崇敬者、甲子講中の方々。(中之嶽大国神社については別途書くよ)

中之嶽神社 (4)
中之嶽神社 (5)
社務所やお土産物店を過ぎると二ノ鳥居。公式サイトでは「中之嶽大国神社」の鳥居となっているが、扁額は中之嶽神社となっている。「前宮」「奥宮」の関係だから区別してないのかな。

中之嶽神社 (6)
中之嶽神社 (7)
ご神橋。下の沢(?)に水は流れていなかった。

中之嶽神社 (8)
中之嶽神社 (9)
社殿はこの急な石段の上。頑張って登ろう。

中之嶽神社 (10)
社殿までもう少し。後ろに見えるのは轟岩。

中之嶽神社 (11)
中之嶽神社 (12)
中之嶽神社 (13)
拝殿の建立年などは分からないが、先に書いた由緒から明治以降と思われる。拝殿後ろの「轟岩」をご神体としているので、拝殿のみとなっている。また、轟岩の下部にめり込む形になっている。

中之嶽神社 (14)
加藤長清の碑(長清道士の碑)。高橋道斎が厳高寺・慈海和尚の依頼を受け、安永7年(1778年)に撰文・建碑したもの。

長清は由緒にも書いたように巌高寺を創建した人物。妙義山中で剣の道に励んだ後、仏道を修行、晩年には仙人のような生活から不死の法(長生の法)を修め、148歳まで生きたといわれる。

まあ不躾な言い方をすれば、山中から出てこないんだから、生死も分からなかったんだと思う。気がついたと時の計算で148歳ってことかな。

ついでに、高橋道斎は下仁田出身の漢学者・俳人・書家。上野三碑のひとつである多胡碑(高崎市吉井町)の歴史的・書的価値を見出し広く世に紹介し、現在に至る多胡碑研究の起点となった人。(「高橋道斎の墓 -常住寺-」参照)

中之嶽神社 (15)
長清の碑は、長清の墓の側石碑とされる。近くに長清のお墓があるのかなと思い探してみたら、写真の石祠があったが、未確認だし自信もない。

中之嶽神社 (16)
中之嶽神社 (17)
下仁田町側から見える金洞山(1094m)は別名中之嶽と呼ばれる。中之嶽神社の名はそこから来ている。拝殿から先に進めば妙義山の登山道に入る。第1石門から第4石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩・虚無僧岩などの岩石群は、日本屈指の山岳美とされている。

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富岡市藤木の西小野神社。

西小野神社 (1)
西小野神社 (2)
西小野神社の由緒は不明。鳥居は平成3年(1991年)の建立。

西小野神社 (3)
西小野神社 (4)
石段を登り、さらに一段高いところに、こぢんまりとした社殿が建っている。扁額は「白山」。

西小野神社 (5)
本殿前の箱(?)にも「白山大権現」の文字が見える。

大正6年(1917年)刊行の「北甘楽郡郷土誌」の小野村の項に白山神社の名が見られ、「大字藤木村字小浜にあり菊理姫命を祀る」と記載されている。

以上から推察するに、年代不明だが加賀国の白山比咩神社の分霊(菊理姫命、白山比咩神と同一神とされる)を勧請し、白山神社として創建。明治以降、村内の他社を合祀した際に、西小野神社と改称ってところかな。

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富岡市大島の北向観音。
大島北向観音は、大島地区西端の山腹に位置し「厄除け観音」とも呼ばれている。

大島北向き観音 (1)
大島北向き観音 (2)
いきなり「ケガ・事故については一切の責任は負いません」との案内板。多少ビビりながら坂道を登って行く。

大島北向き観音 (3)
確かにけっこう急な坂道。でも、そんなに歩くことなくお堂に到着する。

大島北向き観音 (4)
北向観音は弘仁5年(814年)弘法大師が東国を行脚した際、信州小県郡で桂の神木から3体の観音像を彫刻し、下野国・信州別所・大島にそれぞれ安置したのが始まりと伝わる。後の平安時代末、源頼義がお堂を建てたとも伝わる。頼義は八幡太郎義家の父。前九年の役、後三年の役などの道中で、頼義は上野国内に多くの足跡を残している。

大島北向き観音 (5)
大島北向き観音 (6)
大島北向き観音 (7)
大島北向き観音 (8)
現在のお堂がいつ建立されたかは不明だが、極彩のお堂となっている。海老虹梁が龍の透かし彫りになっているなど、全体的の精巧な彫刻が施されている。

大島北向き観音 (9)
大島北向き観音 (10)
お堂から少し下って、崖縁の狭い通路を行くと奥の院がある。奥の院は崖の窪地なのか、崖をくり抜いたのか分からないが、地上約20mの崖にめり込むように建っている。

大島北向き観音 (11)
毎年1月第2日曜日の例祭の日は、さきほどの通路から参拝者が崖下へ厄除けとして銭などを投げ、崖下では地域の子ども達がそれを拾う。そして家に帰る前に使うというのが慣わし。この銭投げの風習は、江戸時代初めころから行われており、約400年の歴史がある。

大島北向き観音 (12)
崖下から見るとこんな感じ。上から落ちてくる小銭を見つけるのも大変なような気がしないでもないし、万一当たったら痛そう。

大島北向き観音 (13)
奥の院からは貫前神社の鳥居が見える。

大島北向き観音 (14)
大島北向き観音 (15)
お堂の裏山側へさらに登って行くと上信越自動車道に行き着く。

大島北向観音は厄除けの他、安産・交通安全・家内安全・学業授受など、広く御利益があるといわれており、近郷のみならず遠方からの参拝者も多い。

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富岡市大島の鎮火神社。

鎮火神社 (1)
鎮火神社 (2)
明治42年(1909年)に高瀬村各地区の17社を合祀し高瀬神社とした際に、大島地区の若宮八幡神社なども合祀された。大正9年(1920年)に空宮となった若宮八幡神社の社殿を鎮火神社に移し、さらに大島地区内の8社を合祀している。

鎮火神社は大島地区のほぼ中央に位置することから、地区の氏神さまとして地域の崇拝を受けるとともに、高瀬神社の遙拝所の役割も果たしている。遙拝所は離れたところから神仏などを拝む場所のこと。

関連
 「旧高瀬村の総鎮守 -高瀬神社-

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富岡市富岡の成田山不動堂。

成田山不動堂 (1)
不動堂は当地に古くからあった修験者・多治見福寿坊の内仏堂で、享保元年(1716年)の創建といわれ、福寿坊第23世・多治見賢友が不動尊を勧請したのが始まりという。明治5年(1872年)に福寿坊が廃坊となったため、明治17年(1884年)に成田山新勝寺(千葉県)で不動尊を再開眼、分霊所となった。

成田山不動堂 (2)
成田山不動堂 (3)
現在の不動堂は明治17年(1884年)の建造。土蔵造りで、正面に軒唐破風の向背が設けられている。お堂内外のほとんどの壁に、立体的な漆喰彫刻が施されている。彫刻師は宮峯吉という左官職人と伝わる。

お堂は老朽化が激しく、覆屋で保護している状態。

成田山不動堂 (4)
堂内には本尊の不動明王が鎮座している。よく見えなかったが、内部の彫刻、特に天井の彫刻は大部分が剥落しているという。

成田山不動堂 (5)
成田山不動堂 (6)
正面向背の虹梁には2匹の龍が彫られ、その上には鶴に乗った女神? 仙人? と思われる人物がいる。

多分、お堂の彫刻全体が中国の故事(二十四孝だと思う)にちなんでいるのだろうが、いかんせん知識がなくよく分からない。トンチンカンなことを書いていたらごめんなさい。

成田山不動堂 (7)
成田山不動堂 (8)
両扉は外れてしまっている。左側(写真上)は楊香(虎退治)っぽいが、右側(大蛇退治?)は分からない。

成田山不動堂 (9)
成田山不動堂 (10)
成田山不動堂 (11)
東側の彫刻は人物の頭が取れてしまっている。1枚目は舜、2枚目は董永、3枚目は王祥の逸話だと思う。

成田山不動堂 (12)
成田山不動堂 (13)
成田山不動堂 (14)
西側の方が保存状態が良い。1枚目は郭巨、2枚目は曾参、3枚目は剡子(ぜんし)かな。

漆喰彫刻は昭和4年(1929年)に修理が行われているが、現状は破損・剥落がかなり進んでいる。早めに何か対策や保護をした方がいいと思うぞ。

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