Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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高崎市新町の八坂神社。

新町八坂神社 (1)
新町八坂神社 (2)
新町八坂神社の創建は不詳だが、中山道の上野国玄関口にあたるため、疫病の侵入と蔓延を防ぐことを祈願して建立されたと伝えられる。

新町八坂神社 (3)
新町八坂神社 (4)
新町八坂神社 (6)
現在は小さな祠が覆屋の中に鎮座しているのみである。

新町八坂神社 (5)
八坂神社の脇に(境内かも)、「傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな」の芭蕉の句碑がある。地元の俳人である小渕湛水と笛木白建が、寛政5年(1793年)から天保5年(1835年)の間に建てたとされる。

新町八坂神社 (7)
江戸時代、八坂神社の隣には「柳茶屋」と呼ばれた島田屋があり、旅人の憩いの場となっていた。「柳茶屋」と呼ばれたのは近くに柳の大木があったからで、そのため湛水らはこの地を選んで柳にまつわる句碑を建碑したと考えられる。写真は神社横に掲示されている当時の想像図。

句碑は「柳茶屋」の廃業(時期不明)とともに行方知れずになっていたようで、現在の場所に戻ってきたのは昭和29年(1954年)のことである。

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高崎市新町の笛木山専福寺。

専福寺 (1)
専福寺は万治3年(1660年)仙雅房賢宗の開山。

専福寺 (2)
本堂は寛文6年(1666年)に火災により焼失、安永3年(1715年)に再建されている。その後、大正15年(1926年)に大改修が行われている。火災により本尊(不動明王)も焼けてしまい、現在の本尊は元禄7年(1694年)のもの。なお、火災時に東方へ飛んで行く不動明王を小林伊左衛門というものが見たと伝わっている。

ついでの話だが、小林伊左衛門は新町宿本陣・小林甚左衛門の弟で、倉賀野宿から新町宿間の烏川の渡船を賃金を取って営業することを前田家から許された人物。加賀・前田家が、従来の玉村宿を過ぎてから渡川する中山道を、新町宿手前で渡川するルートに変えたため新町宿が形成され、この辺りは加賀街道と呼ばれ、前田家が一種の権限を持っていたとされる。

専福寺 (3)
境内にも不動明王像が鎮座していた。

専福寺 (4)
梵鐘は昭和54年(1979年)に檀徒から寄進されている。

専福寺 (5)
専福寺 (6)
境内の薬師堂。

専福寺 (7)
樹齢400年といわれるクスノキとカヤ。

以前、新町宿の見通し灯籠を紹介したときに、新町宿に滞留していた小林一茶が半ば強制的に寄進させられた逸話を紹介したが、寄進をしつこく依頼したのは専福寺の世話人だという。(「小林一茶も寄進 -新町宿見透し灯籠-」参照)

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藤岡市藤岡の白狐山金光寺。

金光寺 (1)
金光寺は正平年間(1346~70年)に釈光全の開基で佐久(信州)に創建。嘉吉年間(1441~44年)に芦田光徳が鎮守寺としている。ちなみに、光徳から芦田姓を名乗ったともいわれる(それまでは依田氏)。その後、天正18年(1590年)に芦田康勝が藤岡に3万石を得て移封された際に、金光寺も藤岡に遷ってきている。

金光寺 (2)
まったく見えなくなっているが、関流八伝・岸幸太郎充豊が奉納した算額。

金光寺 (3)
金光寺 (4)
境内の稲荷社は「鮭塚稲荷」と呼ばれる。伝教大師(最澄)が東国巡教の際に「鮭塚の原」といわれていた場所で、一夜の宿を借りた庵が翌日には跡形もなくなっており、小さな祠があるのみであった。庵主は白狐の化身であると悟った大師は祠を「鮭塚の原稲荷大明神」として祀ったという。

金光寺 (5)
金光寺 (6)
稲荷社の隣には薬師堂がある。薬師如来像は厨子内のようだ。建仁2年(1202年)頃、白狐のお告げで薬師如来石像を作り礼拝、一宇を建立し白狐山金光寺としたとの伝説がある。

薬師如来石像は像高115cm、重さ562kgもある。現在は木造薬師如来像が本尊になっており、石像は元本尊。近年、現在の本堂を新築した際に薬師堂となり小さくなってしまったが、元々は本堂だったという。

2つの白狐伝説が「白狐山」という山号の由来のようだ。2つの伝承がどうリンクするのか分からないけど。

金光寺 (7)
金光寺 (8)
本堂にかかる扁額は「不動尊」と「成田山」の2枚。明治16年(1883年)に成田山新勝寺から不動尊(明王)を勧請。今では新勝寺ゆかりの「藤岡成田山」として節分大祭を毎年行っている。有名人が豆まきに来るなら、見に行くのだが・・・。

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藤岡市立石新田の伊勢島神社。

伊勢島神社 (1)
伊勢島神社 (2)
伊勢島神社は明治42年(1909年)稲荷社に神明宮が合併し、伊勢島神社となっている。元の稲荷社、神明宮の由緒は不明。なお、伊勢島は立石新田の古い村名である。

伊勢島神社 (3)
伊勢島神社 (4)
伊勢島神社 (5)
社殿の建立年代は分からないが、合併時(明治42年)の新築かな。拝殿前の白狐は昭和10年(1935年)の奉納。

伊勢島神社 (6)
ご神木の大ケヤキ。

伊勢島神社の旧社(稲荷社・神明宮)は旧中山道に面しており、元神明宮だった場所は大木が鬱蒼としており「お伊勢の森」と呼ばれ、中山道を旅する人々の憩う場所だったという。現在は木々も伐採され、周りは宅地化、田畑化している。


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藤岡市矢場の御巡部(みくるべ)神社。

御巡部神社 (1)
御巡部神社 (2)
御巡部神社の創建年は不詳だが、出雲大社の分霊を勧請し大国社として創建された。その後、御括部(みくりべ)大明神となり、享保12年(1727年)に御巡部大明神と改称している。

御括部・御巡部はの御厨戸(みくりべ)から変じた名称と思われる。御厨(みくり)とは古代・中世、皇室や伊勢神宮などへの神饌の料を作付け・献納するために設けられ所領。

御巡部神社 (3)
灯籠は大正14年(1925年)の奉納。

御巡部神社 (4)
御巡部神社 (5)
御巡部神社 (6)
御巡部神社 (7)
拝殿の扁額が「大黒天」となっているのは珍しい。ご祭神は「大国主神」で、平安時代以降「大黒天」と同一神とされてる。

御巡部神社 (8)
御巡部神社 (9)
社殿脇に道しるべがあった。「左 高崎 吉井 富岡」「右 児玉 鬼石 秩父」とある。方向的に、社殿の後ろ側を道が通っていたことになる。それとも、社前にあったものを奥に移した?

御巡部神社 (10)
境内のサカキは樹高12m、目通り1.05m、根回り1.63mで、樹齢は約400年と推定される。

御巡部神社 (11)
御巡部神社 (12)
御巡部神社 (13)
武田信玄が永禄6年(1563年)に奉納したとされる石灯籠の残骸。竿石に「永禄六年癸亥三月建之武田信玄」と刻まれている(らしい)。立てられている竿石には文字は見えず、横になっている竿石には「奉」らしき文字が見えた。

永禄年間(1558~70年)、武田信玄は箕輪城を中心とした西上州を盛んに攻略しているので、藤岡市に奉納物があってもおかしくはない。すぐ隣の高崎市吉井町には、武田信玄が築いたとされる陣城跡もある。(「武田信玄の陣城跡 -天久沢観音堂-」参照)

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藤岡市本郷の喜雲山龍田寺。

龍田寺 (1)
龍田寺は天正19年(1591年)依田呂郷が父・守芳の菩提を弔うために開基・創建した。開山は信州・信広寺第4世・大岫全察。

依田氏は同年に藤岡城主となっているが、嫡流のみ芦田氏を称して傍流は依田氏で通している。守芳・呂郷父子についてはよく分からないが、芦田50騎に依田姓が8騎いるので、傍流依田氏の家系と考えられる。

山門は平成27年(2015年)に改修されている。

龍田寺 (2)
本堂は万延元年(1860年)に火災で焼失、元治元年(1864年)に再建されている。現在の本堂を見ると、もう少し新しそうである。

龍田寺 (3)
本堂裏には位牌堂がある。立派な位牌堂である。

龍田寺 (4)
境内の宝篋印塔には宝暦8年(1758年)の銘があった。

町田菊次郎
町田菊次郎は地元本郷の出身で、高山長五郎の清温育の講義を聴き興味を持ち、明治8年(1875年)に入門。明治19年(1886年)高山社2代目社長に就任。明治34年(1901年)には高山社蚕業学校を設立するなど、養蚕の担い手育成に務めた。大正6年(1917年)66歳で死去。

町田菊次郎の墓 (1)
町田菊次郎の墓 (2)
町田家墓所内の菊次郎の墓。左右の側面・裏面の3面には、菊次郎の経歴や業績がびっちり刻まれている。

関連
 「高山社2代目社長・町田菊次郎生家

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多野郡神流町万場の神流川河川敷で開催された「鯉のぼり祭り」。

神流町 鯉のぼり祭り
神流町の「鯉のぼり祭り」は、毎年5月連休に開催される。今年は5月1日から5日まで開催された。約800匹の鯉のぼりが神流川の両岸に張られたワイヤーに掲げられる。また、日替わりで色んなゲストがやってきて、イベント(歌謡・漫才・マジック・キャラクターショーなど)が行われる

と、いかにもお祭りに行ってきたかのように書いているが、行ったのはお祭り終了後。実は、鯉のぼりは5日のお祭り終了後も掲げられており、撤収は翌週(12日)。

お祭り終了後なら駐車場も無料のうえ人も少ない。それでいて鯉のぼりは普通に見られる。一石三鳥なのだ。

神流町 鯉のぼり (1)
神流町 鯉のぼり (2)
神流町 鯉のぼり (3)
神流町 鯉のぼり (4)
神流町 鯉のぼり (5)
でも、鯉のぼりをただ見るだけでは味気ないのも確か。お祭りの雰囲気が味わえない寂しさも・・・。あかぎ団のコンサートは見たかったかな。

駐車場代はまったく惜しくないんだけど、道路の渋滞や人混み(混雑)がどうも苦手なので。とは言え、来年はお祭り期間中に行ってみようかな。

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藤岡市藤岡の日航機事故の碑。

日航機事故の碑 (1)
昭和60年(1985年)に発生したJAL123便墜落事故に際し、救助活動に尽力した自衛隊・警察・消防関係者、検視作業に尽力した医師・歯科医師・看護師、ご遺族の支援などのサポート活動を行った藤岡市民を中心とする各種団体を顕彰するため、昭和61年(1986年)建碑された。

日航機事故の碑 (2)
碑の名称は「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所」。碑が建っているのは旧藤岡市役所である藤岡公民館の片隅。道を挟んで南側の現在藤岡市民ホールになっているところが、ご遺体安置所であった旧藤岡市民体育館。

ご遺族に付き添った有志らで作る「ふじおか ・おすたか・ふれあいの会」や藤岡婦人会のメンバーらが毎年碑の清掃を行い、事故を語り継いできた。

碑にも書かれているが、二度とのこような惨事が起こらないことを切に願う。

関連
 「520名の御霊を祀る -慰霊の園-

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藤岡市藤岡の清涼山西蓮寺。

西蓮寺 (1)
西蓮寺は明治10年(1877年)浄土真宗の説教所として創建。明治13年(1880年)に西蓮寺となる。山門は平成11年(1999年)の新築。

西蓮寺 (2)
西蓮寺 (3)
説教所開設時から仮堂宇であったが、明治41年(1908年)に現在の本堂を建立している。なお本尊は阿弥陀如来で、仏像は本山(西本願寺)から下賜されている。

西蓮寺 (4)
鐘楼堂は平成11年(1999年)の建立。

西蓮寺 (5)
水琴窟があった。水琴窟は地中の空洞内に水滴を落下させ、その際の音を反響させる装置。浄土真宗的には、浄土にある七宝でできた池は8つの徳の水で溢れているということから、それに絡めた水琴窟だと思う。

西蓮寺 (6)
西蓮寺 (7)
境内の太子堂は明治29年(1896年)の建立。地元の瓦業者が共有していた聖徳太子木像を祀る。聖徳太子がものつくりの発展に寄与したとされることから、職人(工)の間で聖徳太子信仰(太子講)が広まっていた。

西蓮寺 (8)
親鸞像。群馬県と浄土真宗の関係は、初代県令・楫取素彦夫妻から始まる。群馬に来た夫人の寿が、当時浄土真宗の寺院がほとんどないことを嘆き、時の宗主・明如に説教所の開設を要請し、開教使が派遣されたことによる。これにより、前橋には清光寺が創建されている。
(「楫取素彦・寿夫妻の発願 -清光寺-」参照)

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藤岡市藤岡の嶺岳山龍源寺。

龍源寺 (1)
龍源寺は天正年間(1573~93年)に芦田(依田)康国の開基、勝巌元雄の開山と伝わる。芦田氏の菩提寺である光徳寺(藤岡市)に残る康国の位牌に「康國院殿嶺岳良雪大居士」(戒名)とあるので、そこから山号をとっているようだ。
(光徳寺は「芦田氏の菩提寺 -光徳寺-」参照)

龍源寺 (2)
現在の本堂は文化12年(1815年)の再建。

龍源寺 (3)
龍源寺 (4)
瓦(鬼瓦)があったが、旧屋根瓦だろうか? 家紋は松平氏の「三つ葉葵」。康国の父・信蕃の功績により、康国は松平姓を得ている(依田松平氏と称する場合もある)。

龍源寺 (5)
龍源寺 (6)
五仏堂というのがある。「米山薬師」「平六稲荷」「聖徳太子」「不動明王」「弁財天」を祀っているようだ。こらの繋がりはよく分からない。

龍源寺 (7)
堂前の薬師如来坐像。「越後国 米山寺」とあった。調べてみると、米山寺は廃寺になっているようなので、龍源寺に遷された? ただ、龍源寺と米山寺との関係はまったく分からない(宗派も違うようだし)。

龍源寺 (8)
本堂前の巨石。何だろう?

芦田康国は天正18年(1590年)、豊臣秀吉の北条攻めの際、石倉城で討死している。当時の康国の所領は小諸(長野県)であり、藤岡に移るのは弟・康勝である。康国の開基って由緒はどうなんだろう。康国が開基の龍源寺を康勝が小諸から遷した、もしくは康勝が康国の菩提を弔うために創建した、といったところかな。

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藤岡市篠塚の与五郎殿。
前回紹介した篠塚神社の境内社である。
(「新田義貞四天王・篠塚伊賀守重廣を祀る -篠塚神社-」参照)

与五郎殿 (1)
与五郎殿 (2)
元赤穂藩士・神崎則休(通称与五郎)を祀る。由緒などは不詳。現在の祠は平成12年(2000年)の建立。

一般的には、与五郎は美作藩(現岡山県東北部)・森家家臣で、浪人後赤穂浅野家に仕官。浅野内匠頭の刃傷・改易後、吉良邸に討ち入りした47士のひとり。

当地に伝わる話は、与五郎は幼児期に中村(現藤岡市中)の農家に里子に来た。成長して赤穂藩浅野家に仕えたが、浅野家改易後は浪人となり里親の家に寄寓していた。そして元禄15年(1703年)吉良邸に討ち入り、本懐を遂げたという。

浪人となり中村で時を待っている際、中村の名主から娘との縁談を勧められだが、頑として受け入れなかったという逸話もある。

どういう経緯で当地に神崎与五郎の伝説が残っており、さらには祭神として祀られているのかまったく不明だ。しかも、なぜ里子に来たという旧中村ではなく、隣の旧篠塚村なのか。

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藤岡市篠塚の篠塚神社。

篠塚神社 (1)
篠塚神社は元は伊賀明神といい由緒などは不詳だが、新田義貞四天王・篠塚伊賀守重廣を祀っている。明治44年(1911年)に山名八幡宮に合祀されたが、第2次大戦後に分社という形で旧地に篠塚神社として勧請されている。

重廣は武蔵国出身で、畠山重忠6世の孫を自称していた。当地(篠塚地区)に居住していたといわれる。

篠塚神社 (2)
篠塚神社 (3)
篠塚神社 (4)
質素な社殿。周りは畑になっていて境内も非常に狭い。思っていた以上にこじんまりとしていた。

篠塚神社 (5)
重廣が武を練ったといわれる「手玉石」があるということだったが、巨石があるのみ。ちょっとイメージと違うが、これなのかなぁ。

篠塚伊賀守重廣
重廣は6尺5寸、今で言うと195cmの大男で、4尺3寸(129cm)の太刀や8尺(240cm)の金棒を使いこなす怪力の持ち主であったとされる。碇石という長さ245cm、重さ400kgの石を担いだと伝えられているので、境内の巨石を鍛錬に使ったとしても不思議ではないかな。

関連
 「新田義貞四天王・篠塚伊賀守重廣の菩提寺 -邑楽町・大信寺-

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藤岡市藤岡の士峰山良信寺。

良信寺 (1)
良信寺は天正19年(1591年)芦田(藤岡)城主・芦田(依田)康勝が、祖父・信守の菩提を弔うため創建した。寺名は信守の法名・昌林院殿月桂良信大居士から。

良信寺 (2)
良信寺 (3)
山門は平成23年(2011年)の建立。

良信寺 (4)
本堂は明和8年(1771年)のに火災により焼失、寛政3年(1791年)に再建。その後の改修に関しては、境内に碑があったが読めなかった。

良信寺 (5)
群馬県立藤岡高創立の碑。良信寺を仮校舎として明治30年(1897年)に藤岡高校(当時は群馬県尋常中学校多野分校)が創立された。藤岡高は良信寺からわずかの所にあった。現在は藤岡女子高と統合し藤岡中央校となり、別の場所に移転している。

ついでだが、藤岡高卒業生には元BOOWYの氷室京介やBUCK-TICKの櫻井敦司、今井寿、星野英彦らがいる。

良信寺 (6)
村上鬼城の句碑があった。「うら枯や 御門さしたる 良信寺」。昭和30年(1955年)の建碑。

良信寺 (7)
良信寺 (8)
良信寺 (9)
芦田康勝が奉納した不動尊が安置されていたと思われる不動堂。芦田厄除け不動と呼ばれていた。現在、不動尊は本堂内に安置されている。不動尊を本堂へ移した後、延命地蔵が祀られていたとあるが、現在は何もおられないようだ。

最初の写真に「園児に注意!」との案内板が写っているが、保育園を経営しており境内のど真ん中は保育園のグランドになっている。山門から入ると柵があり、本堂に向かうには柵を越える(またぐ)必要があり、いかにも不法侵入者っぽくなる。通常の入口は別にあるのだが、気づかなかった。

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藤岡市岡之郷の温井熊野神社。

温井熊野神社 (1)
温井熊野神社 (2)
温井熊野神社は応永19年(1412年)頃、熊野権現として創建されたと考えられる。熊野神社となったのは江戸時代末の天保14年(1843年)。

温井熊野神社 (3)
社殿はなく石祠のみだが、合祀されてる各社が整然と並んでいる。熊野神社の祠は寛文7年(1667年)の建立。

温井熊野神社 (4)
境内は平成9年(1997年)に整備されており、どれか分からなかったが応永19年銘の宝塔があるらしい。

創建以来、地域住民の崇敬厚く今日に至っている。

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藤岡市岡之郷の無量山光蓮寺。

光蓮寺 (1)
光蓮寺は正保元年(1645年)僧・大徳の開基と伝わる。

光蓮寺 (2)
光蓮寺 (3)
山門、本堂の建立年などは分からない。

光蓮寺 (4)
山門前の六地蔵は昭和63年(1988年)建像。

光蓮寺 (5)
同じく山門前の文殊菩薩像。まだ新しそうだが、文殊菩薩と言うと釈迦如来の脇侍(左脇侍、右脇は普賢菩薩)のイメージが強いが、最近は独尊として祀らるケースを多く見かける。文殊菩薩の「智慧」から、学業成就のご利益があるとされるからかな。

光蓮寺 (6)
境内に碑が並んでいるよう見えたが、すべて英霊のお墓であった。先の大戦で散った英霊を、墓地ではなく境内で慰霊している。先の大戦に関していろいろ意見もあるかと思うが、祖国のために散った英霊には感謝しかない。

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