Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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高崎市箕郷町白川の大獄山瀧澤寺。

瀧澤寺 (1)
瀧澤寺は相馬岳不入瀧澤に天台宗・満行山瀧澤寺として創建。寺伝では比叡山延暦寺2世・慈覚大師の開山とされる。その後、平常将が楊沢寺(現柳沢寺)を焼き払った事件(相満の変)の際に焼失。難を逃れた僧が当地に一堂を建立したという。

その後荒廃したが、天正年間(1573~92年)に井伊家家臣・中野直之が永源寺5世・厚山慶淳を迎え、曹洞宗・大獄山瀧澤寺として再興。直之の妻は井伊直盛(直政の父)の妻の姉のため、井伊直政の伯父にあたる。井伊家の箕輪入りは天正18年(1590年)なので、その頃かと。

瀧澤寺 (2)
入口にはお地蔵さんや供養塔が並ぶ。

瀧澤寺 (3)
瀧澤寺 (4)
山門の扁額は「𢮦黙院」。瀧澤寺の院号は「不入院」なので、「𢮦黙院」は仏教用語なのかな。

瀧澤寺 (5)
瀧澤寺 (6)
中興後も3度火災により焼失。寛政2年(1790年)再建の記録が残る。現在の本堂はまだ新しく、近年の建立のようだ。

瀧澤寺 (7)
山門前には湧き水が引かれている。写真には写ってないが、柄杓が置かれていたので、飲んだり持ち帰ったりしてもいいようだ。ただ、飲料水の基準を満たしているかは不明。

瀧澤寺 (8)
瀧澤寺 (9)
その湧き水を湛える池には、大きな鯉が優雅に泳いでいた。

瀧澤寺 (10)
門前の仁王像の横にある経蔵。間口3.6m、奥行き4mの方魚尾根造り。経典を納めた6角形に区切られた棚が回る仕掛けになっている。そのため「巡り経蔵」と言われる。外観がかなり綺麗なので、最近改修が行われたようだ。

「相満の変」については下記参照。
 「空から飛来した観音様 -矢落観音-
 「五重塔がある! -柳沢寺-
 「平(千葉)常将を祀る -常将神社-

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高崎市箕郷町白川の西うらの池と鴫上道祖神。

西うらの池と鴫上道祖神 (1)
鴫上(しぎあげ)地区の貴重な水源となっていた「西うらの池」。昭和32年(1957年)に簡易水道が引かれるまで、数ヶ所の湧水池と井戸水が貴重な生活用水となっていた。現在残っている湧水池は「西うらの池」のみである。

この湧水池は年間を通して16℃ほどで、冬季など低温期の早朝には水面が湯気のように立ちこめ、幻想的な姿を見せるという。

西うらの池と鴫上道祖神 (2)
「西うらの池」と道をはさんで道祖神が祀られている。宝暦12年(1762年)ころの造立。道祖神の両側には「前橋 至室田街道」と記された道標石と、馬頭観音像がある。

ちなみに鴫上という地名は、長野村(現在の沖町)方面から見ると、鴫が飛び立つように見えることからその名が付いたといわれる。

鴫
鴫と言われてもまったくピンとこないので、ウィキペディアから写真を拝借。最近、日本では減少傾向にあるらしいが、地名が付いた頃は当たり前のように空を飛んでいたと思われる。

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高崎市箕郷町白川の白川陣屋跡。

白川陣屋跡 (1)
白川陣屋跡 (2)
現在の白川地区から高崎市高浜町にかけての7村は、天和2年(1682年)に安房勝山藩・酒井家の飛び地領となった。そのため勝山藩の陣屋が白川に置かれた。陣屋の敷地は、北12間(約21.6m)・西17間(30.6m)、南27間(48.6m)で、取り調べ用の白洲もあった。

現在は畑になっており、遺構などは素人目には分からない。

ちなみに、代官を務めたのは西明屋の下田家。下田家には旧赤穂浪士で、吉良邸討ち入り47士のひとり堀部安兵衛が出入りしており、その際に設計・築造したといわれる庭園が残されている。(「堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-」参照)

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高崎市箕郷町松之沢の榛名若御子神社。

榛名若御子神社 (1)
榛名若御子神社 (2)
榛名若御子神社 (3)
榛名若御子神社の創建年は不詳だが、榛名神社の分霊を勧請し榛名神社として創建。明治期に火産霊命を合祀し、榛名若御子神社と改称している。

鳥居は享保2年(1717年)の建立。扁額は「満行宮」。石灯籠は享保元年(1716年)の奉納。

榛名若御子神社 (4)
榛名若御子神社 (5)
榛名若御子神社 (6)
社殿の建立年などは不明。

榛名若御子神社 (7)
榛名若御子神社 (8)
拝殿前に丸太があると思ったら賽銭入れ(箱ではない)だった。必要以上に賽銭入れの周りをウロウロして、在らぬ疑いを掛けられても困るので下の方はよく見てこなかったけど、下側から中をくり抜いてあるのかな。

榛名若御子神社 (9)
榛名若御子神社 (10)
境内社・末社群。

榛名若御子神社 (11)
双体道祖神。箕郷・榛名・倉渕あたりには道祖神が多い。

榛名若御子神社の氏子さんたちは、例祭前夜から社域に灯をともし、当日は早朝から毎戸赤飯を準備し、手に提灯をかざし神前に集り、提灯を拝殿の鴨居に掛け赤飯酒等を献じ祭を行うという。昭和50年(1975年)刊行の箕郷町誌から要約。

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高崎市箕郷町和田山の菅原神社。

和田山菅原神社 (1)
和田山菅原神社 (2)
和田山菅原神社は天正19年(1591年)の創建。前回の極楽院跡のすぐ隣にある。極楽院との関係は不明だが、明治以前は神仏習合の関係にあったと考えられる。
(極楽院跡は「武田信玄のさかさ梅 -極楽院跡-」参照)

現在の鳥居は平成8年(1996年)の建立。

和田山菅原神社 (3)
和田山菅原神社 (4)
社殿も新しいので、鳥居の建立と同時の再建かな。灯籠は寛保3年(1743年)の奉納。

和田山菅原神社 (5)
内部の本殿は古そうだが、築造年などは不明。

和田山菅原神社 (6)
和田山菅原神社 (7)
参道脇に庚申塔などがまとめられている。大きさなどから、百庚申として建碑されたものかな。

和田山菅原神社 (8)
境内社の八幡宮など。明治期の合祀かな。

極楽院跡の「さかさ梅」前にある説明板には「信玄入道偶々極楽院を訪い天満宮に詣ぜし」とあるが、箕輪城落城は永禄9年(1566年)。由緒に書いた天正19年は群馬郡誌から。この辺の違いや経緯は分からない。

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高崎市箕郷町和田山の極楽院跡。正式には和田山極楽院清涼寺。

極楽院跡 (1)
極楽院は箕輪城主・長野業正の開基、良雲法印の開山と伝わる。創建年は不詳だが、弘治から永禄4年(1555~1561年)あたりかな。永禄4年は業正の没年。その後、京都聖護院直系の関東における主要な修験道場となっている。

箕輪落城時、長野業盛(業正の嫡男)の一子・亀寿丸(2歳)が家臣とともに落ち延びて、極楽院に匿われたとされる。

極楽院跡 (2)
理由は不明だが明治6年(1873年)に廃寺になっている。年代的に廃仏毀釈の影響かな。不完全形だが、今も多くの宝塔などが残っている。五輪塔の中に康永3年(1344年)のものがあるので、極楽院創建以前からなにがしかの施設があったのではと思われる。

極楽院跡 (3)
極楽院跡 (4)
亀寿丸が極楽院に匿われているとの噂を聞いた信玄が極楽院を訪れた際、鞭として使っていた梅枝を地面に逆に挿したものが芽吹いたとされる「さかさ梅」。

根回り2mを超え(伝承通りなら樹齢は約450年になる)、紅を含んだ八重咲きの花はみな下を向いて咲くらしい。これは信玄に対応した良雲が「花は逆さに咲かせましょう」と、暗に亀寿丸は仏の道で生涯を終わらせることを約束したためとされる。

このためか、信玄は亀寿丸を見逃している。まあ「居場所は分かっているから、刃向かえばいつでも始末するぞ」との警告込みだろうが。後に信玄は極楽院に対して「安堵状」を発行し庇護している。

ちなみに、亀寿丸は後に出家して鎮良と名乗り極楽院2代目の院主となり、慶長12年(1607年)46歳で没したとされる。永禄9年(1566年)の箕輪城落城時2歳だとすると、46歳ってのは合わないけど・・・。

関連
 「伝・長野業盛の墓

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高崎市箕郷町和田山の熊野神社。

和田山熊野神社 (1)
和田山熊野神社 (2)
和田山熊野神社は天正10年(1582年)に和田義盛の家臣・松本兵部の末裔である松本彦蔵が、鬼門守護のために創建したという。和田義盛は鎌倉幕府の侍所別当などを務めた有力御家人。

他説では、和田義盛の8男・義国の勧請という。義国は義盛が北条氏との争いで敗れた際、上野国に逃れてきたとされている。なお、上野国に逃れてきたのは6男・義信ともいわれる。こちらの説では、創建年代は鎌倉時代となる。

いずれにせよ、上野和田氏関係の創建である。
(「上野和田氏の館跡? -和田の館跡-」参照)

和田山熊野神社 (3)
和田山熊野神社 (4)
境内の馬頭観音像。詳細不明。

和田山熊野神社 (5)
和田山熊野神社 (6)
境内社の神明宮。ただ、木祠の中にご神体らしきものは見えない。

和田山熊野神社 (7)
和田山熊野神社 (8)
春日神社、稲荷神社、戸隠神社などの境内社、末社群。

和田氏は当地から赤坂(後の和田、現高崎)に移っているが、赤坂にも熊野神社(現在の高崎神社)を勧請している。熊野神が和田氏の氏神なのかな。

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高崎市箕郷町金敷平の大山祇神社。

大山祇神社 (1)
大山祇神社 (2)
金敷平大山祇神社の創建は不詳。ご祭神の大山津見神は「大山に鎮まる霊」で、山々を統括する神。金敷平地区は山あいなので、林業の安全と繁栄を願っての建立と考えられる。

鳥居は天明3年(1783年)建立。灯籠(半分しか写ってないけど)は明治5年(1872年)の奉納。

大山祇神社 (3)
大山祇神社 (4)
社殿の建立年などは不明。外観がまだ綺麗なので、近年の再建もしくは修築と思われる。

大山祇神社 (5)
大山祇神社 (6)
境内社の千勝神社。天保12年(1841年)の建立。余り聞かない名称なので、よく分からない。

大山祇神社 (7)
庚申塔2基は万延元年(1860年)と寛政年間(1789~1801年)の造立。右から2番目は馬頭観音で文化6年(1808年)の造立。

愛宕神社 (1)
愛宕神社 (2)
明治27年(1894年)に合併された金敷平愛宕神社。金敷平愛宕神社の創建は不詳。

愛宕神社 (3)
大山祇神社の境内脇から山へ登っていくように参道がある。距離は長くないがけっこうな坂道。急坂以上に難渋したのが大量のクモの巣。例祭時くらしか訪れる人もいないのだろうけど。まあ地域の神社って、だいたいそんなもんだけど。

愛宕神社 (4)
石祠もちょっと崩れてしまっている。

金敷平愛宕神社はもともと当地にあったのか、合併で遷座してきたのかは分からない。

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高崎市箕郷町東明屋の諏訪神社。

東明屋諏訪神社 (1)
東明屋諏訪神社 (2)
東明屋諏訪神社の創建は不詳。箕輪城落城後に勧請されたと考えられているようだ。箕輪城落城は永禄9年(1566年)のこと。

一の鳥居の扁額は「満行宮」。満行権現は榛名神のことで、第2次大戦後に村内の榛名神社が合祀されているので、その鳥居かな。

東明屋諏訪神社 (3)
元はこちらが一の鳥居だったと思われる。扁額は「諏訪大明神」。扁額の写真は逆光で上手く撮れなかった。

東明屋諏訪神社 (4)
参道の灯籠は文久2年(1862年)石上寺住職の奉納。当社と石上寺の関係はよく分からないが、石上寺境内に創建されたといわれる石上神社も、大戦後に当社に合祀されている。

東明屋諏訪神社 (5)
東明屋諏訪神社 (6)
拝殿を覗くと、上に続く階段が見える。

東明屋諏訪神社 (7)
東明屋諏訪神社 (8)
拝殿・本殿は第2次大戦後の建立。本殿内宮は文政5年(1808年)の造営。軒札に「当国新井村 阿左見日向藤原光督」らの名前がある。

東明屋諏訪神社 (9)
東明屋諏訪神社 (10)
東明屋諏訪神社 (11)
拝殿左手の鳥居は境内社「天満宮」のもの。石祠が本殿横に鎮座する。

当社に合祀された榛名神社は天暦年間(947~57年)、石上神社は貞観16年(874年)の創建と伝えられる古社である。これらの神社の方が歴史が古いが、明治期に諏訪神社が村社になったことから、両社がこちらに合祀されたようだ。

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高崎市箕郷町西明屋の東向八幡宮。

東向八幡宮 (1)
東向八幡宮 (2)
東向八幡宮は文明6年(1474年)に箕輪城主・長野尚業が石清八幡宮の分霊を勧請し創建、箕輪城の総鎮守とした。有名な業正は尚業の孫に当たる。

徳川家康の関東移封後、井伊直政が箕輪城主になったが、慶長3年(1598年)に高崎に移ったため社殿は荒廃。元禄5年(1692年)に勝山藩主・酒井安芸守隼人正が社殿を造営している。(当時、安房勝山藩の飛び地領になっていた)

酒井安芸守が重病に罹った際、夢枕に「領内に東向八幡あり。我に祈願すれば必ず平癒する」とのお告げがあり、当社に平癒祈願をしたところ快癒したといわれる。以来、東向八幡宮と呼ばれるようになった。

東向八幡宮 (3)
東向八幡宮 (4)
現在の社殿は寛政元年(1789年)の再造営。最近では昭和42年(1967年)に修復されている。

東向八幡宮 (5)
東向八幡宮 (6)
本殿は昭和29年(1954年)に修復されている。彫刻も施され荘厳な佇まいを醸している。

東向八幡宮 (7)
東向八幡宮 (8)
本殿横に石幢がある。総高222cmで十三仏が浮彫りされている。文明6年(1474年)の銘があり、八幡宮創建時のものとされる。十三仏の彫刻入石幢は珍しい(六地蔵はなどが多い)。

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高崎市箕郷町西明屋の長中山妙福寺。

妙福寺 (1)
妙福寺は長野氏がまだ長野郷(現在の浜川町周辺)に居住していた頃、祈願所として創建したとされる。長野氏が箕輪城を築城し箕輪に移ると、戦国大名として名を成した業正が箕輪城の裏鬼門にあたる当地に移している。

箕輪城は永正9年(1512年)長野業尚の築城とも、大永6年(1526年)業尚の子・信業の築城ともいわれる。なお業正は信業の子とされるが、長野氏の系譜ははっきりしない。

妙福寺 (2)
妙福寺 (3)
「鬼子母神を祀り、毎年11月12日に行われる『子育鬼子母神大祭』では、参道に露店が立ち並び、多くの人で賑わいます」と高崎市のHPにあったが、ご本尊は釈迦牟尼仏と群馬郡誌にはある。

鬼子母神を祀るようになった経緯は分からないが、群馬郡誌は鬼子母神について一切触れてないので、群馬郡誌刊行(大正14年:1925年)以降のことと推察される。

妙福寺 (4)
境内のしだれ桜。

妙福寺 (5)
妙福寺 (6)
石祠内に仏像らしきものが見えたので覗いてみたら、弁天さまのようだ。

妙福寺 (7)
妙福寺 (8)
本堂左(南)の庭園は忠臣蔵で有名な堀部安兵衛の設計・築造とされる。上毛三山を模し、池泉が配されているとのことだが、それっぽくない。後に墓地用地として削られてしまった?

同じ箕郷町の旧下田邸にも堀部安兵衛設計・築庭とされる庭園が残されている。
(「堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-」参照)

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伊勢崎市、玉村町

甘酒婆さん -米岡の姥石-
伊勢崎市・米岡神社
伊勢崎市・間野谷の石造層塔
伊勢崎市・新宿の変型板碑
伊勢崎市・岡屋敷の阿弥陀三尊石仏
弓矢八幡の神 -豊武神社-
伊勢崎市・大聖寺墓地の宝篋印塔
伊勢崎市・東村46号墳跡
騎馬武者伝説 -頼光塚-
伊勢崎市・波志江愛宕神社
帆立貝式前方後円墳 -丸塚山古墳-
本格的な古代寺院跡 -上植木廃寺跡-
伊勢崎市・上植木の建長石仏
伊勢崎市・島村諏訪神社
伊勢崎市・島村の板倉
日本基督教団島村教会 & 島村めぐみ保育園本館
伊勢崎市境島村・「島村蚕種業績之地」碑
伊勢崎市境島村・島村沿革碑
旧伊勢崎市立境島小学校
伊勢崎市境島村・新地地区養蚕農家群
世界遺産・田島弥平旧宅
田島弥平顕彰碑
伊勢崎市境島村・宝性寺
金井烏洲と一族の墓
安達盛長の創建 -国定赤城神社-
国定忠治の墓 その2 -善応寺 その2-
伊勢崎市・八斗島稲荷神社
源頼義の創建 -長沼八幡宮-
渕名氏の氏神 -渕名神社-
伊勢崎市・三柱神社
小此木盛光の創建 -境小此木・菅原神社-
安達景盛の創建 -境下武士・三社神社-
利根川・島村の渡し
俳人・栗庵似鳩の墓
伊勢崎市・上西根の五輪塔
弥勒寺音次郎奉納の木組み灯籠 -勝山神社-
伊勢崎市・郷学五惇堂跡
いせさき市民のもり公園
板垣信方の墓 -常清寺-
香林の木像如意輪観音坐像 -曦観音堂-
伊勢崎市・十二所古墳
新田三談林のひとつ -能満寺-
伊勢崎市・上蓮の阿弥陀・地蔵石仏
那波宗元の勧請 -戸谷塚諏訪神社-
鎌倉権五郎景正を祀る -五郎神社-
上植木の鎮守様 -上樹神社-
渕名実秀の娘・妙真尼の開基 -妙真寺-
上杉謙信が戦勝祈願 -千本木神社-
伊勢崎市・今井山西光寺
伊勢崎市今泉町・法長寺
火防観音 -法養寺-
旧境町最古の宝篋印塔と五輪塔 -宝存寺-
那波総社 -堀口飯玉神社-
空海も修行した? -満善寺-
旗本・跡部氏の崇敬社 -宮子神社-
良い福を授ける -飯福神社-
赤堀の総鎮守 -大雷神社-
地域を守ったご神木 -堀下飯玉神社-
義経馬殿塔 -正観寺-
馬見塚の鎮守様 -馬見塚飯玉神社-
例幣使御小休所 -延命寺-
群馬八郎満胤がご祭神 -八郎神社-
夜泣き地蔵 -浅間山大噴火の供養地蔵-
伊勢崎市・華蔵寺公園遊園地
伊勢崎市・華蔵寺公園
伊勢崎の英霊殿 -伊勢崎招魂碑-
平安時代創建の古刹 -華蔵寺-
玉村町15号墳
伊勢崎藩の郷校 -嚮義堂-
伊勢崎藩の藩校教授・浦野神村の墓
玉村町・文安銘の五輪塔
玉村宿・木島本陣跡
伊勢崎市・一ノ関古墳
伊勢崎市・台所山古墳石棺
玉村八幡宮の別当寺 -神楽寺-
伊勢崎の吞龍さま? -本光寺-
五智如来石仏 -花台寺-
玉村町・梨ノ木山古墳
玉村八幡宮の元宮 -角渕八幡宮-
柴宿の歴史的景観の名残りをとどめる -柴町八幡神社-
沼田景義のご子孫の墓 -泉龍寺 その2-
那波宗広の墓 -泉龍寺-
伊勢崎唯一の神社神門 -今村神社-
玉村の地名のもとになった龍神伝説 -満福寺-
玉村太郎の館跡 -観照寺-
大谷吉継の孫・大谷隆昌の墓 -龍昌院-
新田一族・今井清義隠遁の地 -浄蓮寺-
谷島信氏の館跡 -伊勢崎市・徳蔵寺-
長持形石棺が保存されている -お富士山古墳-
浦島太郎伝説 -龍神宮-
跡部氏の菩提寺 -紅厳寺跡 その2-
宮子の笠塔婆 -紅厳寺跡-
伊勢崎・雷電神社&雷電神社古墳
弥勒寺音次郎・音八父子の墓
すばらしい本殿の彫刻 -平塚赤城神社-
群馬県内最大級の馬頭観音 -西光寺-
福島泰蔵大尉の墓 -天人寺-
石剱稲荷大明神 -瑳珂比神社-
道標を兼ねた二十二夜塔 -愛染院-
村上随憲の墓 -長光寺-
弁天池に鎮座 -瑳珂比弁天宮-
旗本・久永氏陣屋跡 -大東神社-
6世紀末の帆立貝形古墳 -鶴巻古墳-
那波教元の墓? -富塚円福寺-
駒井政直・親直の墓 -宝幢院-
駒井氏累代の墓 -竹芳寺-
みかえり不動尊 -長安寺-
石造美術群 -下植木赤城神社-
日本一(?)の大鰐口 -万徳寺(石山観音)-
石田三成の妖怪退治 -退魔寺-
上野国五之宮 -大国神社-
連取の松 -菅原神社-
斎藤宜義の墓 -宝蔵寺-
織機・養蚕の神様を祀る -倭文神社-
雷の神様を祀る -火雷神社-
エレガントな洋館 -いせさき明治館-
小畠武堯の墓 -善応寺-
伊勢崎の鎮守社 -伊勢崎神社-   
伊勢崎藩主・稲垣長茂の屋敷門 -同聚院-
那波小太郎・小次郎の墓 -天増寺 その2-
稲垣氏累代の墓 -天増寺-
浮島に鎮座 -白龍神社-
鳥居がいっぱい -小泉稲荷神社-
藤原秀郷(俵藤太)の供養塔 -宝珠寺-
家鴨(アヒル)塚 -称念寺-
源頼朝の勧請 -玉村八幡宮-
日航例幣使街道と玉村宿 -玉村町歴史資料館-
伊勢崎赤堀歴史民俗資料館
国定忠治の墓 -養寿寺-
霊験あらたか? -伊勢崎・権現山-
琴を弾くから「ことはにクン」 -相川考古館-
時を告げる大正ロマン -伊勢崎・時報鐘楼-
滝川一益も見た風景 -軍配山古墳- 

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伊勢崎市境米岡の姥石。

米岡の姥石 (1)
米岡の姥石は「甘酒婆さん」と通称される約1mの輝石安山岩の自然石。新田義貞挙兵の際、当地で小休止していた軍勢に甘酒を振る舞っていた老婆が、大舘宗氏の馬に蹴られ死んでしまった。そこで手厚く葬ったところ、老婆が石になったといわれる。

米岡の姥石 (2)
姥石の裏側には丸いくぼみがあり、老婆が馬に蹴られた時の傷跡だと伝えられている。

姥石には百日咳に御利益があるとされ、治るとお礼に甘酒を供える風習がある。

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伊勢崎市境米岡の米岡神社。

米岡神社 (1)
米岡神社 (2)
米岡神社の創建年などは不詳。明治40年(1907年)に米岡村内の神明宮、赤城神社、八幡宮などを合祀し米岡神社となっている。

米岡神社 (3)
米岡神社 (4)
米岡神社 (5)
米岡神社 (6)
社殿は幣殿が長い造り。本殿は旧赤城神社からの移築。社殿前の石灯籠に天保14年(1843年)の銘がある。

米岡神社 (7)
米岡神社 (8)
社殿裏には神輿舎。神輿舎は平成6年(1994年)の建立。神輿はこじんまりとしたシンプルな造り。境ふるさと祭に出陣しているようだ。

米岡神社は「おくまんさま」と呼ばれ、地元の方々に親しまれている。一般的に熊野神社に願をかけると必ず成就することから「恩熊野様」と崇拝されている。この「恩熊野様」がなまって「おくまんさま」と呼ばれる。米岡神社になる以前、熊野神社時代から地元に親しまれてきた証拠でもある。

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伊勢崎市間野谷(あいのや)町の石造層塔。

間野谷の石造層塔 (1)
間野谷の石造層塔は凝灰岩製で、総高175cmの4重の塔である。造立年代は、その特徴から鎌倉時代と推定される。

間野谷の石造層塔 (2)
一般的に層塔は3重や5重のように奇数の場合が多く、4重という偶数の層塔は珍しい。奇数は割り切れないことから「無限」を表すといわれるため、この層塔も当初は5重であったのではないかと思う。

上部には相輪が乗っていたと思われるが、現在は五輪塔の空輪、風輪が転用されている。なお、基礎部などには格狭間・種子・仏像などは見られない。

石造層塔は、もとは間野谷共同墓地内にあったが、平成28年(2016年)の保存修理事業に伴い現在地へ移転された。

ちなみに、藤原秀郷(俵藤太)の3男・千国が、秀郷の供養のため造立したとのいわれもあるようだ。秀郷の供養塔とされる五輪塔が、同じ旧赤堀町の宝珠寺にある。これも3男・千国の造立とされる。(「藤原秀郷(俵藤太)の供養塔 -宝珠寺-」参照)

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