上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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渋川市北橘町真壁の蚕養(こがい)神社。

蚕養神社 (1)
蚕養神社 (2)
蚕養神社 (3)
蚕養神社は昭和31年(1956年)日立市の蚕養神社から分霊を勧請し、真壁厳島神社の社殿内に祀られた。その後、昭和35年(1960年)に真壁赤城神社境内に社殿を建立し遷座している。

養蚕が盛んであった当地の養蚕農家では、繭がたくさん採れることを願って講を作り、日立市の蚕養神社へ詣でていた。一方、つくば市の蚕影神社に詣でていた講もあり、両者が合流し橘豊蚕講(約800戸)となった。そこで日立市の蚕養神社から分霊を勧請しお祀りしたもの。

当地の養蚕農家が詣でていた蚕養神社・蚕影神社は、蚕霊神社(神栖市)と合わせ「常陸の三蚕神社」と呼ばれる。日立市(旧多賀郡豊浦町)には養蚕の起源とされる「金色姫」の伝説が残されている。

天竺・霖異大王の娘・金色姫が種々の理由により常陸国豊浦港に流れつき、姫は死後蚕になり繭を作ったとされる。そこで養蚕神として蚕霊山千手院星福寺に蚕の開祖として祀ったとされる(すっごい要約)。

他にも、孝霊天皇(第7代とされる)5年に稚産霊命が姿を現し、養蚕に関する神託を告げたので、里人は稚産霊命を日本最初蚕養の祖神として祀ったとの伝説もある(蚕養神社の始まりとされる)。


渋川市北橘町真壁の赤城神社。

真壁赤城神社 (1)
真壁赤城神社 (2)
真壁赤城神社の由緒は不詳。真壁城主・神谷三河守が神徳を深く崇敬したと伝えられる。明治41年(1908年)に大山祗神社、神明宮、稲荷神社、諏訪神社など、村内31社を合祀している。

真壁赤城神社 (3)
二の鳥居は朱色で木製。

真壁赤城神社 (4)
一の鳥居、二の鳥居前後の灯籠は天明7年(1787年)と昭和8年(1933年)の奉納。写真は二の鳥居奥(境内)の灯籠。

真壁赤城神社 (5)
真壁赤城神社 (6)
社殿の建立年などは不明。

真壁赤城神社 (7)
社殿前の狛犬は皇紀二千六百年とあったので、昭和15年(1940年)の奉納。

真壁赤城神社 (8)
祭神碑。祀られているご祭神が刻されている。豊城入彦命(赤城神社)から明治に合祀された31社すべて(と思う)。

真壁赤城神社 (9)
真壁赤城神社 (10)
境内社・末社(疱瘡神社、御嶽神社、葉酸神社など)と出羽三山塔や道祖神。

現在は桂昌寺(同じく北橘町真壁)に保管されているが、真壁赤城神社の本地仏(本地垂迹説での日本の神の本地とされた仏)とされる千手観音像は、鎌倉期か室町期の造立といわれる。これを考慮すれば、真壁赤城神社の創建はそれなりに古いと推定される。


渋川市北橘町真壁の長盛山桂昌寺。

桂昌寺 (1)
桂昌寺は元は水泉寺という律宗の寺院であったとされる(創建年などは不詳)。天正10年(1582年)に真壁城主・神谷三河守政律が半田村(現、渋川市半田)の龍伝寺2世・日山祐益を招き中興開山とし現在地に移転、曹洞宗に改宗している。

神谷三河守政律についてはよく分からないが、白井城主・長尾氏に仕えていたようだ。桂昌寺は神谷氏の居館であったともいわれる。

桂昌寺 (2)
石門は明治38年(1905年)に檀家の方が建造。

桂昌寺 (3)
桂昌寺 (4)
本堂は安政元年(1855年)、明治18年(1885年)に火災に見舞われている。特に安政の火災時は、本尊及び過去帳までも焼失している。本堂は明治35年(1902年)に再建されている。現在の本堂は近年の新築建立のようだ。

安政元年の火災時に住職であった13世・眠山宗龍は、燃えさかる本堂の中に端坐したまま寺と運命をともにしようとしたが檀徒に助け出されている。

桂昌寺 (5)
地蔵像などの石仏や仏塔類。

桂昌寺 (6)
聖徳太子塔。文化・文政年間(1804~31年)の造立。

桂昌寺 (7)
桂昌寺 (8)
梵鐘は享保12年(1727年)の鋳造であったが、先の大戦時に供出。昭和49年(1974年)に再鋳造している。

桂昌寺 (9)
除災観音。元は宮城県気仙沼市に鎮座していたが、東日本大震災時にたまたまかの地を離れており、難を逃れたことから除災観音と名付けたという。どういう経緯かは知らないが、桂昌寺に遷されている。


渋川市北橘町下箱田の鈴嶽山玉泉院。

玉泉院 (1)
玉泉院は慶長2年(1597年)に葉林春益和尚と一翁恵純和尚が開基となり、前橋市の橋林寺11世・明岩鑑察和尚を招いて開山とした。数度の火災により古記録などを焼失、詳細寺歴は不詳となっている。

玉泉院 (2)
玉泉院 (3)
本堂は昭和41年(1966年)の建立。

玉泉院 (4)
境内は広くないが、木々に覆われている。その中のお釈迦様(寝釈迦)像。

玉泉院 (5)
玉泉院 (6)
本堂前の石仏群(如意輪観音像や馬頭観音像)と百番供養塔、石宮。

玉泉院 (7)
聖観音像。平成18年(2016年)の造立。

玉泉院 (8)
玉泉院 (9)
鐘楼は新築建立のようだ。

玉泉院 (10)
経堂には大般若経600巻を保管する。明治19年(1886年)の新添。大般若経は玄奘三蔵がインドより唐の国に持ち帰ったお経として有名。


渋川市北橘町下箱田の今井堂。

今井堂 (1)
今井堂の創建年は不詳。今井の池が夜な夜な光り輝いたため、不思議に思い掘り返したところこの観音像が現れたという。そこでお堂を建て観音像を祀った。今井堂とは今井の池から来ている。また観音像は慈覚大師の作と伝わる。

慈覚大師は平安初期の高僧で円仁と言い、最澄・空海らと並び入唐八家のひとり。慈覚大師が創建したと伝わる寺院や仏堂は多い。平泉・中尊寺や浅草寺などがある。

今井堂 (2)
堂内の十一面観音像。堂内は真っ暗に近かったが、なんとか写った。

今井堂 (3)
お堂への入り口付近に道しるべがあった。年代は分からない。「東 箱田 石井」「西 渋川」「南 横室 原」「北 真壁 小室」と記されている。

ところで、「尊像は疑うべくもなく慈覚大師の御作である。霊徳は日々に新たであり、願望成就せぬことなし」とのことである。なので、俗物的なお願いをひとつしてきた。それが成就することを願っている。


渋川市赤城町樽の田中堂。

田中堂 (1)
田中堂 (2)
田中堂と呼ばれるお堂は、須田氏一族の墓地にある。田中は当地の旧字名。お堂は畳敷きの部屋などがあり、仏事などを行うことができるようになっている。昔は庵主が住んでいたこともあるようだ。以前は「慈眼寺」という扁額か掛かっていたというので、元は慈眼寺という寺院の一部と考えられる。

須田氏は旧樽村の名家。北条家からの感状や知行書が伝わっている。また、江戸時代は材木商を営んでおり、延宝8年(1680年)沼田真田藩主・真田信利と両国橋改修用の材木調達の契約を結んでいる(最終納入先は江戸大和屋)。

結果的に真田家は材木の納入期限に間に合わず、さらに杉木茂左衛門の直訴なども重なり、真田信利は改易となったのは有名な話。
(「伝真田信利の墓・迦葉山弥勒護国寺 その2」参照)

田中堂 (3)
須田家当主は江戸時代末まで代々与兵衛を名乗っている。最後の与兵衛は豪商・中居屋重兵衛の実母「のぶ」を後妻に迎えている。当墓地に「のぶ」の墓がある。墓石には3名の戒名が刻まれているが、向かって左が「のぶ」のものである。推察するに、中央は最後の与兵衛、右は前妻ではないか。「のぶ」は明治26年(1893年)没。

田中堂 (4)
同じく当墓地にある須田門吉の墓。門吉は大前田英五郎の四天王のひとり。文久3年(1863年)没。通称「にっこり門吉」と呼ばれ、門吉がにっこり笑った時は怒りが頂天に達した時で、何をしでかすか分からないと恐れられた。

名家からも渡世人が出るんだね。それと、勘当もされないで実家筋の墓地に葬ってもらえるなんて。


渋川市赤城町樽の赤城山正念寺。

正念寺 (1)
正念寺は雙林寺11世・自然玄悦の開山。創建年は不詳だが、自然玄悦が開山した他の寺院の由緒などから、天正年間(1573~92年)あたりの創建と考えられる。

正念寺 (2)
正念寺 (3)
門前の地蔵像など。六地蔵の塔芯と上部の石仏は元は別々のものだと思う。台座には寛政6年(1795年)の銘がある。

正念寺 (4)
風化のため像容は分かりづらいがお地蔵さまかな。

正念寺 (5)
本堂などは明治24年(1891年)に焼失、昭和7年(1932年)に再建されている。

境内に石田九右衛門久金の大蛇伝説に係わる蛇塚があったが、今は平削されてその場所は分からなくなっている。九右衛門は樽村の長者で、酒造と材木商を行っていた。

その昔、寺の近くに九右衛門が営む酒屋があった。酒の味が良いと評判だったが、毎晩大蛇が現れ酒を一樽も飲んでしまうので困っていた。意を決した九右衛門は使用人らと大蛇を斬り殺した。死骸は正念寺の境内に捨てた(蛇塚)。酒屋に大蛇は来なくなったが、酒がよくできなくなり酒屋は潰れてしまったという。


渋川市赤城町勝保沢の御手洗(みたらし)の大杉と雨乞いの池。

御手洗の大杉と雨乞いの池 (1)
御手洗の大杉は樹高25m、目通り2.9m、根元廻り4.6mで、樹齢は約300年と推定される。ここは御手洗の名の通り、勝保沢諏訪神社の禊ぎの場である池があったところになる。(諏訪神社は「渋川市赤城町勝保沢・諏訪神社」参照)

御手洗の大杉と雨乞いの池 (2)
雨乞いの池と呼ばれた池跡は鉄板で覆われている。この下が池(水場)になっているのかなどは分からない。昔は諏訪神社参拝の際にはこの池で身を清めた(手を洗う)といわれる。

ある夏の雨不足のときに梵天を捧げて「池替え」(水を入れ替えること)を行ったところ、やがて豪雨なったことから霊験の池とされた。以後、雨乞いの池と呼ばれるようになった。ちなみに梵天は仏教の世界観において、最高位の一つである梵天界の主とされる。


渋川市赤城町勝保沢の諏訪神社。

勝保沢諏訪神社 (1)
勝保沢諏訪神社 (2)
勝保沢諏訪神社の由緒は不詳。明治41年(1908年)に旧勝保沢村(当時は横野村)の神明神社、愛宕神社、菅原神社、八幡宮などを合祀している。

鳥居は石本勝左衛門勝辰が寛政8年(1796年)に寄進・建立したもの。扁額は東江源鱗の書。吉岡町・華蔵寺出の角田無幻は東江源麟の門弟のひとりである。石本勝左衛門勝辰は宗玄寺の十一面観音堂を寄進した人物。
(勝左衛門や宗玄寺は「渋川市赤城町勝保沢・快中山宗玄寺」参照)

勝保沢諏訪神社 (3)
鳥居には今も石本勝左衛門勝辰の文字がしっかり読める。

勝保沢諏訪神社 (4)
勝保沢諏訪神社 (5)
二の鳥居は平成7年(1995年)の建立。鳥居前の灯籠は宝暦7年(1757年)の奉納。

勝保沢諏訪神社 (6)
社殿前の灯籠は明治24年(1891年)の奉納。

勝保沢諏訪神社 (8)
勝保沢諏訪神社 (9)
勝保沢諏訪神社 (10)
社殿の建立年などの詳細はは分からない。

勝保沢諏訪神社 (11)
勝保沢諏訪神社 (12)
勝保沢諏訪神社 (13)
境内社・末社群。地神、雷電神社、蚕影神社、抜鉾神社、赤城神社、厳島神社など。

勝保沢諏訪神社 (14)
勝保沢諏訪神社 (15)
勝保沢諏訪神社には太々神楽が伝承されている。大正4年(1915年)の神楽講創設と同時に神楽殿も建立されている。舞は神式舞と愛嬌舞の二座十九舞があり、現在まで存続している。

古くに勝保沢村に流行した狂歌というか地口(言葉遊び的なシャレ)がある。「勝保沢に過ぎたるものが三つあり 諏訪の鳥居におりの観音」。

諏訪の鳥居は、この諏訪神社の鳥居。観音は宗玄寺の十一面観音堂(当時は字下りにあった)。いずれも石本勝左衛門勝辰が寄進している。もうひとつの「おりの」とは、十一面観音堂造営の頭領・星野幸右衛門の孫娘のこと。「おりの(お理野)」は絶世の美人で「勝保沢小町」と呼ばれ、近郷にその名が知られていたという。


渋川市赤城町勝保沢の快中山宗玄寺。

宗玄寺 (1)
宗玄寺は慶長19年(1614年)信濃の松本城主・小笠原秀政が寺領を寄進し、大中寺(栃木市)の13世・別伝存策和尚を開山に招き創建したとされる。秀政が帰依していた別伝存策が雙林寺(渋川市中郷)の住職になれなかったので、雙林寺を見下ろす当地に寺を建立したという。

別説では、元和8年(1622年)地元の郷士・斎藤加賀守安清が別伝存策和尚を開山に招き創建したとされる。宗玄寺の寺域は勝保沢城跡になる。

勝保沢城の築城年代などは不詳だが、斎藤安清が城主(在城)であったとされる。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の北条攻めにより勝保沢城は落城。斎藤氏は当地に土着、帰農している。墓地には「宗玄開基安清宗心居士」と刻まれた墓石があり、斎藤加賀守安清の墓とされる。

宗玄寺 (2)
宗玄寺 (3)
宗玄寺 (4)
宗玄寺 (5)
立派な山門(仁王門)は平成10年(1998年)の建立。

宗玄寺 (6)
六地蔵。平成15年(2003年)の造立。

宗玄寺 (7)
本堂などは天保年間(1831~45年)に焼失、嘉永4年(1857年)に堂宇を再建している。昭和28年(1953年)に屋根を瓦葺きに改修。平成22年(2010年)にも屋根を改修している。

宗玄寺 (8)
改修前の屋根の一部(だと思う)が置かれていた。

宗玄寺 (9)
子育て地蔵。昭和57年(1982年)檀家の方の建立。

宗玄寺 (10)
立派な宝篋印塔。寛政4年(1792年)に勝保沢出身の石本勝左衛門勝辰が造立。

宗玄寺 (11)
十一面観音を祀る観音堂。宗玄寺の開基ともいわれる斎藤加賀守安清から3代目の斎藤万右衛門が小堂を建立したのが始まりとされる。現在の観音堂は寛政11年(1799年)に石本勝左衛門勝辰が寄進したものである。

元は勝保沢の字下りにあったが、明治30年(1897年)勝左衛門の百年忌にあたり、将来の管理のことなどを考慮し宗玄寺境内へ移築している(移築完は翌年)。

宗玄寺 (12)
宗玄寺 (13)
宗玄寺 (14)
宗玄寺 (16)
建築は勝保沢の名工・星野幸右衛門。四面に素晴らしい彫刻が施されている。

石本勝左衛門は勝保沢の農家の子(幼名は惣平)として生まれる。志高く江戸に出て、運良く前橋藩・酒井家家臣・石本家を嗣ぎ勝左衛門勝辰と名乗った。その後も藩の勘定方事務などで功績をあげた。晩年、地元への恩返しとして各種寄進した中のひとつが十一面観音堂である。勝左衛門は完成前年に、江戸にて73歳で没している。


渋川市赤城町宮田の宮田神社。

宮田神社 (1)
宮田神社 (2)
宮田神社は元は諏訪神社で、字沓谷戸に鎮座していた。諏訪神社の由緒は不詳だが、口碑によると建久年間(1190~99年)に星野出羽守が信濃・諏訪大社から勧請したという。

大正2年(1913年)に旧宮田村(当時は横野村)の熊野神社など全社を合祀、さらに現在地(字御嶽)に遷座し宮田神社と改称している。現在地にあった宮田不動尊が三原田の興禅寺に合併されたため、その跡地に遷ったもの。

ところが、昭和15年(1940年)に宮田不動尊が興禅寺への合併を取り消し、同所へ戻ってくることになった。そのため境内裏の急傾斜地を切り崩すなどして敷地を造成し、そこに移動している。元地には不動寺(宮田不動尊)が鎮座している。
(「渋川市赤城町宮田・宮田山不動寺(宮田不動尊)」参照)

宮田神社 (3)
長く急な石段。不動寺の石段(文化6年:1809年)より石のズレが少ない。石段の整備は社殿を移動した昭和15年(1940年)と思われる。

宮田神社 (4)
宮田神社 (5)
宮田神社 (6)
宮田神社 (7)
急な石段に合計3基の鳥居がある。三の鳥居だけ銘が確認でき、宝暦13年(1763年)の建立。扁額はすべて「宮田神社」なので、改称後に扁額のみ差し替えているようだ。元の諏訪神社の扁額は「正一位 諏訪大明神」だったという。

宮田神社 (8)
社殿前の灯籠は昭和16年(1941年)の奉納。ちょうど社殿を動かした時期。

宮田神社 (9)
宮田神社 (10)
社殿の建立年などの詳細は分からない。

宮田神社 (11)
境内の石灯籠。嘉吉3年(1443年)の造立。合祀された熊野神社からの移設。渋川市の重文に指定されている。


渋川市赤城町宮田の宮田山不動寺(宮田不動尊)。

宮田山不動寺 (1)
不動寺としての創建は昭和17年(1942年)となるが、古くから自然洞窟内に石造不動明王像を祀っており、宮田不動尊として住民の崇敬篤く信仰されてきた。写真は重要文化財であることを示す標柱。「重要文化財 石造不動明王立像」。

不動明王像については口碑として、いつのころか利根川を流れて来たものを樽村の塔が淵から拾いあげて洞窟内に安置した。宮田方面に向けても、一夜にして樽方面に向き直ってしまうとの伝説が残るのみであった。

年代は不明だが麓には仁王門、洞窟入り口には堂宇も建立され、初不動のお祭りには多くの人が参拝した。しかし明治39年(1906年)の神社合祀令(原則一村一社)の流れの中、なぜか独立仏堂であった不動堂が三原田・興禅寺に合併されることになった(仁王門やお堂は取り壊され、仁王像や鰐口などは売却された)。

宮田不動尊の境内跡地には、大正2年(1913年)に村内神社を合祀した諏訪神社が移転し宮田神社となった。不動明王像のある洞窟入り口は石垣で隠し、武尊神社とするため拝殿も作られた。

その後、昭和9年(1934年)の調査で、不動明王像は何物かにより腰部接合箇所から上半身が後方に突き落とされ、石像体内から体内物が盗み取られていた。ただその際に墨書が確認され、建長3年(1251年)に造立されたことが明確になった。

そのため貴重な文化遺産である不動明王像を保護する目的で、昭和15年(1940年)興禅寺への合併を取り消し、昭和17年(1942年)不動寺を創建し本尊としている。(長くて申し訳ないですが、これでも精一杯短くまとめたつもりです)

宮田山不動寺 (2)
宮田山不動寺 (3)
石段は文化6年(1809年)宮田村の若者によって整備・寄進されている。当時は108段とあるが、現在もそのままだろうか。石段は通行止めになっていたので隣の宮田神社の石段を上った。

宮田山不動寺 (4)
宮田山不動寺 (5)
石段の途中の灯籠と念仏供養塔。灯籠は文化(1804~18年)の銘があった。石段と同じ文化6年かな(横から石段の途中に行くことができる)。

宮田山不動寺 (6)
宮田山不動寺 (7)
宮田山不動寺 (8)
大正2年(1913年)に諏訪神社(宮田神社)が社殿ごと移転していたため、昭和15年(1940年)神社裏の急傾斜地を切り崩すなどして敷地を造成し、そこに神社を移動させることで不動堂を建立した。このときは寺院ではなく、まだ独立仏堂としての復帰。不動寺になるのは、先に書いたように昭和17年のことである。不動寺ではお堂を奥の院と呼んでいる。

宮田山不動寺 (9)
堂内は特に仏教施設らしき構造となっていない。不動明王像のご開帳日に、ここを通って洞窟内に入るための役割。

宮田山不動寺 (10)
洞窟への入り口には赤い鉄製の門。当然、厳重に施錠されている。

宮田不動尊レプリカ(県立歴史博物館)
石造不動明王立像は1月28日の1日のみご開帳される。写真は群馬の森・県立歴史博物館に展示されているレプリカ。以前行った時に偶然撮っていた。

高さ1.66m、腰回り1.57mとほぼ等身大の大きさ。蛇紋岩質軽石凝灰岩を丸彫りしており、片目を半眼に片目をかっと開く一目諦視の忿怒相で、右手は腰に智剣をとり左手は絹索をとって垂らしている。仏師は定朝流の院隆と院快である。

墨書によると、願主は源氏義。新田氏の祖・義重の庶長子である里見義俊の曽孫にあたる。渋川市金井の金蔵寺に供養塔が建っている源(里見)義秀は氏義の異父兄になる。
(「里見義秀の供養塔?・登澤山金蔵寺」参照)

宮田山不動寺 (11)
宮田山不動寺 (12)
奥の院横の六地蔵石幢。文明3年(1471年)の造立。

宮田山不動寺 (13)
宮田山不動寺 (14)
奥の院から一段低いところに庫裏と書院がある。2階建てが庫裏で平屋が書院。不動寺の創建には樽地区出身で東京・泉岳寺42世の小坂準爾氏が協力してる(不動寺住職も永年務めていた)。泉岳寺はご存じの通り、赤穂藩主・浅野長矩や大石内蔵助など47士の墓があるお寺。

昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲で泉岳寺が焼失したため、小坂住職一家が数年間庫裏(含む書院)に居住していた。


門松 (12)
明けましておめでとうございます。
みなさまにおかれましては、健やかな新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。

ブログ生活も15年目を迎える。「上州まったり紀行」「まったりとスペシャル系」の2本体制にしてからも10年目。HPも立ち上げから同じく10年目。なんとなく、みな節目のような年だ。改めて、良く頑張ってきたなと思う。

今年も「上州まったり紀行」で群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡などを紹介しつつ、「まったりとスペシャル系」は好き勝手書いていく。これを何とか続けられるようして行きたい。

世の中は「ウイズコロナ」から「アフターコロナ」へ転換が進む。とは言え、日本人の気質から各種感染症対策は継続されているケースが多い。各所への訪問に際しては、今後も節度ある行動を心がけていきたい。

今年も「上州まったり紀行」「まったりとスペシャル系」「Tigerdream-NET」をよろしくお願いいたします。

みなさんにとって2024年が良い年となるよう祈念いたします。


2023年も残すところわずかとなった。恒例の「上州まったり紀行Award(アワード)」を発表して、1年の締めくくりとしたいと思う。

今年は115ヶ所(件)の記事をUPすることができた。新型コロナの蔓延以降、だいたい120ヶ所前後なので、こんなものでしょう。コロナ前は最大で200ヶ所も訪問したこともあったが、世の中「withコロナ」から「afterコロナ」に移行したと言えるが、今後もこれくらいのペースでいいでしょ。

なかなか遠出(西毛からの距離で)をすることは出来なかったが、前橋市・前橋市(旧富士見村)・高崎市・高崎市(旧群馬町・旧箕郷町)・渋川市(旧北橘村)・安中市・安中市(旧松井田町)・富岡市・富岡市(旧妙義町)・藤岡市・高山村の各所を訪問することができた。

では、2023年の個人的偏見による記憶や印象に残った場所です。なお。昨年までのベスト5はやめます。オレごときの意見で順位を付けるなど失礼だと思うので。記載は記事のUP順。件数も5件に限らず。

まずは「伝説」編。伝説の残る史跡や場所の中からいくつか。

村主の泉跡(前橋市泉沢町)
冷泉が湧出し、この水で眼病の人が眼を洗うと眼病が自然に治癒するといわれた「御神水」の泉。ところが、酒が湧いて出たといわれる伝説も残る。百姓がこの酒ばかり飲んで、仕事をしなくなったようだ(笑)。特に見るべき遺物はないが、伝説を楽しむことが重要。

鳶石(前橋市上細井町)
旧利根川(古利根川)の船着き場の船つなぎ石として使われていたとされる石。名前の由来に伝説が残っている。神武天皇が長髄彦との戦いに勝利した時の「金の鳶」が奥州から大和へ向かう途中、翼を休めたのが鳶石であると伝えられている。

弘法の井戸(富岡市妙義町八木連)
弘法大師(空海)が見つけた水源。と言うか湧き出させた井戸といわれる。その場所には弘法大師が金の独鈷を埋めたといわれ、昭和25年(1950年)の調査で実際に鈷が出てきた(金ではなかったが)。現場は綺麗に整備されているので、過度なイメージは不可。

駒寄の井戸(富岡市一ノ宮)
弘法大師(の馬)と名馬・摺墨の伝説が残る井戸。さらに当所は「お女郎坂」と呼ばれる坂の上にある。井戸には蓋がされているが、伝説を思い起こしながら訪れると雰囲気は味わえる。磨墨は永寿3年(1184年)の源範頼・義経軍と木曽義仲軍との「宇治川の合戦」で先陣争いを演じた梶原景季が乗っていた名馬。


次いで、いつものように記憶や印象に残った神社仏閣、遺跡・史跡です。

越出山香集寺(前橋市上小出町三丁目)
「地獄の責め具」を型どった珍しい石造物がある。室町時代末の造立とされる浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)・人頭杖(じんとうじょう)・業秤(ごうのはかり)。いずれも閻魔大王が死者の生前の罪を裁くためのもの。

不入の蔵骨器(前橋市富士見町石井)
蔵骨器は火葬した骨を納めた石製の骨つぼのこと。奈良時代から平安時代のものと推定されており、蓋石とセットで残っているのは珍しい。当時も一部の貴人は火葬されていたことの証拠でもある。

碓氷関所跡(安中市松井田町横川)
「碓氷峠の関所跡」と上毛かるたに詠まれている。「旧東門」(廃関時に使用されていた木材による復元)と「おじぎ石」くらいしかないけど。群馬県民ならみな知っていると思うが、訪れたことがある人は少ないと思う。(2回目の訪問)

古柳観音(富岡市原)
古柳観音は聖徳太子の御作とされる聖観音像を安置したことに始まるという。太子作の観音像は焼失したが、後に弘法大師が彫刻してくれたという。大きな観音像を間近に見られるのはありがたいこと。伝説編の方でもよかったかな。

富岡諏訪神社(富岡市富岡)
拝殿正面の彫刻(精緻な龍と神子、獅子・漠など)が素晴らしい。寺社の彫刻って覆屋内だったりして見づらいことが多いが、拝殿なので直に見ることができる。なお、社名不明の境内社の彫刻も素晴らしい。

宮崎山龍光寺(富岡市富岡)
龍光寺には富岡製糸場で働いていた工女さん48人が眠る。全国から工女さんが集まっていたが、親元を離れ病により異郷のこの地で命を落とした乙女たち(最年少は9歳10月)のことを考えたらウルウル来るものがある。

もちろん、これら以外にも印象に残った場所はたくさんあり、新しい発見もあった。来年はもっと遠出がしたいと思っている。利根・沼田地方には久しく行ってないし、東毛地方もご無沙汰気味だし。

今年も「上州まったり紀行」をご覧いただきありがとうございました。多くの方々にブログを見ていただき、感謝しかありません。2024年も引き続きよろしくお願いいたします。みなさま、良いお年をお迎えください。


安中市安中の熊野神社。

安中熊野神社 (1)
当地には諏訪神社と三島神社が祀られており、野後郷の鎮守であった。永禄2年(1559年)に安中忠政(重繁とも)が越後国新発田から熊野権現を勧請、安中城(野後から安中に改称)の鬼門守護とした。明治40年(1907年)八坂神社、神明宮、菅原神社、稲荷神社、浅間神社などを合祀している。

神門は安中城の東門を移築したとされる。築城時の門だとすると、460年以上経っていることになる。ちなみに、安中城の廃城は天正18年(1590年)。

安中熊野神社 (2)
安中熊野神社 (3)
鳥居は平成11年(1999年)の建立。

安中熊野神社 (4)
安中熊野神社 (5)
安中熊野神社 (6)
安中熊野神社 (7)
拝殿は向拝に向唐破風を出しており、欄間には透かし彫りの板羽目を入れ、頭貫の木鼻は唐獅子とかご彫り菊の葉を交互に出している。虹梁頭貫の彫刻は精悍な龍。建立年などは不明だが、彫刻類の技法は江戸時代のものとされる。ただ、着色(復元?)は最近のことのようだ。賛否ありそうだが。

安中熊野神社 (8)
拝殿内の大絵馬は狩野永秀知信の筆で、文久2年(1862年)の安中宿の人々の奉納。皇女和宮の江戸下向の無事を祈願したもの。

安中熊野神社 (9)
拝殿内の釣灯籠は青銅製。嘉永7年(1854年)安中藩主・板倉勝明が五穀豊穣を祈願し奉納したもの。

安中熊野神社 (10)
もうひとつある大絵馬は日本武尊かな(想像だが)。だとすると隣の女性は弟橘媛?

安中熊野神社 (11)
安中熊野神社 (12)
安中熊野神社 (13)
本殿の板羽目(7面)には鶴や鳳凰を中心に樹木をあしらい、霞のような雲を配した透かし彫りの彫刻が施されている。室町期の技法とされる。

安中熊野神社 (14)
境内社の諏訪神社。熊野神社以前から祀られていた一社。

安中熊野神社 (15)
安中熊野神社 (16)
境内の大ケヤキ。樹身の三分の二が崩れ落ち、残る三分の一が東北に傾いてしまっているので鉄柱で支えている。この木に願をかけるとイボを取る霊験があるといわれた。諏訪神社のご神木といわれ、樹齢は約1,000年という。

安中熊野神社 (17)
安中熊野神社 (18)
鳥居手前のお堂。中もよく見えず不明なのだが、三猿の彫刻が施されているので、庚申関係のものかな。

なお、碓氷峠の長野県との県境(安中市松井田町峠)にある熊野神社でとは別社です。一応、念のため。

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