加藤清正の孫 藤枝正良の墓・慶寿山妙光寺 その2
沼田市坊新田町の慶寿山妙光寺。
ここには加藤清正の孫・藤枝正良の墓がある。
案内板も何もなかったけど、多分これだと思う・・・。墓石正面に「藤」の字が読めたので。あんまり自信はないけど。
何で加藤清正の孫の墓が沼田にあるかというと、慶長16年(1611年)清正死後、3男・忠広が後を継いだが、寛永9年(1632年)に改易になる。その際、嫡男の光広は飛騨高山藩に、次男・正良は沼田藩に、それぞれ預けられたから。
沼田の寺院ってあまり案内板を設置してないので(市重文以外)、ほんとに分かりづらい。さらに歴史ありそうな墓石が多いのと、すごく立派な一般の方のお墓も多く、けっこう探すのに難儀をする。
やっぱりここでも、ウロウロ。
藤岡市西平井・平井七地蔵尊
藤岡市西平井・平井山常光寺
藤岡市西平井の平井山常光寺。
常光寺は元亨3年(1323年) 原常光が開基し、観光普門和尚の開山といわれる。
山内上杉顕定の菩提寺といわれるが、天文21年(1552年)の平井城落城時や文禄年間(1592~96年)に焼失し、上杉家の位牌や記録は失われている。そのためか、上杉氏にまつわる遺物はなく、藤岡市の解説板がなければ上杉氏ゆかりのお寺とは分からない。
山内上杉顕定は、文正元年(1466年)に上杉家を継ぎ、関東管領となり、以後44年の長きにわたり関東管領を勤めている。顕定は永生7年(1510年)長森原(新潟県六日町)の戦い敗北、自刃している。
新潟県南魚沼市下原新田の周辺には、かつて長森原の戦いの戦没者を埋葬したとの伝承をもつ塚が点在していたが(下原百塚)、その中でひと際大きな塚は管領塚と呼ばれ、顕定の墓と伝えられている。
しかし、この時代は資料を何回読んでも理解できないね。鎌倉公方だ古河公方だ、各家は内紛だらけだし、室町時代中・後期の人気がないのも分かる気がするよ。
藤岡市西平井・三嶋神社
藤岡市西平井の三嶋神社。
関東管領・山内上杉顕定が伊豆の三嶋大社から分祀し、平井城の氏神として祀ったといわれている。そのとき笈(おい)で御魂を移し、笈は神宝として残っている。笈とは僧や山伏が物などを入れて背負う箱のこと。
三嶋神社は本社(下ノ宮)と別殿(上ノ宮)がある。何故かは知らない。
まずは本社(下ノ宮)。
続いて別殿(上ノ宮)。
別殿の拝殿(?)は特徴のある造りである。
毎年11月15日に行われる秋季大祭の前夜祭には、夜祭りが行われる。14日の午前中、御神体を乗せた神輿が本社(下ノ宮)から約1km離れた別殿(上ノ宮)へ静かに渡御、奥の院に安置される。そして午後9時半頃、神輿を中心に行列を組んで本社に渡御する。
この渡御は古い祭りの形態を残しており、貴重なんだそうだ。
蝸牛石(だいろいし)・真穀山仙蔵寺
藤岡市西平井の真穀山仙蔵寺。
文応元年(1260年)法印親玄の創建。応永3年(1396年)関東管領・山内上杉憲実が中興開基したといわれている。
元禄9年(1696年)に文庫・経堂を焼失し、宝暦8年(1758年)に再建されている。本堂の欄間彫刻は、唐獅子が滝に打たれている(?)。
仙蔵寺には、平井城三石のひとつ「蝸牛石(だいろいし)」がある。蝸牛とはカタツムリのことで、これを「だいろ」と呼ぶのは、この辺の方言のようだ。「だいろ」なんて、初めて聞いたけど・・・。
平井城には、「亀石」「虎石」「蝸牛石」があり、落城の際に村人により運び出され、守られてきたという。ただ、蝸牛石を預かった家に災難が続き、引き取り手がなくなってしまい、今は仙蔵寺にあるという。
蝸牛石は雨が降ると動き出す(!)ことから、かたつむりの魂が宿っているといわれている。
まあ、写真を見てもわかるように、底が丸く不安定なため動きやすい形状なので、濡れた時などに回るように動いたのが、大げさに伝わったものだと思う。
藤岡市西平井・上杉乳母神社
藤岡市西平井の上杉乳母神社。
天文21年(1552年)に小田原の北条氏康に攻められ、関東管領・山内上杉憲政は越後に亡命。平井城は落城した。
憲政は平井城退去に際し、妻子を置き去りにしたとの説がある。実際に越後には同行していない。
では、残された妻子、特に子どもたちはと言うと・・・。嫡子・龍若丸は家臣の裏切りにより、北条へ引き渡され落命(異説あり)。次男・鶴若丸は乳母とともに多比良(吉井)方面に落ちる途中、北条方に見つかってしまい、乳母は奮戦したが鶴若丸は殺害され、乳母は自害したという。
村人たちは、乳母と若君の亡骸を手厚く葬り、祠を建てて祀った。
後世、最後まで主君に忠節を尽くした乳母を称えて、「若君と 共に野末に 散り果てし 乳母の御魂は 尊うとかりけり」という碑が建てられている。
もともとは、憲政が天文15年(1546年)の河越城夜戦にて大敗を喫し、天文17年(1548年)には突如として武田信玄を攻め、しかも敗れるという愚挙により、家臣層の離反や内訌を招くこととなり、勢威を失ったことに端を発しているんだよね。
山内上杉氏累代の墓・護国山円満寺
藤岡市西平井の護国山円満寺。
室町時代前期の永享10年(1438年)、関東管領・山内上杉憲実が鎌倉から平井へ退去する際、鎌倉の極楽寺を平井に円満寺として再建したといわれている。
なぜかしら、山門は妙に立派なんだよね(笑)。
円満寺は天文21年(1552年)平井城落城のときに焼失している。江戸時代中期の明和5年(1768年)、現在地に移り再建している。
参道脇に、上杉氏累代の墓と記された供養塔が建っている。
昭和55年(1980年)、上杉憲房の墓碑が発見され、上杉氏の菩提寺だったと考えられている。憲房は憲実の孫で、北条氏に追われ越後に逃げた憲政の父にあたる。
(「関東管領 山内上杉氏の居城・平井城址」参照。)
はっきり言って、室町時代ってよく分かんないんだよね。いろいろ資料を読んだんだけど、やっぱり良く分かんない。
とは言え、平井城のお膝元なので上杉氏関連がちょっと続くよ。
伊香保森林公園・わしの巣風穴
渋川市伊香保町伊香保のわしの巣風穴。
伊香保森林公園内にある1年中冷気ただよう洞窟(と言うか穴)。
伊香保森林公園は、榛名山の外輪山・二ツ岳(1345m)を中心として東西約2.9km、南北約1.9kmに及ぶ緑豊かな公園。登山道やハイキングコースも整備されている。
公園内には、もみじの広場、風穴、むし湯跡、つつじが丘、まゆみの原、オンマ谷などがある。
管理棟から整備された道を登っていくと、わしの巣風穴がある。
この風穴は榛名山の寄生火山として活動していた二ツ岳が終末期を迎え、穴山の隆起と冷却の過程において、山や岩が裂けて山全体にすき間ができたもの。
古くは硫気(いおう)を吹き出す穴であったが、現在は非常に冷たい冷風が吹き出している。写真が靄っているのは冷気!
ちょっと見づらいが、入り口の温度計。なんと5℃!! 外気もあたる入り口付近で5℃なので、中は当然それ以下。体感0℃! 短パン・半袖シャツといういでたちでは、とても1分も入ってられなかった。
ちなみにこの日(9月上旬)の前橋の最高気温は32℃、森林公園管理棟付近では23.5℃(車の外気温度計から)。
伊香保じたいが下界に比べれば非常に涼しいんだけど、風穴内は凍えるくらいの寒さだった。
渋川市八木原・佐渡奉行街道の道しるべ
渋川市八木原の佐渡奉行街道道しるべ。
八木原宿南の三叉路にあり、天保4年(1833年)に建てられた。自然石で高さ133cm。(隣の大きな常夜灯は、昭和60年(1985年)建立の新しいもの。)
表面の上部には、「右高崎」「左江戸」と大きく刻まれ、高崎は四里、江戸は三十里と記されている。
この道しるべのすごい所は、県内の榛名、妙義のみならず、栃木県・日光山、長野県・善光寺や三重県・伊勢神宮、大坂、京都、讃州金毘羅までの距離が記されていること。
日光山・二十三里(92km)
善光寺・三十三里(132km)
伊勢神宮・百十里(440km)
京都・百十一里半(446km)
大坂・百二十四里半(496km)
金毘羅・百七十五里半(702km) *一里を4kmで計算
だいたい合ってる? 検証はしてないけど、感覚的にはこんなもんかな。しかし、わざわざ「半」なんてつけてるところが、尤もらしい。
これを見ると、江戸末期には庶民も旅行というか、お参りというかが、一般的になっていたということが分かるね。
関連 「吉岡町大久保・佐渡奉行街道の道しるべ」
榛東村山子田・船尾山柳沢寺
北群馬郡榛東村山子田の船尾山柳沢寺(りゅうたくじ)。
以前紹介した「矢落観音」で、焼かれたお寺。
(「吉岡町漆原・矢落観音」参照。)
元のお寺を吉岡町の文化財パンフでは楊沢寺と記載しているが、柳沢寺のHPでは息災寺とある。細かいことは分からないが、経緯を読む限りではだいたい同じことが書かれている。
仁王門は寛延3年(1750年)の再建。二層丹塗りの楼門で、表の両側に仁王像、裏の両側に二天(広目天、多聞天)が安置されている。
宝暦年間(1751年~1763年)建立の赤門。勅使門だと思う。波間の麒麟(?)の透かし彫り。
山門は薬医門。文政年間(1818年~1829年)の建立。
上が本堂で真ん中が客殿。客殿が本堂だとばかり思っていた・・・。帰ってきてから調べたら、違っていた。小さいお堂があるけど、とりあえず撮っておこうと撮った写真が本堂だった。
平成10年(1998年)建立された五重塔。高さは11m。群馬県内で五重塔があるのは、ここだけ?(榛名神社に三重塔があったような気がするけど)
京都から専門の宮大工を呼び寄せ、5年の歳月をかけて建立したらしい。五重塔としては小さい部類に入るが、よく建てたもんだ。
吉岡町大久保・佐渡奉行街道の道しるべ
北群馬郡吉岡町大久保の佐渡奉行街道道しるべ。
大久保宿のはずれ、佐渡奉行街道と伊香保街道との分かれ目に建つ自然石の道しるべ。
「右ゑちご志ぶ川」「左いかほミづさハ」と刻まれている。
裏には「寛政十二年庚申」と刻まれている。寛永12年は1800年である。
佐渡奉行街道は、中山道本庄宿から分れて玉村・前橋を通り、渋川で三国街道と合流する街道で、高崎からの三国街道ができるまでの古道。佐渡金山を管轄する佐渡奉行が、佐渡・相川に赴任する際に利用したので、佐渡奉行街道と呼ばれた。
佐渡奉行街道は、佐渡金山の労役につく無宿人の護送路でもあった。「佐渡送り」と呼ばれ、この世の地獄といわれるほどの過酷さだったらしい。
吉岡町漆原・矢落観音
北群馬郡吉岡町漆原の矢落観音。
平安末期に榛名山に船尾山楊沢寺という大寺があったが、楊沢寺は「相満の変」により焼失。この際、本堂が焼け落ちようとしたとき、悪蔵坊という僧が観音様を矢に結わえ東天目指して弓にて射放った。
観音様は麓にて桑摘みをしていた娘のざるの中に納まったという。村人たちは観音様を小さなお堂を建てて祀ったのが謂れとされている。お堂は明和2年(1765年)に改築され、明治40年(1907年)現在地に移築されている。
ちなみに、この観音様は唐の天台山より伝来したもので、伝教大師最澄が楊沢寺に祀ったものだという。
ちょっと長いが、「相満の変」のあらまし。
下総国の武将・平常将が楊沢寺を焼き討ちした事件のこと。常将が楊沢寺(息災寺とも)に願掛けをし子供を授かった。相満と名付けられた子供は、願掛け時の約束により5歳になると寺に修行に行くことになった。ところが榛名山の天狗が相満をさらってしまう。相満が行方不明になったと知った常将は寺の僧が殺してしまったと思い込み、寺を焼き討ちしてしまった。寺が焼け落ちると天狗が現われ、常将は相満が天狗にさらわれたことを知り、寺を焼き討ちした自分を恥じて自害してしまう。
向拝の虹梁の木鼻には龍や唐獅子などの彫り物があり、極彩色に彩られている。
矢落観音は飛来した観音様がざるに納まったことから「ざる観音」ともよばれ、毎年1月14日の縁日には、ざる・籠などの竹細工品の市が立ち賑わうとのこと。
峠の釜めし・おぎのや(荻野屋)
安中市松井田町の荻野屋。
「峠の釜めし」の製造・販売元と言えば分かりやすいか。
荻野屋は明治18年(1885年)創業、昭和33年(1958年)に発売した「峠の釜めし」が大ヒット。写真は横川駅前の本店。
本店前にある「おぎのや資料館」。
おぎのや資料館は、信越線横川-軽井沢間が廃線になった後、地域の活性化を願い開館したもの。館内には横川駅にまつわるもの、おぎのやの歴史等が展示されている。
釜めしは、直径14cm、高さ8.5cm、重量725gの益子焼の釜に入った薄い醤油味の出汁による炊き込みご飯である。鶏肉、しいたけ、たけのこ、栗、杏子、うずらの卵などが彩りを添える。
釜は栃木県芳賀郡益子町の窯元・つかもとで製造されており、釜の上部(上薬が塗ってある茶色の部分)には、「横川駅」「おぎのや」の文字が刻まれている。
当時は、信越線の全列車が、横川駅-軽井沢駅間の碓氷峠通過に際し、ED42形電気機関車への付け替えが必要なために、比較的長時間停車するので、駅弁として売りやすかった。また、温かい駅弁(昭和30年代では画期的!)であったことなどから人気商品となり、現在まで販売されているロングセラー駅弁となった。
今は駅弁と言うよりも、郷土料理といった方がいいかも知れない。