上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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伊勢崎市美茂呂町の石岡山退魔寺。

退魔寺 (1)
退魔寺 (2)
退魔寺は応安4年(1371年)茂呂勘解由左衛門尉が、鶏足寺から道照禅師を開山に迎え香華院を創建。ちなみに応安は北朝の年号で、南朝では建徳2年となる。

天正18年(1590年)石田三成がこの地を通った際、近くの土橋(現、円光橋)付近に毎夜妖怪が出没し、住民が難儀していると聞きつけこれを退治。住民は大いに喜んで、寺名を退魔寺と改めたという。

退魔寺 (3)
本堂は寛文11年(1671年)の建立とされる。寛政4年(1792年)、昭和63年(1988年)に大改築をしている。

退魔寺 (4)
退魔寺 (5)
延宝5年(1677年)建立の不動堂。昭和16年(1941年)の再建。

退魔寺 (6)
不動堂脇に毘沙門天がいた。風化しており良く分かんないけど、右手に宝棒、左手に宝塔を持っているように見えるので毘沙門天。

石田三成の逸話が群馬にもあったなんて知らなかった。でも、退魔寺に石田三成ゆかりのものがあるかと言うと、何もない。


渋川市川島の甲波宿禰(かわすくね)神社。
延喜式内社・上野国十二社の四之宮である。

甲波宿禰神社 (1)
甲波宿禰神社 (2)
宝亀2年(771年)の創建。貫前神社、赤城神社、伊香保神社に次いで上野国四之宮と称された。

甲波宿禰神社 (3)
甲波宿禰神社 (4)
もとは吾妻川のほとりに鎭座していたが、天明3年(1783年)の浅間山の大噴火による泥流にて流出。天明5年(1785年)現在地に再建されている。

甲波宿禰神社 (5)
甲波宿禰神社 (6)
甲波宿禰と言う名の神社は、渋川市に3社、東吾妻町(旧東村)に1社ある。渋川市行幸田以外は吾妻川流域にある。渋川市の川島(ここ)、祖母島と東吾妻町の箱島。いずれも地名に「島」が付くという共通点がある。

この3社は吾妻川に沿って鎮座し、「甲波」は川、「宿禰」は「直根」で、川の本流を意味すると考えられることから、吾妻川を神格化して祭祀した神社といわれている。山の神を祀っている神社は多いが、川の神を祀ったものは全国的にも珍しい。

ところで、これで延喜式内社・上野国十二社を巡ったことになる。
 一之宮 貫前神社
 二之宮 赤城神社 (赤城山三夜沢二宮
 三之宮 伊香保神社 (里宮:三宮神社
 四之宮 甲波宿禰神社
 五之宮 大国神社
 六之宮 榛名神社
 七之宮 小祝神社
 八之宮 火雷神社 
 九之宮 倭文神社
 十之宮 美和神社
 十一之宮 賀茂神社
 十二之宮 宇芸神社

成り行きで始まったけど、多少の達成感はあり。


高崎市倉賀野町の倉賀野神社。

倉賀野神社 (1)
崇神天皇の皇子・豊城入彦命は父帝から東国の平定を命ぜられる。出立の時帝から亀形の自然石(亀石)を授けられた。

倉賀野神社は、豊城入彦命が都から持参してきた亀石を御霊代として、祭祀行ったことに始まるという。この石は大国魂神の分霊とされ、倉賀野神社のご祭神となっている。

倉賀野神社 (2)
倉賀野神社 (3)
建長5年(1253年)倉賀野氏の祖・高俊が社殿を造営。以後、倉賀野氏の氏神として社殿の建替、修復が繰り返された。

倉賀野神社 (4)
倉賀野神社 (5)
現在の本殿は慶応2年(1866年)の造営で、一間社流造りで背後に唐破風を付けたり、随所に彫刻を施した立派なもの。

倉賀野神社 (6)
拝殿前に建つ常夜燈。これを寄進したのは、倉賀野宿の飯盛り女・三国屋の「つね」である。他にも、飯盛り女が寄進したという石玉垣もある。
(飯盛り女に関しては、「飯盛り女の墓・一行山九品寺」参照。)

「飯盛り女」も心の拠り所として神仏にすがりたい、ということもあったんだろうね。


高崎市倉賀野町の倉賀野城址。

倉賀野城址
児玉党・秩父高俊が倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏を称した。倉賀野城は室町時代初期に倉賀野頼行が築城したといわれる。

倉賀野氏は永禄6年(1563年)に武田氏に攻められ滅亡。家臣であった金井秀景が、倉賀野の地を治めるようになった。秀景は倉賀野氏を名乗る。その後、織田方の滝川一益、北条方の垪和伯耆守が治めたが、天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めに伴い落城、廃城となった。

金井秀景は、滝川一益、垪和伯耆守にも従っており、変わり身が早かったようだ。最後は北条氏とともに小田原城に籠城。落城後死去しているが、死因は不明のようである。

倉賀野城の名残は、今や雁児童公園に城祉碑があるのみである。周りは住宅地になっており、遺構らしきものは多分ない。

倉賀野城の北の砦だったところに大用山永泉寺があり、そこには倉賀野(金井)秀景の墓がある。(「倉賀野城主 金井秀景の墓・大用山永泉寺」参照。)


高崎市倉賀野町の一行山九品寺(くほんじ)。

九品寺 (1)
九品寺は延徳3年(1491年)倉賀野城主・倉賀野五郎行信の創建といわれる。

九品寺 (2)
大きな石碑は橋供養碑で、宝蔵橋(太鼓橋)を架け替えた際の旧橋供養のために建立されたと考えられる。文化4年(1807年)の銘がある。この橋の架け替えの話は、後で紹介。

九品寺 (3)
九品寺 (4)
本堂は平成23年(2011年)の再建。まだ新しい。

九品寺 (5)
旧本堂に乗っていた鬼瓦(だと思う)。

九品寺 (6)
本堂西側に「飯盛り女」の墓がある。飯盛り女とは、江戸時代に街道宿場にいた、奉公人という名目の女郎(私娼)。倉賀野宿は寛保2年(1742年)に宿場女郎屋の鑑札が許可され、64軒の宿屋に200人もの飯盛り女がいたという。 

先述の橋の架け替えは、宿屋の主人たちが金を出し合ったことになっているが、実際は飯盛り女の給金から出させたもの。貧しさゆえに奉公に出され(実際は売られ)、暮らしも楽ではなかった思うが。悲哀・・・。


桐生市織姫町の織姫神社。

織姫神社 (1)
織姫神社 (2)
明治28年(1895年)に日本織物(後の富士紡績)によって、山田郡川内村(現、桐生市川内町)の白滝神社から現在地に勧請されたものである。

織姫神社 (3)
織姫神社 (4)
織姫町周辺は、かつて富士紡績桐生工場があった場所で、太平洋戦争中は、中島飛行機の時局産業に転用されていた。終戦により返還されたが、富士紡績は土地・建物を桐生市に譲渡している。

白滝姫
御神体は等身大の白滝姫立像である。平成12年(2000年)に神社の補修調査を行った際、幕末・明治期に活躍した生人形師・安本亀八の作であることが判明している。白滝姫は身の丈163cmで、左手に金糸の糸巻、右手に扇を持っている。

白滝姫の写真は、桐生市織姫自治会のHPから拝借。平成21年(2009年)11月、織姫神社115周年祭のご開帳時のもの。今後5年ごとに御開帳予定らしいので、次回は平成26年(2014年)。

桐生市民センター
織姫神社は市民文化会館の敷地内なので、すぐ隣にスカイホールが見える。繭形の大きな屋根が特徴。遠くから浮遊しているように見えるよう設計され、外壁は光の加減によって白やシルバー、光沢のあるグレーに変化する。

総事業費140億円だってさ。金かかってんなぁ~。桐生市の住民税、高そう!

話がそれたけど、白滝姫は色白で美しいね!


桐生市宮本町の桐生西宮神社。

西宮神社 (1)
兵庫県西宮市のゑびす宮総本社西宮本社の直系分社として、明治34年(1901年)に分霊勧請された。御祭神は蛭子大神で、美和神社の境内に遷座している。まあ早く言えば美和神社の境内社。

ところで、この鳥居の写真に写っている社号標は、美和神社のもの。

西宮神社 (2)
確認のため鳥居を見ると、やっぱり西宮神社の鳥居。

西宮神社 (3)
西宮神社 (4)
鳥居の右側に広い参道がある。毎年11月のゑびす講で賑わうので、後から作ったものかな、と勝手な想像。

西宮神社 (5)
西宮神社 (6)
西宮神社 (7)
境内社だということを考えると、社殿はものすごく立派である。ゑびす講というお祭り(例大祭)を見ても、すでに境内社の域ではなく、ひとつの単独神社と扱っていいと思う。

ちなみに、桐生西宮神社は「関東一社」の称号を受けており、関東における唯一の直系分社の格式をもっている。


桐生市宮本町の美和神社。
延喜式内社・上野国十二社の十之宮である。

美和神社 (1)
崇神天皇の御代に大和国の三輪山から御分霊を勧請したことに始まると伝えられる。延暦15年(796年)に賀茂神社とともに官社に列した。賀茂神社は上野国十一之宮。
(賀茂神社は「上野国十一之宮・賀茂神社」参照)

美和神社 (2)
美和神社 (3)
美和神社は上野国延喜式内社の古社で、何となくだけど威厳を感じる。

美和神社 (4)
本殿も落ち着いた雰囲気である。

美和神社 (5)
鳥居の前に大きく湾曲しながらも、たくましく上へ伸びる「ド根性松」がある。樹齢100年以上とみられる高さ約6mのアカマツ。約2mの高さで北側に大きく湾曲しているのが特徴で、いったん下に向いた枝葉が再び上に向く珍しい形をしている。「美和の上がり松」と言うらしい。

ところで、これで延喜式内社・上野国十二社のうち、11社参拝完了である。残すところ、四之宮・甲波宿禰(かわすくね)神社(渋川市)のみとなった。まあ、最初は意図的じゃなかったけど、途中からはどうせなので全部回りましょうと。あと1社なので頑張ろう。


桐生市仲町の桐生倶楽部会館。

桐生倶楽部 (1)
社団法人「桐生倶楽部」は、明治33年(1900年)に誕生した産業人の社交機関「桐生懇話会」をその設立母体としている。当時桐生町と周辺町村の有力者は協力して、桐生停車場、銀行誘致、電話設置などに尽力、桐生町発展の基礎を作った。

桐生倶楽部 (2)
桐生倶楽部 (3)
桐生倶楽部会館は、大正8年(1919年)に桐生倶楽部の活動拠点として造られた木造2階建て、寄棟、瓦葺きの大正モダニズムの薫りを伝える洋館。縦長の上げ下げ窓、4本の煙突、玄関ポーチにはギリシャ神殿風の柱、玄関扉上部はファンライトと呼ばれる半円形の欄間を設えている。

桐生倶楽部 (4)
外壁はリシン吹き付けで、桐生倶楽部のマーク(?)「K」の文字が。

桐生倶楽部 (5)
桐生倶楽部 (6)
桐生倶楽部 (7)
各部屋は机や椅子、暖炉にランプ、絵画など、それぞれの部屋の用途、雰囲気に合った調度品が置かれ、部屋の個性をさらに引き立てている。

大正時代は15年と短かったが、日本が大きく変化した時期である。このように大正モダニズムを感じる建物は数少なくなっており貴重と思う。


桐生市天神町の桐生天満宮。

桐生天満宮 (1)
景行天皇の御代(71年~130年)に天穂日命を祀る神社として創建されたと伝えられ、当初は磯部の岡に鎮座していたため磯部明神といった。南北朝時代初期に桐生綱元(桐生氏の祖)が、京都・北野天満宮から菅原道真を合祀して天満宮とし、桐生の総鎮守とした。

桐生天満宮 (2)
桐生天満宮 (3)
御神橋を渡ると神門がある。神門は平成大修理で新設されたもので、桐生門と名付けられている。

桐生天満宮 (4)
桐生天満宮 (5)
社殿は、群馬県内の江戸時代の神社建築に多くみられる、本殿が幣殿・拝殿につながるいわゆる権現造りの形式である。

桐生天満宮 (6)
本殿・幣殿は岩の上に建ち、社殿すべてが当時の建築装飾技術の粋を集めた建造物である。岩の上に建っていることから、「岩の上の天神」と称される。って、そのまんまね。

桐生天満宮 (7)
本殿・幣殿の外壁には、極彩色の精巧かつ華麗な彫刻が施されており、内部にも同様な彫刻とともに壁画も描かれている。「きりゅう」の語源になったともいわれる「貴龍」は拝殿の天井絵。

桐生天満宮のすぐ近くには、桐生一高や桐生工高、桐生女子高があるので、学問の神様も受験シーズンは忙しそうだね。


桐生市堤町の水道山記念館。

水道山博物館 (1)
水道山博物館 (2)
桐生市水道課(現在の桐生市水道局)の配水事務所として昭和7年(1932年)に建設された。木造平屋建、外壁はスクラッチタイル貼り、屋根は瓦葺である。

昭和47年(1972年)、40年に及んだ配水場事務所としての役割を終え、昭和60年(1985年)から昭和61年(1986年)にかけて改修工事が行われ、「水道山記念館」と改称している。

昭和初期に造られた貴重な近代化遺産である。

水道山博物館 (3)
現在は資料展示と会議や研修会などで、市民に利用されている。

桐生市には西洋風やモダンな建築物が多いね。


桐生市相生町の桐生明治館。

桐生明治館 (1)
明治11年(1878年)に衛生所兼医学校として、前橋(現群馬会館位置)に建設される。その後、昭和3年(1928年)に山田郡相生村役場として移築される。

昭和59年(1984年)から昭和61年(1986年)にかけて保存・修理工事行い、創建当時の姿に復元されている。

桐生明治館 (2)
建物は木造二階建の桟瓦葺で、当時の洋風潮流に基づくポーチやベランダを付けた典型的な擬洋風建物。玄関を中心に、ほぼ左右対称。

桐生明治館 (3)
桐生明治館 (4)
明治期の人力車・自転車・カメラ、ピアノや家紋入りのドローイングデスクなど、身の回りの品が展示されており、当時の面影を感じることができる。ピアノは桐生随一の豪商・12代書上文左衛門が、大正11(1922)年に納入したもの。

桐生明治館 (5)
2階中央の貴賓室。奥の赤い二脚の椅子は、明治35年(1902年)に皇太子時代の大正天皇がご来桐の折にご使用になられたもので、昭和9年(1934年)に行幸された昭和天皇が再びご使用になられたものらしい。(ただ、この明治館とは関係ないみたいだけど。)

明治の初期洋風建築のさまざまな特徴が見られ、古き時代の面影と異国情緒を今に伝えている。


桐生市広沢町の桐生自動車博物館。

桐生自動車博物館 (0)
ここはトヨタ車を集めた小さな自動車博物館。油彩画のギャラリーも併設されている。建物は大谷石造りの「のこぎり屋根工場」で、70年以上前に建てられた桐生を代表する建物。

桐生自動車博物館 (1)
桐生自動車博物館 (2)
桐生自動車博物館 (3)
桐生自動車博物館 (4)
桐生自動車博物館 (5)
日本の自動車産業の歴史を物語る、昭和30年・40年代のトヨタ車を中心に展示している。

館長さんがいろいろ話をしてくれて、「へぇ~!」「そっかっ!」って分かったような気になっていたんだけど、帰ってきて写真を見ても、どれがなんだか分からず・・・・。

ところで、ここは開館日が非常に少ない。だいたい月に2日(日曜)くらい。HPで事前に調べてから行かないと閉まってる。8月みたいに、「暑かったから開けなかった」(by 館長さん)みたいなこともあるらしい。


桐生市広沢町の賀茂神社。
延喜式内社・上野国十二社の十一之宮である。

賀茂神社 (1)
崇神天皇の御代(前97年~前29年)、豊城入彦命が東国鎮護のため山城国賀茂神を勧請したと伝わる。延暦15年(796年)に美和神社とともに、官社に列したとある。美和神社は上野国十之宮。

賀茂神社 (2)
賀茂神社 (3)
境内に入ると、なんとなく雰囲気が厳か。緑が多いからかな。

賀茂神社 (4)
賀茂神社 (5)
意外と小さい本殿。彫刻の題材は分からないけど、なんとなく面白い。

賀茂神社 (6)
拝殿右横にある石灯籠。高さ210cmで、永和4年(1378年)の造立。造立年代の明らかな石灯籠では、桐生市最古である。

賀茂神社 (7)
天喜年間(1053年~1058年)の前九年の役では、源義家が戦勝祈願に訪れ、また奥州平定後の凱旋時には神楽を奏上したという。

社務所前には源義家が腰掛けたと言われる休み石がある。ちょっと高くて座りづらそうだけど。


前橋市富士見町横室の陣場・上庄司原古墳群その2。

横室古墳公園2 (1)
横室古墳公園2 (2)
上庄司原2号古墳。6世紀後半から7世紀後半の造営と推定される。上庄司原1号古墳の西側に隣接しており、石室のみ移築・復元している。元々は直径約20mの円墳で、南側の一部を除いて周堀が巡っていた。

石室は榛名山二ツ岳噴出の角閃石安山岩を用いた、削り石積両袖型横穴式石室。玄室は間仕切りによって奥室と前庭に区切られ、奥室の床面の方が一段高く造作されていた。

石室は構築後まもなく左壁から崩壊したと思われ、遺物がほとんど盗掘されないで残っていた。直刀・小刀や須恵器・平瓶(ひらべい)・長頚瓶(ちょうけいへい)、ガラス小玉・耳環・馬具、鉄鏃など。

中小の古墳は、だいたい盗掘されてしまっていて、遺物が残っているのは非常の珍しい。埋葬当時の副葬品の内容がわかる貴重な古墳。

横室古墳公園2 (3)
横室古墳公園2 (4)
上庄司原4号古墳。6世紀後半から7世紀後半の造営と推定される。ここから400m南西にあった古墳の石室を移築・復元したもの。直径約16mの円墳で、北側から西側にかけて周堀が巡っていた。

石室は2号古墳と同じ榛名山給源の角閃石安山岩を用いたもので、形状は他の古墳と同様に両袖型横穴式石室。石材の加工方法・石室の構築方法は、截石切組積という当時の最高技術がを用いられている。

確かに、切石の組み合わせは素晴らしく、精巧である。

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