Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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太田市世良田町の世良田東照宮。

世良田東照宮
世良田東照宮2
1644年、家光の命により天海僧正が住職をしていた長楽寺の境内に創建。明治に入り、神仏分離により長楽寺から分離。(長楽寺は、次回ね。)

世良田東照宮3
拝殿は、日光東照宮奥社拝殿を移築したもの。中井正清最後の作といわれている。中井正清は、関ヶ原後に家康に作事方として仕え、江戸城、増上寺、日光東照宮などを手掛けた大工頭。

世良田東照宮4
世良田東照宮5
本殿は、伝左甚五郎作。狩野探幽の彫刻「巣籠りの鷹」が有名。いずれも、国指定の重要文化財。その他、写真はないが、唐門も重文。

とは言っても、拝観料には見合ってない。狭いし。境内には人がけっこういたのに、有料拝観する人がほとんどいないのも分かる気がするよ。オレが行った時は、オレ以外は親子連れ3人のみ。

世良田東照宮6
宝物館と称するところには、相変わらずの家系図が。「本当だよ、本当だよ」と、一生懸命言い訳しているようで、笑ってしまった。

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藤岡市本郷の埴輪を焼いた窯の跡。
前回の土師神社から100mくらいのところにある。歩いて1~2分ほど。

本郷埴輪窯跡
本郷埴輪窯跡 (5)
本郷埴輪窯跡 (2)
明治39年(1906年)に東京帝大・柴田教授により発見されて、昭和18年(1943年)から群馬大・尾崎教授により発掘調査が行われた。その結果、各種埴輪が発見された。国の史跡に指定されている。

本郷埴輪窯跡 (4)
本郷埴輪窯跡 (3)
窯跡は覆屋で保護されている。中を見ると土を掘ったような跡が。窯の跡と言われれば、そうなのかな。

前回の土師神社の記事(「日本三辻のひとつ -土師神社-」参照)で、野見宿禰にもうひとつ逸話があると書いたが、それは埴輪に関すること。

垂仁天皇の皇后が亡くなられた時、殉死を防ぐために埴輪を考案したのが野見宿禰と言われている。ただし、これは考古学的な見地からは否定されており、伝説とされている。でも、埴輪を焼いた窯跡の近所に、野見宿禰を祀った土師神社があるっていうのも、まんざら・・・かも。

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藤岡市本郷の土師(どし)神社。

土師神社
土師神社 (2)
上野国神名帳記載の土師明神。御祭神は野見宿禰(のみのすくね)。日本書紀によると、垂仁天皇の命により當麻蹴速と相撲をとって勝ったという人物。これが相撲の起源と言われている。

土師神社 (3)
土師神社 (4)
土師神社 (6)
境内には「土師の辻」と呼ばれる相撲の土俵がある。これは日本三辻のひとつで、あとは大阪・住吉大社と石川・羽咋神社。

土俵が高く、注連縄も張ってあることから、神格化されていることが分かる。

土師神社 (9)
近くの小学校には、全国でも珍しいと思われるが、校庭に土俵がある。毎年校内相撲大会が開催されているとか。藤岡市が相撲が盛ん、という印象はないけど、将来の横綱が出るかも?

垂仁天皇の時代と言うと、ちょうど紀元前から紀元後にかけて。まあ、垂仁天皇は在位99年、享年139歳(日本書紀)という方ですから、野見宿禰も当然・・・。

ところで、野見宿禰には相撲の起源の他、もうひとつ逸話(と言うか伝説?)がある。それが次の行き先だよ。

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藤岡市浄法寺の広厳山浄法寺。別名緑野教寺。

浄法寺 (3)
浄法寺 (4)
浄法寺 (6)
奈良の唐招提寺を開いた鑑真の弟子である道忠禅師の開山と言われている。なので、奈良時代の創建(?)。

浄法寺 (7)
境内には比叡山延暦寺の開祖・伝教大師(最澄)像がある。しかも元は金ピカ!だったと想像される色。あんまり趣味良くないなあ~。

何で像があるかと言えば、平安時代(817年)に最澄がこの寺を訪れ東国布教の拠点にしたから。

浄法寺
本堂奥には、伝教大師護摩壇がある。ここで修行した?

相輪塔
相輪塔 (2)
最澄の発願により全国に相輪橖が6箇所に建てられ、その内のひとつがここにある。弘仁6年(815年)創建、寛文12年(1672年)改建。青銅製で高さ5.3m。頂部に宝珠が乗っている。最澄の存命中に完成したのは、下野大慈寺とここだけという。

実は、相輪橖の隣には道忠禅師の供養塔もあったんだよね。行った時は道忠って誰よ、という感じで写真も撮ってこなかったんだけど。帰ってきて、調べていたら開祖だったというオチ。多少は調べてから行かなきゃ、と痛感。

追記
再訪記はこちら 「道忠禅師の供養塔 -浄法寺 その2-

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上毛かるた紀行、第26弾!

ふ
(ふ) 分福茶釜の茂林寺

青龍山茂林寺は、応永33年(1426年)大林正通和尚によって開山された曹洞宗の寺院。館林市堀工町にある。

茂林寺
茂林寺総門
茂林寺たぬき像 (1)
茂林寺たぬき像 (2)
総門(通称黒門)をくぐると、参道にはタヌキの像が両側に並んでいる。その数21体。何となく、俗世間っぽくなっちゃってるような気がして、個人的には・・・かな。

茂林寺山門
茂林寺本堂
山門(通称赤門)と本堂は、藁ぶき屋根でいい味出してる、って感じ。

茂林寺大ラカンマキ (1)
茂林寺大ラカンマキ (2)
境内には大きなラカンマキ(羅漢槇)の木があった。ラカンマキの木ってのは、小さく庭木に向いているんだけど、これは大きいねぇ~。

寺伝の分福茶釜伝説ってのは、歴代の住職に仕えていた守鶴という人の茶釜は、いくら汲んでも湯が尽きない不思議な釜だった。あるとき、守鶴の寝ている姿を見たら、手足に毛が生え尾があるタヌキの姿だった。正体がばれた守鶴は、幻術により「源平の合戦」「釈迦の入滅」を披露し飛び去ったという。

でも、オレが知っているのは、おとぎ話の分福茶釜。これはタヌキの恩返しで、助けてもらったタヌキが、芸を見せてお金を稼いで恩返しをするというもの。上毛かるたの絵札が、まさにこれだよね。

宝物拝観(内部拝観)は有料なので、分福茶釜は見てこなかった。でも今思うと、館林って家からすっごく遠く、めったに行けないので見てくれば良かったかな・・・。

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藤岡市下日野の蛇喰渓谷。
鮎川の流れに浸食され、形成された石峡である。

蛇喰渓谷
県道沿いに、まだ新しい(と思われる)駐車場と休憩所がある。オレが行った時は、地元の兄ちゃんがふたり、休憩所に陣取って一服していたぞ。

蛇喰渓谷 (3)
蛇喰渓谷 (2)
蛇喰渓谷 (4)
変成岩を削った川の流れが、なんとなく渓谷っぽいんだけど・・・。一応、500mくらいの遊歩道もあったけど、わざわざ歩いてみる気にもならず。

蛇喰渓谷 (5)
案内表示によると、日野山に住んでいた大蛇が天を舞っていた時、村人が矢を射かけ、それが大蛇の右目に当たって・・・、長いのでやめる。要するに、大蛇が鮎川を堰き止めたところを蛇喰と言っているということ。

でも藤岡市のHPには、矢を射かけられた大蛇が、鮎川に潜って岩をかみ、蛇喰渓谷を作った、とある。まあ、どっちでもいいや。

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高崎市箕郷町の箕輪城址。

もともと、この辺は箕輪町だったが、隣の車郷村と合併して箕郷町になった。その箕郷町も高崎市と合併している。

箕輪城址
箕輪城址2
箕輪城は永正9年(1512年)に長野氏が築城したといわれている。その後、武田氏、織田氏、北条氏と城主が変わり、天正18年(1590年)徳川氏の関東入府に伴い井伊直政が城主に。直政が近代城郭へ改造したが、慶長3年(1598年)高崎へ移封されたことで廃城に。

箕輪城址3
箕輪城址4
搦手口から二の丸址を通り本丸址へ。

箕輪城址5
本丸址には、何にもない。ただ野原が広がっているだけ。何か工夫できないもんかねぇ~。まあ、春には桜がきれいだということだが。

箕輪城址6
箕輪城址7
本丸址隣には御前曲輪址がある。ここは永禄9年(1566年)武田信玄の猛攻に耐えきれず、時の城主・長野業盛(なりもり)が自刃した持仏堂があったところ。19歳と言われている。将兵の慰霊碑も建っている。

ところで、道路沿いに駐車場があったので、そこに車を置いて歩いて登って行ったんだけど、二の丸址横にも立派な駐車場があった。知ってれば、こんなに歩いてこなかったのに・・・。

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太田市世良田町の新田荘歴史資料館。
1985年に開館した東毛資料館が平成21年(2009年)に太田市に移管され、太田市立の新田荘歴史資料館として新たに開館した。

新田荘歴史資料館
新田義貞
お~っ、いきなり新田義貞像。期待が持てる。

ちなみに、この銅像の写真は上毛かるた紀行、「歴史に名高い新田義貞」でも使ってるので、そっちも見てね。

新田荘歴史資料館 (6)
新田荘歴史資料館 (5)
新田荘歴史資料館 (4)
新田荘歴史資料館 (3)
新田氏や義貞関係の展示であふれている・・・わけではなく、古代から時代順に並んでいた。義貞関係って、こんなもんしかない。おっと、肩すかし。もう少し、新田義貞や新田氏に関しての展示が多いと思ってたのに・・・。

確かに、この辺は歴史的な遺跡が多く、また各時代に渡っているので、平均的になってしまうのも、分からなくはないが。

新田荘歴史資料館 見取り図
この資料館けっこう大きいのに、資料展示に半分しか使ってないんだよね。
左側の空いてるところを、新田氏と義貞専用展示ブースにするとか、もっと工夫できると思うけど。歴史資料には事欠かない地域なんだから。

あと、事務員何人いるか知らないけど、事務所デカ過ぎ!

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太田市徳川町の徳川山満徳寺。
鎌倉の東慶寺とともに、日本でふたつの縁切寺・駆け込み寺である。

満徳寺
満徳寺2
徳川家の祖とされる徳川義季の娘を開祖とする。徳川2代将軍秀忠の娘・千姫が再婚するに際し、前夫豊臣秀頼との離婚の名目を立てるため入寺したと伝えられる。実際は代理の代理が入寺したようだが。

檀家を持たず徳川の庇護のもとに成り立っていたため、江戸幕府瓦解とともに明治5年(1872年)に廃寺となった。

近年本堂が復元され、隣には資料館も併設された(1992年開館)。

満徳寺3
駆け込み門 外から。

満徳寺4
駆け込み門 中から。駆け込み門を外からと中から見た。門の外と中では大違いだった?

満徳寺5
再建された本堂は中の見学もできる。まあ、何があるという訳ではないが、東照大権現様(笑)の位牌があった。

満徳寺6
資料館には千姫関係の資料もちょこっとあった。写真はないけど、歴代徳川将軍の位牌もずら~っと並んでいた。

映像コーナーでは、アニメで縁切の仕組みとかが解説されていて、ナレーションは「家政婦は見た」で有名なお方であった。

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太田市細谷町の高山彦九郎記念館。

高山彦九郎記念館 (7)
高山彦九郎記念館 (2)
延享4年(1747年)に上野国新田郡(現太田市)に生まれた彦九郎は、13歳の時に太平記を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳で書置きを残して家を出て、京をはじめ諸国を廻り勤皇論を説いた。

高山彦九郎記念館 (3)
太平記に自分の先祖が新田義貞の部下で、南朝に殉節したことを知り尊王の大義に目覚めたらしい。

高山彦九郎記念館 (5)
京都・三条大橋のたもとにある、御所に向かい伏拝している彦九郎の銅像の写真・・・の写真。決して土下座をしているわけではない。

高山彦九郎記念館 (4)
高山彦九郎記念館 (6)
彦九郎は膨大な日記を残している。その日記に記された旅先は、蝦夷地(北海道)と四国を除く日本全国に及んでいる。旅道具も展示してあった。

高山彦九郎記念館 (1)
彦九郎は寛政5年(1793年)筑後国久留米(福岡県久留米市)で自刃して果てている。徳川幕府を批判し王政復古を唱えていたが、果たせずの憤死とも言われている。写真右の手紙に、どす黒い汚れのようなものが見られるが、彦九郎の血痕だと言う。

彦九郎の思想は、長州の吉田松陰に大きな影響を与えたと言われている。ちなみに、吉田松陰の号「松陰」は、彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」からきているとの説も一部にあると、記念館の方から聞いた。

長州の高杉晋作、久坂玄瑞、土佐の中岡慎太郎らが、この地を訪れている。

彦九郎の死から75年後に、王政復古、明治維新が成し遂げられている。

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太田金山城の本丸址にある、新田義貞を祀る新田神社。

新田神社 (2)
新田神社・金山城本丸跡
新田神社 (3)
金山城の御台所曲輪の大ケヤキを通り過ぎ、石段を登って行くと本丸址。そこに新田神社がある。

明治6年(1873年)の創建というから歴史はまだ浅い。ここに建っている経緯はよく分からないが、金山に新田義貞が砦を作ったという説もあるので、それでかな?(考古的な裏付け資料はない。)

個人的には、新田神社のある場所として打って付けだと思う。

新田神社 (1)
案内板を見ると、これまでに大正天皇、昭和天皇、秩父宮殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下等が参拝されている。やはり新田義貞が後醍醐天皇に尽くしたから、皇族方のご参拝が多いのかな。

明治になって天皇中心の中央集権国家に生まれ変わり、新田義貞や楠木正成は忠臣になった。個人的には、尽くしすぎて・・・と思うが。

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太田市(旧市)のほぼ中央にそびえる標高235.9mの金山に築かれた金山城。

金山城址
金山城址 (2)
応仁3年(1469年)新田一族の岩松家純によって築城される。新田義貞が鎌倉時代末に、砦として整備したとの説もある(裏付けデータなし)。戦国城郭史の定説をくつがえした、石垣・石敷きの城といわれている。

金山城址 (3)
大手虎口道。復元みたいだけど、城って雰囲気!

金山城址 (4)
日ノ池。

金山城址 (5)
月ノ池。

山城のため水の確保が重要なのだ。日ノ池の近くにも、大きな(深そうな)井戸があった。水の準備は万全といったところか。

金山城址7
御台所曲輪にある大ケヤキは推定樹齢800年。このケヤキの左の石段を登って行くと本丸址。現在そこには新田義貞を祀る新田神社がある。(新田神社は次回紹介。)

さすがに金山は太田のシンボルだけあって、よく整備されている。南曲輪からの眺めも非常にいい。天気が良ければ富士山も見えるとか。

ただ、この南曲輪に中島知久平の胸像が建ってる。中島知久平じたいは太田の偉人であるが、なぜここにある必要が・・・。

オレ、こういう場違いな銅像・胸像の類、嫌いなんだよね。

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安中市東秋間の通称岩戸山に赤穂浪士47人の石像がある。

四十七士石像
四十七士石像 (2)
長野新幹線の安中榛名駅から榛名町方面へ向かっていくと左側の山。こんもりした木々の中に入り口があり、多少整備された山道を登って行く。

四十七士石像 (8)
四十七士石像 (7)
t
森に入ってから100mくらい行くと、せり出した岩の下にずら~っと石像が並んでいる。よく見ると、一体一体の形が微妙に異なっており、47浪士それぞれを意識して造ったということが伝わってくる。

四十七士石像 (5)
これは、赤穂浪士のひとり片岡源五右衛門の下僕・元助が、20年の歳月をかけて造ったもの。しかし、すごい所に造ったもんだ。

元助は赤穂浪士切腹後、故郷の秋間に戻り、浅野長矩夫妻と47士の供養に残りの人生を費やした。

個人的には、忠臣蔵の逸話(吉良義央の浅野長矩へのいじめ)はすべて作り話と考えているので、吉良から見ればとんだ言いがかり。すべては浅野の短慮から始まっている。この辺は、機会があったら別稿で。

なので、安中市の各種表示は「赤穂義士像」となっているが、ここでは「赤穂浪士」と表記した。

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磯部温泉には多くの文学者が訪れて、数々の作品を残している。それらの作品が、温泉マーク発祥の地記念碑のある磯部公園のいたるところに歌詩碑となっている。

有名な人から、オレの知らない人まで。オレが知らない=無名、ではないので誤解のないように。

大手拓次
大手 拓次

萩原朔太郎
萩原 朔太郎

室生犀星
室生 犀星

北原白秋
北原 白秋

若山牧水
若山 牧水

真っ先に大手拓次を載せているのは磯部出身(地元)だから。後は、オレが知ってる人。

その他、岡田太京、吉野秀雄、久保田万太郎、山口薫、川田順一、松坂一、水原秋桜子、厳谷小波、村上鬼城、湯浅半月、等の碑がある。

温泉マークの発祥の地記念碑と同じ公園内にあるのに、紀行として2つに分けるのは、紀行の水増しではないか? という批判はなしね。いろいろ巡るのもけっこう大変なんだから・・・。

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これは誰もが知っている温泉マーク。この温泉マーク発祥の地と言われているのが、安中市の磯部温泉。

磯部温泉 (2)
愛妻橋から見た磯部温泉と碓氷川。

磯部温泉
温泉街のところどころに、「温泉記号発祥の地 磯部温泉」の幟(のぼり)が立っている。

万治4年(1661年)に土地境界争いがあり、このとき江戸幕府から出た判決文の絵図に、温泉マークが描かれている。現在、これより古い使用例が見つかってないことから、温泉マーク発祥の地とされている。

磯部公園
温泉マークの碑
碓氷川を望む場所に磯部公園がある。この磯部公園内に、温泉マーク発祥の地の記念碑がある。

磯部温泉まで何をしに行ったかというと、この温泉マークを見に行ったのだ。だから、日帰り温泉はおろか、足湯にも入ってこなかった。伊香保温泉に続いて、また温泉に行って温泉に入ってこなかった。(上毛かるた紀行、「伊香保温泉 日本の名湯」参照)

今思うと、温泉まで行ったんだから・・・。トホホ。

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