上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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邑楽郡大泉町朝日の大泉町文化むら。
今回は文化財展示室を紹介。

大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (1)
平成3年(1991年)に文化むら・展示ホール棟1階に開館した。石器時代から中世まで、時代順に町内で発掘された遺物を展示。

大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (2)
大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (3)
大泉町は旧石器および縄文時代の遺跡が多く、石器や土器が多数出土している。

大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (4)
大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (5)
大泉町を始め東毛地区は古墳も多く、各種埴輪が出土している。古海松塚11号古墳出土の人面埴輪と太刀埴輪。

大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (6)
古海天神山古墳から出土の「椅子に腰かけた少女」。ここにあるのはレプリカ。実物は国の重文になっており、国立東京博物館にあるそうだ。

大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (7)
古海原前1号古墳から出土の「同向式画文帯神獣鏡」。

いやぁ~っ、すごい!!
あんまり広くはないけど、盛りだくさんの展示。これで無料なんだから。裕福な自治体が保存に力を入れると、こいうなるという良い例だね。


邑楽郡大泉町朝日の大泉町文化むら。

大泉町文化むら (1)
大泉町町発足30周年記念事業のひとつとして建設された「文化むら」。文化都市宣言の基本理念である「創造」「感動」「ふれあい」を実践する場として、音楽鑑賞・芸能発表・研修などに利用できる施設。

こう書くと、町のちっちゃい文化ホールを想像しがちだが、これがまたすっごい施設。

大泉町文化むら (2)
昭和63年(1988年)完成の大ホール棟。三角屋根にステンドグラスが施され、プロの音楽家にも評価が高い。世界的に定評のあるベーゼンドルファーとスタインウェイのピアノを備え、本格的なクラシックコンサートにも対応できる808席の大ホール。

その他、約130平方mの研修室、床の間のある15畳の和室もある。

大ホール棟奥には、最大288席の座席が約7分間で自動的に出し入れ可能な移動観覧席を備える小ホール棟もある(写真ないけど)。

大泉町文化むら (3)
平成3年(1991年)完成の展示ホール棟。絵画や書などの発表・展示など多目的に利用できる。床面積497平方mの広さのフローリングの展示ホール、研修室が4つ。あと音楽練習室(リハーサル室)に文化財展示室。

大泉町文化むら (4)
ホール前には彫刻家・佐藤忠良氏のブロンズ像が2体。

大泉町文化むら (5)
大泉町文化むら (6)
明治時代の養蚕農家を移築し復元した資料館もあり。民具・農具などを展示している。

大泉町文化むら (7)
大泉町文化むら (8)
さらには、お茶会に利用できる茶室、小泉焼の焼成窯まで。

なんでこんな立派な施設があるのか考えてみると、大泉町はすっごい裕福だということを思い出した。富士重工大泉工場、三洋電機東京製作所、味の素冷凍食品関東工場など大企業の工場が多く、これらの企業からの税収があるため、交付金不交付団体だということ(最近では2010年のみ交付を受けているが)。財政力指数に関しては、平成18年(2006年)までは群馬県内で1番だった。

人口の1割がブラジルやペルー出身の日系人というのは有名だけど、実は群馬県一裕福な自治体なのだ。


渋川市中郷の黒井峯遺跡。

黒井峯遺跡 (1)
黒井峯遺跡 (2)
昭和57年(1982年)軽石を採石中に、竪穴式住居跡や古墳の跡が発見されたことをきっかけに調査が行われた結果、1.5m~2.5mの厚さの軽石に覆われた層の下より、竪穴式住居・掘立柱建物などの集落跡が発見された。

黒井峯遺跡 (3)
黒井峯遺跡 (4)
東西約700m、南北400mの集落遺跡である。集落は榛名山の大噴火による大量の軽石・火山灰の噴出によって、火災や倒壊を起こす間もなく、ほぼ瞬時に壊滅・埋没したと推定されている。

住居跡の他に、穴を掘らずに壁をめぐらして屋根をかけた平地式の倉庫、牛や馬を飼っていた家畜小屋も見つかっている。建物を取り巻く垣根や道、苗代、祭りを行った跡も見られる。

黒井峯遺跡 (5)
榛名山は6世紀初めに2度の大爆発を起こしており、この大爆発では全国的に有名になった「甲を着た古墳人」が発見された金井東裏遺跡も、火山灰の下に埋もれている。
(「甲(よろい)を着た古墳人・群馬県埋蔵文化財調査センター」参照)

今は保存のため埋め戻されているが、史跡公園として整備するという話を聞いたことがある。こういうことには、なかなか予算が付きづらいけど、早く実現してほしいものだ。

ところで、黒井峯遺跡に関して「日本のポンペイ」と表記しているものもある。「日本のポンペイ」と言ったら浅間山の大噴火で埋没した嬬恋村の鎌原地区が思い浮かぶ。
(「嬬恋村鎌原・鎌原観音堂」参照)


渋川市北橘町下箱田の群馬県埋蔵文化財調査センター。
同センターは、群馬県の遺跡から発掘された出土品を収蔵・保管する施設。

「甲を着た古墳人」見学のついでに、発掘情報館も覗いてきた。
甲(よろい)を着た古墳人・群馬県埋蔵文化財調査センター

埋蔵文化財調査センター (1)
発掘情報館は出土品を身近に学習できる場として、平成8年(1995年)に開館している。約4000点の土器や石器などの遺物を常設展示している。

以下、いくつか展示物、収蔵物を紹介。どの遺跡から出土したかとかは、覚えてない。
埋蔵文化財調査センター (2)
埋蔵文化財調査センター (3)
埋蔵文化財調査センター (4)
埋蔵文化財調査センター (5)
埋蔵文化財調査センター (6)
埋蔵文化財調査センター (7)
埋蔵文化財調査センター (8)
埋蔵文化財調査センター (9)
「甲を着た古墳人」見学者で駐車場が満杯、敷地内のいたるところに駐車スペースを作って、無理やり停めているような状態だったので、のんびり見学という訳にはいかなかった。

係員も「申し訳ないけど今日はさっさと帰って、また来てね」的な雰囲気を醸し出していたので・・・。

と言うことで、また後で来てみよう。


渋川市北橘町下箱田の群馬県埋蔵文化財調査センター。

3月3日~8日の間、渋川市の金井東裏遺跡で発見された「甲(よろい)を着た古墳人」が一般公開されている。

「甲を着た古墳人」は、6世紀初頭の榛名二ツ岳の大噴火による火山灰層の下から見つかり、武具を着けた状態での発見は日本初とのことで、全国的なニュースとなった。

甲を着た古墳人 (1)
平日の昼時というのに、行列ができていた。

甲を着た古墳人 (2)
甲を着た古墳人 (3)
まず、センターの方からパネルを使って、発掘の状況などの説明を聞く。

甲を着た古墳人 (4)
甲を着た古墳人 (5)
甲を着た古墳人 (6)
両膝を曲げた状態で、前のめりに倒れた姿勢の「甲を着た古墳人」。後頭部の骨は失われているが、左手は指まで確認できる。

甲を着た古墳人 (7)
おしり側から。骨盤や大腿骨が見える。

甲は「小札(こざね)」と呼ばれる厚さ1mmほどの鉄板を綴った小札甲とみられ、草摺と呼ぶ甲の下の部分がずりあがったようになっている。

小札甲を作る工房は近畿しか見つかっておらず、群馬県内でも小札甲が副葬品として出土しているのは支配者層の古墳に限られていることから、大和王権とつながりが深い、政を担うような首長など、地位のある人物ではないかという。

近くで乳児の頭骨が見つかっていることから、乳児を助けようとしていた説、山の神を鎮める祈り説など、いろんな説が出ている。まあ、ほんとのところは分からないだろうから、自分なりに想像して楽しめばいいと思う。

今後、人骨と甲を切り離す作業が始まるので、「甲を着た」状態での公開は今回が最後となるという。


邑楽郡大泉町城之内の祥平山龍泉院白山寺。

龍泉寺 (1)
天文3年(1534年)3代小泉城主・富岡秀信が茂林寺から梵海正音を招いて開山、富岡氏の菩提寺とした。富岡氏初代・直光の祥平院殿と2代・秀光の龍泉院殿から「祥平山龍泉院」とし、当初は富岡寺と号した。白山寺と改称したのは寛永年間(1624~45年)とされる。

龍泉寺 (2)
山門は元和元年(1615年)の建立とされ、総門と呼ばれていた。当時の境内は広大だったため、2度の火災を免れている。明治44年(1911年)に現在地に移され、昭和36年(1961年)に修復されている。

龍泉寺 (3)
龍泉寺 (4)
本堂は慶安2年(1649年)、文化2年(1805年)に火災により焼失。現在の本堂は嘉永3年(1850年)に僧・春山が再建。昭和38年(1963年)に修築。

龍泉寺 (5)
龍泉寺 (6)
富岡秀信の供養塔。
この供養塔を建てたのは、6代秀朝の孫・秀倶といわれる。

6代秀朝は小田原城に籠城していたが、落城後三河国に落ち延び、大坂夏の陣で真田幸村軍との戦闘で討ち死にしたという。孫の秀倶が小泉を訪れて、3代秀信の墓所を探したが分からず、菩提寺の龍泉院に供養塔を建てたという。

富岡氏の菩提寺ということだけど、富岡氏累代の墓所はないようだ。


北群馬郡榛東村山子田の常将神社。
その名の通り、平(千葉)常将を祀る。

常将神社 (1)
常将神社 (2)
常将は誤解から柳沢寺を焼払ってしまったが、その行いを恥じて一族郎党とともに自害。常将夫人は柳沢寺の再建に尽力するとともに、一族の慰霊のため、承歴3年(1079年)に常将神社を創建したといわれる。

関連 「吉岡町漆原・矢落観音
   「榛東村山子田・船尾山柳沢寺

常将神社 (3)
常将神社 (4)
元禄14年(1701年)に現在地に遷座している。天保15年(1844年)に拝殿を再建したという棟札が見つかっている。現在の社殿は昭和25年(1950年)に改築されたものである。

鳥居の下に小さい男の子(3歳くらい?)がいるけど、1人で遊んでいたのではなく、おじいちゃんと一緒(写ってないけど)だから。オレがお賽銭を入れて参拝したのを見て、自分もお賽銭を入れるとだだをこねてしまったので、おじいちゃんが車に小銭を取りに行ったところ。

これくらいの子どもが1人でいるところにオレが近づいたら、一発で不審者扱いされちゃうことは自覚済み。


北群馬郡吉岡町上野田の森田宗家。

森田宗家 (1)
吉岡町役場を過ぎ、伊香保街道を水沢方面に進んでいくと、野田宿がある。その中でひときわ目を引く邸宅が森田宗家宅。江戸時代に大庄屋役を務めた名家で、立派な長屋門と蔵がある。

森田宗家 (2)
蔵の壁には、高野長英が逗留したというようなことが書いてあった。

森田宗家 (3)
森田宗家 (4)
森田宗家 (5)
門から中をちょこっと覗かせていただいた。養蚕農家のような母屋の左には書院らしきものも。

回遊式庭園って書いてあったけど、冬なのでボリューム感には欠ける。でも、良く手入れされているようだ。

森田宗家 (6)
森田宗家 (7)
北門から西へ続く塀。敷地の広さが分かる。

森田宗家 (8)
雪をかぶる赤城山が綺麗に見える。

森田家は大和朝廷の大連・大伴金村の子孫だとか。金村は朝鮮半島にあった任那が新羅に併合されたことなどの責任を追及され、失脚している。その後、上野国に移り森田家の祖となったというが・・・。


高崎市倉賀野町の浅間山古墳。

浅間山古墳 (1)
浅間山古墳 (2)
浅間山古墳は、全長171.5m、前方部長さ66.3m、後円部径105m、前方部高さ5.5m、後円部高さ14.1mで、県内2位の規模を誇る前方後円墳である。5世紀初頭の造営と推定される。

周りには、幅約30mの周濠とその外側に20~30m幅の中堤を巡らし、さらに外濠も造っていたものと推測されている。堀も含めた全長は250m、幅170mにも達する。

発掘調査は行われていないが、鰭付円筒埴輪、、盾などの器財埴輪の破片が見つかっている。

浅間山古墳 (3)
浅間山古墳 (4)
墳丘は後円部3段、前方部2段で、前方部が低い古い形を残している。

浅間山古墳は個人の方の所有のため、墳丘部に果樹畑があったりする。高崎市もあんな市庁舎にムダ金を使うくらいなら、こういう文化遺産を買い取って整備した方がよっぽどいいね。


高崎市倉賀野町の大鶴巻古墳。

大鶴巻古墳 (1)
大鶴巻古墳は全長123m、前方部長さ51m、後円部直径72m、前方部高さ6.5m、後円部高さ20.5mの規模で、4世紀末から5世紀初頭ころの造営と推定される前方後円墳である。

発掘調査は行われていないが、鰭付埴輪、円筒埴輪、器財埴輪など、多くの埴輪の破片が見つかっている。

大鶴巻古墳 (3)
大鶴巻古墳 (2)
平坦地の土を2段に盛り上げており、墳丘の周りには盾型の濠をめぐらしている。前方後円墳でも、前方部がかなり長い鍵型をしている。

一部は個人の方の所有なので、前方部は削平され畑ができ、小さなビニールハウスが建っている。


高崎市倉賀野町の厳堂山安楽寺。

安楽寺 (1)
安楽寺 (2)
天平9年(737年)行基の開基といわれる。行基は奈良の大仏建立の実質的な責任者で、行基菩薩(死後の称号)とまで呼ばれた大僧正。一応、全国を歩きまわったといわれているけど・・・。

安楽寺 (3)
室町時代初期(南北朝期)のものと考えられる2基の異形板碑がある(写真の右2基)。通常の板碑に比べ厚みがあり、天引石製である。

安楽寺 (4)
安楽寺 (5)
安楽寺 (6)
本堂裏には、安楽寺古墳と呼ばれる古墳がある。7世紀後半の築造と推定される円墳で、現在は径20m、高さ4mほどだが、本堂に削られた形となっており、もともとは径30mだったと考えられている。

石室内の壁面に彫られた7体の石仏(七仏薬師如来)が、安楽寺のご本尊である。行基作と伝えられるもので、ご利益は諸病平癒、とりわけ眼の病。

安楽寺 (7)
本堂に古銭の寛永通宝を並べた、「大願成就」という額が奉納されている。これはご本尊の七仏薬師如来に祈願したところ、眼病が快癒したことへのお礼のようだ。明治26年(1893年)とある。

石室内の石仏は、12年ごと(巳年のみ)にご開帳される。おっ! 今年は巳年なので、ご開帳される年だ! 4月8日だってさ!


高崎市岩鼻町の福聚山観音寺。

観音寺 (1)
観音寺 (2)
観音寺 (3)
天正18年(1590年)徳川家康の関東入部以降、岩鼻は前橋藩領であったが寛延2年(1749年)酒井氏転封後は幕府天領となった。寛政5年(1793年)岩鼻に代官の陣屋が設置され、初代代官として吉川栄左衛門と近藤和四郎が任命された。

観音寺 (4)
吉川栄左衛門の出身地は相州中原村(現、神奈川県)で、祖先は代々御殿番を勤めた家柄である。文化7年(1810年)69歳で死去するまで19年間代官職を務めた。

慶応4年(1868年)明治に改元されるちょっと前に、明治新政府により岩鼻県が設置された。県庁は岩鼻代官所。まあ、岩鼻県は3年で廃止され、第1次群馬県になるけど。(今の埼玉県の一部は入間県)(岩鼻陣屋跡は「高崎市岩鼻町・岩鼻陣屋跡」参照。)

ちなみに「赤城の山も今宵限り・・・」のセリフで有名な国定忠治が殴り込んだ代官所は、ここである。とは言っても殴り込み自体は作り話だけどね。


高崎市八島町の豊田屋旅館。

豊田屋旅館 (1)
豊田屋旅館 (2)
豊田屋は高崎駅西口の駅前で、現在も営業している旅館。本館は昭和7年(1932年)に建てられたもの。

豊田屋旅館 (3)
本館は入母屋造り瓦葺きの妻入りで、入母屋の破風に懸魚を設けている。屋根の棟に付けた山形の部分を破風といい、破風の下の飾りを懸魚と呼ぶ。玄関の庇は軒唐破風で、そこにも懸魚を設けるといった、特徴ある旅館の造りとなっている。

豊田屋旅館 (4)
明治17年(1884年)の高崎駅開設後、明治の終わりごろに駅前に創業した豊田屋旅館の創業地は、現在地よりも更に駅寄りにあった。平成13年(2001年)に駅前通りの拡張工事に伴い、約1年をかけて曳家にて現在地に移動している。

昭和60年(1985年)に、作家の司馬遼太郎が訪ねて来たという。戦争中に高崎第15連隊との連絡役で、豊田屋に泊まったことがあったらしい。司馬遼太郎が泊まった10番の部屋は、当時も今もそもまま。

昼食のみ利用も可能なので、古き良き時代の旅館の雰囲気で、割烹料理を味わってみたらいかが?


高崎市高松町の高崎市役所。

高崎市役所 (1)
高崎市役所本庁舎は平成10年(1998年)に建設されたものであり、地上21階・地下2階・高さ102.5mである。県内では県庁(153m)に次ぐ高さを誇る。誰が名付けたか「税金バベルの塔」!(って、オレだけど)

高崎市役所 (3)
高崎市は平成18年(2006年)から平成21年(2009年)にかけて、倉渕村・箕郷町・群馬町・新町・榛名町・吉井町を合併編入。面積ばかり広くなっても、人口はたかだか37.5万人(一応県内では最多。前橋市は34.2万人)。

この程度の地方都市に、これだけの市庁舎が必要??

高崎市役所からの風景 (1)
高崎市役所からの風景 (2)
高崎市役所からの風景 (3)
高崎市役所からの風景 (4)
まあ、高い分だけ見晴しはいいけどね。上から観音山(様)、県庁(後ろは赤城山)、高崎駅、浅間山。


高崎市若松町の日宮山光明寺。

若松町・光明寺 (1)
若松町・光明寺 (2)
至徳2年(1385年)に安楽院遍照坊として開山したと伝わる。

慶長9年(1604年)、時の住職が高崎藩主・酒井家次の嫡子・忠勝の病気を治癒させた。家次は喜び、仏殿を修復し日宮山光明寺と名付けたという。

若松町・光明寺 (3)
本堂の左には、愛染明王を安置した「愛染堂」が建っている。

若松町・光明寺 (4)
若松町・光明寺 (5)
大正3年(1914年)に内村鑑三が建立した内村家5代の墓。ちなみに鑑三は8代目。

若松町・光明寺 (6)
5代の墓と共に建立した内村家の墓。

内村鑑三は、万延2年(1861年)高崎藩士の子として、江戸で生まれている。5歳のとき高崎に移っているが、明治6年(1873年)には上京しているので、高崎に住んでいたのはわずか7年。

クリスチャンの鑑三が、高崎に先祖の墓を建てたのは、娘・ルツ子の死(明治45年)が影響しているのかもしれない。

関連 上毛かるた紀行 「心の燈台 内村鑑三

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