上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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高崎市綿貫町の普賢寺裏古墳。

普賢寺裏古墳 (1)
普賢寺裏古墳 (2)
普賢寺裏古墳は、全長77m、後円部径42m、後円部高さ6.2m、前方部幅約45m、前方部高さ3.4mを誇る、5世紀前半造営の前方後円墳。

でも、素人のオレが見ると、古墳とは分からない。木と雑草が生い茂った小山って感じ。整備されてないと、こんな感じなんだね。

普賢寺 (1)
普賢寺 (2)
普賢寺 (3)
普賢寺 (4)
この古墳は、その名の通り普賢寺の敷地内にあるため、調査はされていないようだ。埴輪が発見され、その特徴が不動山古墳より古いため、5世紀前半の造営となっている。
(不動山古墳は「高崎市綿貫町・不動山古墳」参照)

でも、その埴輪も行方不明だって言うので、推定の推定くらい。

多分、ここも私有地なんだろうから、県や市も固定資産税を取っておいて、整備・保存しろとは言えないよね。


藤岡市藤岡の霊符殿古墳。

霊符殿古墳 (1)
霊符殿古墳 (2)
天龍寺境内にあり、古墳の東側はJR八高線により墳丘の一部を欠失している。残存する墳丘の大きさは径33m、高さ5.9mで、6世紀末の造営と推定されている。前方後円墳の後円部のみ残っているという説と、もともと円墳という説がある。

霊符殿古墳 (3)
墳頂に霊符殿を祀り、西側には周溝の名残と見られる沼地がある。

霊符殿古墳 (4)
南向きに開口する全長9.02mの横穴式石室。

霊符殿古墳 (5)
霊符殿古墳 (6)
羨道長は4.05mで、同幅84~99cm、同高84~87cm。片岩と珪岩を用いた模様積み。玄室入口袖の手前にまぐさ石(アーチ状の石)が設置されている。その下の石は?しきみ石?

玄室は良く見えなかった。オレのデジカメの限界。2枚目の写真の上の方に、わずかに模様積みが見えるけど・・・。データによると玄室長4.97m、同幅1.31~1.73m、同高さ1.57~1.84m。片岩と珪岩を用いた模様積で、平面形は羽子板状。

墳丘上から見たら、本当にすぐ隣を八高線が走ってる。


高崎市綿貫町の不動山古墳。

不動山古墳 (1)
不動山古墳は、全長94mの前方後円墳で、5世紀中ごろから後半の築造と推定される。古墳北側のくびれ部には、方形台状の造り出しが確認されている。前方部は削られてしまっているが、埴輪、土師器、鉄製鍬先などが出土している。

不動山古墳 (2)
不動山古墳 (3)
後円部上に、後の時代に祀られた不動尊がある。

不動山古墳 (4)
お堂裏に舟形石棺の身が保存されている。凝灰岩製で約3.5m。直径30cmくらいある縄掛突起。今まで見た中では極太。

石棺って、けっこう貴重な遺物だと思うんだけど、剥き出しで保存されてるのが多い。
(「石棺が剥き出しで保存されてます -保渡田薬師塚古墳-」)
(「舟形石棺が保存されている -宗永寺-」)


邑楽郡邑楽町鶉新田の浮島弁財天。

浮島弁財天 (1)
浮島弁財天 (2)
浮島弁財天は、多々良沼に突き出た岬の先端にある。元弘3年/正慶2年(1333年)の創建と伝わる。

浮島弁財天 (3)
浮島弁財天 (4)
鎌倉幕府が新田義貞らに滅ぼされた時、14代執権・北条高時の弟・四郎慧性の夢枕に立った江ノ島弁財天から、「上毛の郷に霊地あり、その地で北条家の再興を図るべし」と告げられ、弟の荒間五郎友春ら主従5名で辿りついたこの地に、江ノ島弁財天を勧請した。

浮島弁財天 (5)
多々良沼名物の白鳥。

多々良沼は11月上旬〜3月下旬まで白鳥が飛来することで有名で、毎年100羽以上が飛来する。また、10年ほど前から数羽のコブハクチョウが定住しており、季節に関係なく白鳥を楽しめる。(「多々良沼の白鳥」参照)

ところで、浮島弁財天由緒にある四郎慧性ってのは北条泰家のことと思うが、一般的には奥州に潜伏し、後に京へ上り後醍醐天皇の暗殺を企てるなどしていたはず。法名も恵性の方が一般的だと思うが・・・。

当地に留まってとは書いてないので、奥州に落ち延びるさい立ち寄ったとということ?


邑楽郡邑楽町中野のシンボルタワー・未来MiRAi。

未来(MIRAI) (1)
未来(MIRAI) (2)
平成5年(1993年)に完成した、邑楽町のシンボルタワー未来MiRAi。高さ56.5m(装飾塔頂まで)、展望台は36m。

変形9角形の展望台からは、赤城・榛名・妙義の上毛三山が眺められ、晴れた日には、富士山はもとより東京スカイツリーまでもが一望できるという。

どれどれ、眺めてみるか、と展望台まで。階段でも行けるが、当然エレベーターで。

赤城山
赤城山。うちの方(西毛)から見るのと、形がやっぱり違うね。

太田・金山
太田の金山。この辺は近いから良く見える。

男体山
栃木(日光)の男体山。ちょっと雲がかかっていて、上の方は見えなかった。

浅間山
浅間山。だんだん見づらくなってきた。

富士山
さぁ、富士山です。だいぶうっすらだけど、なんとか見えた。

スカイツリー
はい、東京スカイツリーです! って、どこ?? 残念ながら見えず。

未来MiRAiは、国の「ふるさと創生事業」の一環でオープンしたが、最近は赤字続きの「負の遺産」になっていた。しかし「群馬からもスカイツリーを見ることができる」と話題を呼び、来館者が増えているという。

一時のスカイツリーフィーバーを、冷ややかに見ていたオレだけど、群馬にも経済効果を与えているなら、そでもいいかなと軌道修正。


邑楽郡大泉町古海の古海原前1号古墳。

古海原前1号墳 (1)
古海原前1号墳 (2)
古海原前1号墳 (3)
古海原前1号墳は利根川左岸の洪積台地上に位置している古海原前古墳群のひとつで、全長約53m、高さ約3.56mの帆立貝形古墳である。5世紀末から6世紀初頭の造営と推定される。

古海原前1号墳 (4)
埋葬施設が縦に4基重なっている全国的にも非常にめずらしい古墳である。また、墳丘上には円筒・形象埴輪が立てられていたことも分かっている。

同向式画文帯神獣鏡
副葬品はガラス製の玉や鉄鏃、銅鏡・馬具、大刀・櫛など多種多様で、特に銅鏡は「同向式画文帯神獣鏡」と呼ばれるもの。

鏡の文様構成は、内区に神獣を半肉彫りで表し、その外側を取り巻く外区に飛ぶ鳥・走る獣・飛雲文などが流れるように飾られている。内区の神獣像が同方向に向けられているのが特徴。

この銅鏡は、大泉町文化むら・埋蔵文化財常設展示室で見ることができる。
(「大泉文化むら・埋蔵文化財常設展示室」参照)


邑楽郡千代田町新福寺の真福山寶林寺。

宝林寺 (1)
徳治元年(1306年)に足利義満の帰依僧・大拙祖能禅師の開山。その後兵火にかかり衰退したが、寛文7年(1667年)潮音禅師により館林城主・徳川綱吉の帰依を得、堂宇を再建し黄檗宗に改宗した(元は臨済宗)。

宝林寺 (2)
宝林寺 (3)
慶応2年(1866年)までに3回火災で焼失。堂宇は明治34年(1901年)に再建。現在の本堂は近年の建立のようだ。

宝林寺 (4)
宝林寺 (5)
梵鐘は寛文10年(1670年)に館林藩家老・黒田信濃守が、館林にあった広済寺に寄進したものだが、広済寺が廃寺となり天和3年(1683年)同宗の寶林寺に移された。

その後、江戸深川で広済寺が再建された事で所有権争いとなり、両寺で揉め事に発展。結局、小幡竜門寺の三光和尚が仲裁し、寶林寺が金銭を払うことでにて解決したとのこと。

広済寺が廃寺となったのは、徳川綱吉が将軍になり館林藩が廃藩となったからで、後に深川に再建されたのも綱吉(潮音禅師含む)の意向と考えられる。

まあ、綱吉はまったく関係ないように見えるが、綱吉ゆかりの梵鐘ということで。


邑楽郡大泉町古海の医王山高徳寺。

高徳寺 (1)
高徳寺 (2)
高徳寺は後醍醐、後村上、長慶天皇と、南朝三代の天皇に仕えた児島高徳の開基で、晩年を過ごしたと伝わる。児島高徳は「太平記」に登場する、鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍したとされる、備前国児島郡出身の武将。

一般的には、児島高徳の生没年は不詳とされているが、高徳寺の由緒版では、1311年(元号記載なしだが、延慶4年/応長元年)生まれで、永徳2年(1382年)72歳で没したとある。でも延徳って北朝の元号で、南朝は弘和なんだけどね。

高徳寺 (3)
高徳寺 (4)
伽藍は天授6年(1380年)に建立されたが、いく度かの火災で焼失。現在の本堂は最近の再建のようだ。まだ新しい。

高徳寺 (5)
高徳寺から100mくらいのところに、児島高徳の墓がある。(高徳寺の墓地なのかは不明。)

高徳寺 (6)
高徳寺 (7)
児島高徳は江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、特に皇国史観の下での学校教育においては、国民的な英雄とされた。明治6年(1873年)には、新田義貞とともに2円札に登場している。(「太田市新田庁舎の新田義貞像」参照)

児島高徳に関しては、具体的な活動を示す文献が「太平記」以外にはないため、架空の人物とする説も根強い。しかし、「太平記」の児島高徳に関する記述が、非常に詳細かつ広範囲にわたっていることから、逆に作者のひとりとの説もある。


邑楽郡大泉町朝日の大泉町文化むら。
大泉文化むらの3回目。今回は民俗資料館の紹介。

大泉町文化むら3 (1)
大泉町文化むら3 (2)
明治時代の代表的な養蚕農家の家屋を、文化むら敷地内に移築復元したもの。

大泉町文化むら3 (3)
大泉町文化むら3 (4)
大泉町文化むら3 (5)
広い土間、むき出しの長大な梁など、当時の大型木造農家の様子が分かる。

大泉町文化むら3 (6)
大泉町文化むら3 (7)
母屋に似た木造・瓦葺きの建物の中には、昔の生活に欠かせなかった民具・農具などを展示している。

大泉町文化むら3 (8)
ちょっと目を引いたのが不発弾。昭和20年(1945年)4月の空襲で、B29爆撃機から投下されたもの。全長150cm、直径35cm、重さ227kg。昭和41年(1966年)に発掘した20発のうちの1発。20発も不発弾が埋まっていたのね。

3回にわたって大泉町文化むらを紹介したけど、裕福な自治体っていいなぁ。


邑楽郡大泉町朝日の大泉町文化むら。
今回は文化財展示室を紹介。

大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (1)
平成3年(1991年)に文化むら・展示ホール棟1階に開館した。石器時代から中世まで、時代順に町内で発掘された遺物を展示。

大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (2)
大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (3)
大泉町は旧石器および縄文時代の遺跡が多く、石器や土器が多数出土している。

大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (4)
大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (5)
大泉町を始め東毛地区は古墳も多く、各種埴輪が出土している。古海松塚11号古墳出土の人面埴輪と太刀埴輪。

大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (6)
古海天神山古墳から出土の「椅子に腰かけた少女」。ここにあるのはレプリカ。実物は国の重文になっており、国立東京博物館にあるそうだ。

大泉文化むら・埋蔵文化展示室 (7)
古海原前1号古墳から出土の「同向式画文帯神獣鏡」。

いやぁ~っ、すごい!!
あんまり広くはないけど、盛りだくさんの展示。これで無料なんだから。裕福な自治体が保存に力を入れると、こいうなるという良い例だね。


邑楽郡大泉町朝日の大泉町文化むら。

大泉町文化むら (1)
大泉町町発足30周年記念事業のひとつとして建設された「文化むら」。文化都市宣言の基本理念である「創造」「感動」「ふれあい」を実践する場として、音楽鑑賞・芸能発表・研修などに利用できる施設。

こう書くと、町のちっちゃい文化ホールを想像しがちだが、これがまたすっごい施設。

大泉町文化むら (2)
昭和63年(1988年)完成の大ホール棟。三角屋根にステンドグラスが施され、プロの音楽家にも評価が高い。世界的に定評のあるベーゼンドルファーとスタインウェイのピアノを備え、本格的なクラシックコンサートにも対応できる808席の大ホール。

その他、約130平方mの研修室、床の間のある15畳の和室もある。

大ホール棟奥には、最大288席の座席が約7分間で自動的に出し入れ可能な移動観覧席を備える小ホール棟もある(写真ないけど)。

大泉町文化むら (3)
平成3年(1991年)完成の展示ホール棟。絵画や書などの発表・展示など多目的に利用できる。床面積497平方mの広さのフローリングの展示ホール、研修室が4つ。あと音楽練習室(リハーサル室)に文化財展示室。

大泉町文化むら (4)
ホール前には彫刻家・佐藤忠良氏のブロンズ像が2体。

大泉町文化むら (5)
大泉町文化むら (6)
明治時代の養蚕農家を移築し復元した資料館もあり。民具・農具などを展示している。

大泉町文化むら (7)
大泉町文化むら (8)
さらには、お茶会に利用できる茶室、小泉焼の焼成窯まで。

なんでこんな立派な施設があるのか考えてみると、大泉町はすっごい裕福だということを思い出した。富士重工大泉工場、三洋電機東京製作所、味の素冷凍食品関東工場など大企業の工場が多く、これらの企業からの税収があるため、交付金不交付団体だということ(最近では2010年のみ交付を受けているが)。財政力指数に関しては、平成18年(2006年)までは群馬県内で1番だった。

人口の1割がブラジルやペルー出身の日系人というのは有名だけど、実は群馬県一裕福な自治体なのだ。


渋川市中郷の黒井峯遺跡。

黒井峯遺跡 (1)
黒井峯遺跡 (2)
昭和57年(1982年)軽石を採石中に、竪穴式住居跡や古墳の跡が発見されたことをきっかけに調査が行われた結果、1.5m~2.5mの厚さの軽石に覆われた層の下より、竪穴式住居・掘立柱建物などの集落跡が発見された。

黒井峯遺跡 (3)
黒井峯遺跡 (4)
東西約700m、南北400mの集落遺跡である。集落は榛名山の大噴火による大量の軽石・火山灰の噴出によって、火災や倒壊を起こす間もなく、ほぼ瞬時に壊滅・埋没したと推定されている。

住居跡の他に、穴を掘らずに壁をめぐらして屋根をかけた平地式の倉庫、牛や馬を飼っていた家畜小屋も見つかっている。建物を取り巻く垣根や道、苗代、祭りを行った跡も見られる。

黒井峯遺跡 (5)
榛名山は6世紀初めに2度の大爆発を起こしており、この大爆発では全国的に有名になった「甲を着た古墳人」が発見された金井東裏遺跡も、火山灰の下に埋もれている。
(「甲(よろい)を着た古墳人・群馬県埋蔵文化財調査センター」参照)

今は保存のため埋め戻されているが、史跡公園として整備するという話を聞いたことがある。こういうことには、なかなか予算が付きづらいけど、早く実現してほしいものだ。

ところで、黒井峯遺跡に関して「日本のポンペイ」と表記しているものもある。「日本のポンペイ」と言ったら浅間山の大噴火で埋没した嬬恋村の鎌原地区が思い浮かぶ。
(「嬬恋村鎌原・鎌原観音堂」参照)


渋川市北橘町下箱田の群馬県埋蔵文化財調査センター。
同センターは、群馬県の遺跡から発掘された出土品を収蔵・保管する施設。

「甲を着た古墳人」見学のついでに、発掘情報館も覗いてきた。
甲(よろい)を着た古墳人・群馬県埋蔵文化財調査センター

埋蔵文化財調査センター (1)
発掘情報館は出土品を身近に学習できる場として、平成8年(1995年)に開館している。約4000点の土器や石器などの遺物を常設展示している。

以下、いくつか展示物、収蔵物を紹介。どの遺跡から出土したかとかは、覚えてない。
埋蔵文化財調査センター (2)
埋蔵文化財調査センター (3)
埋蔵文化財調査センター (4)
埋蔵文化財調査センター (5)
埋蔵文化財調査センター (6)
埋蔵文化財調査センター (7)
埋蔵文化財調査センター (8)
埋蔵文化財調査センター (9)
「甲を着た古墳人」見学者で駐車場が満杯、敷地内のいたるところに駐車スペースを作って、無理やり停めているような状態だったので、のんびり見学という訳にはいかなかった。

係員も「申し訳ないけど今日はさっさと帰って、また来てね」的な雰囲気を醸し出していたので・・・。

と言うことで、また後で来てみよう。


渋川市北橘町下箱田の群馬県埋蔵文化財調査センター。

3月3日~8日の間、渋川市の金井東裏遺跡で発見された「甲(よろい)を着た古墳人」が一般公開されている。

「甲を着た古墳人」は、6世紀初頭の榛名二ツ岳の大噴火による火山灰層の下から見つかり、武具を着けた状態での発見は日本初とのことで、全国的なニュースとなった。

甲を着た古墳人 (1)
平日の昼時というのに、行列ができていた。

甲を着た古墳人 (2)
甲を着た古墳人 (3)
まず、センターの方からパネルを使って、発掘の状況などの説明を聞く。

甲を着た古墳人 (4)
甲を着た古墳人 (5)
甲を着た古墳人 (6)
両膝を曲げた状態で、前のめりに倒れた姿勢の「甲を着た古墳人」。後頭部の骨は失われているが、左手は指まで確認できる。

甲を着た古墳人 (7)
おしり側から。骨盤や大腿骨が見える。

甲は「小札(こざね)」と呼ばれる厚さ1mmほどの鉄板を綴った小札甲とみられ、草摺と呼ぶ甲の下の部分がずりあがったようになっている。

小札甲を作る工房は近畿しか見つかっておらず、群馬県内でも小札甲が副葬品として出土しているのは支配者層の古墳に限られていることから、大和王権とつながりが深い、政を担うような首長など、地位のある人物ではないかという。

近くで乳児の頭骨が見つかっていることから、乳児を助けようとしていた説、山の神を鎮める祈り説など、いろんな説が出ている。まあ、ほんとのところは分からないだろうから、自分なりに想像して楽しめばいいと思う。

今後、人骨と甲を切り離す作業が始まるので、「甲を着た」状態での公開は今回が最後となるという。


邑楽郡大泉町城之内の祥平山龍泉院白山寺。

龍泉寺 (1)
天文3年(1534年)3代小泉城主・富岡秀信が茂林寺から梵海正音を招いて開山、富岡氏の菩提寺とした。富岡氏初代・直光の祥平院殿と2代・秀光の龍泉院殿から「祥平山龍泉院」とし、当初は富岡寺と号した。白山寺と改称したのは寛永年間(1624~45年)とされる。

龍泉寺 (2)
山門は元和元年(1615年)の建立とされ、総門と呼ばれていた。当時の境内は広大だったため、2度の火災を免れている。明治44年(1911年)に現在地に移され、昭和36年(1961年)に修復されている。

龍泉寺 (3)
龍泉寺 (4)
本堂は慶安2年(1649年)、文化2年(1805年)に火災により焼失。現在の本堂は嘉永3年(1850年)に僧・春山が再建。昭和38年(1963年)に修築。

龍泉寺 (5)
龍泉寺 (6)
富岡秀信の供養塔。
この供養塔を建てたのは、6代秀朝の孫・秀倶といわれる。

6代秀朝は小田原城に籠城していたが、落城後三河国に落ち延び、大坂夏の陣で真田幸村軍との戦闘で討ち死にしたという。孫の秀倶が小泉を訪れて、3代秀信の墓所を探したが分からず、菩提寺の龍泉院に供養塔を建てたという。

富岡氏の菩提寺ということだけど、富岡氏累代の墓所はないようだ。

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