Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

訪問ありがとうございます。クリックしてもらえるとうれしいです♫ ⇒

Tigerdreamのまったりとスペシャル系」もよろしく! 


佐波郡玉村町の軍配山古墳。

軍配山古墳
軍配山古墳 (2)
本来は御幣山古墳というが、天正10年(1582年)の神流川の合戦の際、滝川一益がここに本陣を置いたことから軍配山と呼ばれるようになった。
(神流川の合戦は、上州まったり紀行「戦国時代に想いをはせる 」参照。)

古墳自体は4世紀末の造営と推定され、径40m、高さ6mの円墳である。白銅製内行花文鏡や鉄器類が出土している。これらは東京の国立博物館に収蔵されていることからも、その価値が分かる。

鉄器が多く出土していることから、この辺は肥沃な土地で稲作が行われており、それを支配した豪族の墳墓と推定される。

一説には前橋市の総社二子山古墳の被葬者といわれる豊城入彦命の子(孫とも)の彦狭島王が被葬者とも言われる。
(豊城入彦命は、上毛かるた紀行「しのぶ毛の国 二子塚」参照。)

高さ6mというとたいしたことないように思うが、実際に登ってみると意外と見晴らしが良い。今は神流川まで見ることはできないが、当時は軍隊の動きを含めて見えたのか?

滝川一益もここから同じ風景を見ていたかと思うと、ちょっと感激。気分は戦国武将?

軍配山古墳 (3)
墳丘上には、発掘を記念した碑が。珍しく、先客がいた。

このエントリーをはてなブックマークに追加


上毛かるた紀行、第24弾!

お
(お) 太田金山 子育呑龍(こそだてどんりゅう)

大光院 (8)
大光院 (4)
徳川家康により先祖の新田義重を祀るため、慶長18年(1613年)に創建された大光院。正式名称は義重山大光院新田寺。まあ、徳川家の先祖が源氏の本流・新田氏というのは捏造だけどね。

開山時住職の呑龍上人が、貧しい子ども達を引き取り育てたことから子育て呑龍と言われた。

本堂内には、新田義重、徳川家康、秀忠、家光の像が祀られている(歴代上人も)。こうやって徳川家は既成事実をどんどん作っていったんだろうね。

大光院 (7)
本堂前には、呑龍さんが植えたという立派な松がある。開山時に植えているとすれば、樹齢400年くらい?

大光院 (5)
大光院 (2)
本堂と間違えている人がいるみたいだけど、こちらは開山堂。七五三のお参りの人が多くて。でも横に廻ると誰もいないんだよね。そりゃそうか、用ないしね。

大光院 (6)
大光院
本堂奥には、呑龍さんと新田義重のお墓がある。

さすがに、子育て呑龍さんのお寺だけあって、七五三シーズンも重なり、大賑わいだった。

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市新町の神流川の合戦碑がある。

神流川古戦場跡 (2)
神流川古戦場跡
神流川の合戦とは、織田家・滝川一益と北条氏直・氏邦が争った戦国時代を通じて関東地方で最大の野戦。

天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が急死したため近畿に戻ろうとした滝川一益と、これを機に上野国へ侵攻しようとする北条軍が、神流川付近で激突したもの。北条軍5万6000に対し滝川軍は2万弱といわれている。

結果は北条軍の勝利に終わり、滝川軍は4000人が討ち死にしたという。

首塚八幡 (2)
首塚八幡
首塚八幡 (3)
この合戦で討ち死にした兵士の首を祀っているのが、やはり新町にある首塚八幡宮。合戦の碑から2~3km離れたところにある。社があるわけでもなく地元の人々が弔ってきたというもの。

すぐ近所(場所は藤岡市になる)には胴塚稲荷があり、こちらは胴体を弔っている。知ってるかのように書いているが、本当は場所がよく分からず見つからなかった・・・。

首塚八幡宮は案内板が幹線道路に設置されているのだが、胴塚稲荷に関しては何もなかった。藤岡市はこういうところが・・・。

このエントリーをはてなブックマークに追加


甘楽郡甘楽町小幡の甘楽町歴史民俗資料館。

甘楽町歴史民俗資料館
資料館の1階は、地元で盛んな養蚕関係の展示。2階は甘楽町の歴史が古墳時代から近世まで、よく分かるように展示されている。この建物は、大正15年(1926年)に小幡組(製糸)の繭倉庫として造られたもの。

甘楽町歴史民俗資料館 (6)
小幡陣屋。

甘楽町歴史民俗資料館 (5)
織田信雄肖像画。

甘楽町歴史民俗資料館 (4)
小幡氏の甲冑。

今回は主に中世(室町から戦国時代末)くらいの展示物を撮ってきた。織田信雄の肖像画って珍しいような。甲冑は室町時代の小幡氏のものらしい。小幡氏は武田氏に仕えていて、長篠の戦に武田方として参戦している。

ここの展示で1番印象に残っているのは、織田信雄でもなく小幡氏でもなく、実は下の写真。

甘楽町歴史民俗資料館 (2)
福沢諭吉の学問のすすめ。でもよく見ると、福沢諭吉と小幡篤次郎の「共著」になってる。初篇は共著なのだと言う。

小幡篤次郎自身は大分中津の生まれらしいが、甘楽小幡氏の子孫だという。解説文には、小幡篤次郎を忘れてもらっちゃ困る、みたいなことが書いてあった。

このエントリーをはてなブックマークに追加


上毛かるた紀行、第23弾!

や
(や) 耶馬渓しのぐ 吾妻峡

吾妻峡 (4)
吾妻峡 (11)
吾妻峡は関東の耶馬渓と呼ばれ、国の名勝に指定されている。本家の耶馬渓は大分県中津市にあり、新日本3景のひとつに数えられている。まあ、それをしのぐということ。(でも、はっきり言って、言い過ぎ。)

吾妻峡 (6)
吾妻峡 (7)
紅葉シーズンだったため、すごく混んでいた。吾妻川は国道のすぐ下を流れているので、道路沿いにいくつか駐車場があるが、あまり広くなく渋滞まで発生していた。

吾妻峡
なんとか車を停めて、さあどこに行こうかな、と思っていると遊歩道の看板が。遊歩道は吾妻川をはさんで国道の向こう側にある。とりあえず行ってみるか。

これが失敗だった。

吾妻峡 (9)
吾妻峡 (12)
思ってた以上にアップダウンが激しく、歩き始めて数分でゼイゼイ。しかも、木々や枝が邪魔をして、吾妻峡(吾妻川)が良く見えない。もう少し行けば、もう少し行けば、と頑張ったのだが・・・。途中にあった展望台って、全然見晴らしが良くなかった。

結局、疲れただけで・・・。途中で引き返した。

吾妻峡に行った際には、国道を歩くことをお奨めする。車がけっこう走っているので、充分注意が必要だけど。

ところで、今話題の八ツ場ダムができると、名勝指定地域の4分の1を失うことになる。(当初計画では、渓谷のほぼ全域がダム予定地だった。)八ツ場ダムもどうなることやらだけど、吾妻峡もどうなることやら・・・。

このエントリーをはてなブックマークに追加


甘楽郡甘楽町小幡の大名庭園・楽山園。

元和7年(1621年)に織田信雄が造営を命じたと伝えられている。県内では唯一残っている大名庭園である。

甘楽町楽山園 (7)
甘楽町楽山園 (10)
甘楽町楽山園 (9)
甘楽町楽山園
江戸時代初期の池泉回遊式の庭園。池泉回遊式とは、庭を眺めるだけでなく歩いても楽しめるということ。京都の桂離宮と同じ特色を有している。

地元の知り合いが言うには「何か昔の建物の跡というだけで、実際はこんにゃく畑の中に前方後円墳がある程度の場所だった」。でも、平成12年(2000年)に国名勝に指定され、整備事業が平成14年(2002年)から始まっている。

甘楽町楽山園 (8)
甘楽町楽山園 (6)
10年かかりの事業とのことで、平成24年(2012年)に完成予定。既に整地が済んで、縄張りもけっこう進んでいる。蔵と書かれているところには、蔵が建つのかな?

完成したら、もう1度来よう! でも現在はタダで入れるが、完成後には有料になるとのもっぱらの噂。

このエントリーをはてなブックマークに追加


織田信長の二男と言えば、信雄(のぶかつ)。
信雄は天下の安土城を焼いてしまったりと、あんまり評判は芳しくない。

そんな信雄は、1615年に徳川家康から大和国(奈良県)宇陀郡、上野国甘楽郡など5万石を与えられている。後に上野国甘楽郡は4男の信良に分地している。以後、織田信雄の家系が、7代にわたり甘楽郡小幡藩を治めていた。

信雄家系図
小幡織田氏の家系図(甘楽町歴史民俗資料館より)。

織田家7代の墓碑 (2)
その織田家7代の墓碑が甘楽郡甘楽町の祟福寺にある。当初は別のお寺が菩提寺だったらしいが、ちょっと揉め事があったみたいで、こちらに移ったようだ。

織田家7代の墓碑 (4)
織田信雄の墓。

織田家7代の墓碑 (5)
本能寺の変で、信長と嫡男の信忠が倒れたのが天正10年(1582年)。その後信雄は秀吉についたり、家康についたり。なんとか戦国時代を生き抜き、寛永7年(1630年)京都で死去している。享年73歳。徳川家光が将軍の時代。信雄のお墓は京都にあるが、ここに分骨されたという。

織田家7代の墓碑 (6)
織田家7代の墓碑 (7)
織田家7代の墓碑
本堂横には位牌堂があり、織田家7代の位牌が安置されている。お賽銭箱には織田家の木瓜の家紋が。

信雄に関しては、家康と小牧・長久手で秀吉と戦った後のことは、ほとんど知らなかった。今回いろいろ調べてみたら、関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将に祭り上げられそうになっていた。豊臣家の生贄にされそうになったということ。家康方に逃げたらしい。

このエントリーをはてなブックマークに追加


上毛かるた紀行、第22弾!

こ
(こ) 心の燈台 内村鑑三

内村鑑三 (5)
内村鑑三は、1861年高崎藩士の子として江戸で生まれている。でも、その後の経歴を見ても群馬とのつながりがみつからない。高崎藩士の子、という以外群馬との接点がない。

えっ~、って感じ。
一応幼児期に、高崎市(柳川町)に住んでいたらしいけど・・・。そんなだから、群馬県内にゆかりの地もない??

内村鑑三 (8)
内村鑑三 (6)
見つけたのが、高崎市の高崎公園となりにある、頼政神社の記念碑。この碑は、内村鑑三の生誕100年を記念して、昭和36年(1961年)に建てられたみたい。だけど、神社の中にキリスト教徒の碑が建っている。なぜ?

内村鑑三 (2)
碑の真ん中(黒い部分)には、上州人という詩が刻まれている。「上州人無智また無才」とある。厳しいながらも、逆説的な褒め言葉??

最上部は英語で、下記にように刻まれている。
 I for Japan
 Japan for the Woeld
 The World for Christ
 And All for God

内村鑑三
これは、多磨霊園にある内村鑑三の墓にも刻まれている言葉である。

群馬県には、他にゆかりの地とかはないのかね? 知ってる人がいたら教えて。

軽井沢には、「石の教会 内村鑑三記念館」とか、資料展示館があるのにね。

このエントリーをはてなブックマークに追加


富岡市上黒岩のもみじ平総合公園。

もみじ平総合公園 (2)
もみじ平総合公園
公園内には、野球場、体育館の運動施設から、県立自然史博物館や福田一郎記念美術館等の文化施設まで。もちろん緑地や遊具もあり、色んな年代の人が楽しめる。

県立自然史博物館
県立自然史博物館は、人類の進化が分かるような展示になっている。自然史というくらいなので、動物(恐竜や人類の進化)以外に、植物系の展示も多い。天文もあったな。うぅ~ん、展示物が多くて満腹。

ただ人類の進化の中で、原人が死者の埋葬を始めたというところの展示は、リアルすぎないか? オレでもちょっとぞくっとしたぞ。小さい子だと泣くんじゃないか?(写真ないので、興味ある人は行ってみて。)

福沢一郎記念後術館
福沢一郎記念後術館 (2)
福沢一郎画伯って知らなかったけど、富岡市出身の有名な画家さんらしい。美術系って、シ~ンとしすぎていて、どうも気疲れする。そんな中、知ったかぶりの顔をして、見て歩くのは本当に疲れる。

富岡美術博物館
富岡市立美術博物館の博物館部門は、富岡市の歴史と文化がテーマらしい。当然、富岡製糸ものが多いぞ。

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡上野村の「関東一の鍾乳洞」不二洞。

約1,200年前に発見されたが、洞内があまりに複雑だったため、ず~っと中の詳細は分からなかったらしい。そして今から400年前、中興開山上人が初めて最奥部まで足を踏み入れたと言う。全長は約2.2km。

不二洞 (4)
不二洞 (7)
チケット売り場から入り口まで、山道を約350m上る。ここまでで、けっこうハアハア。さらに上り勾配のコンクリートのトンネルを約120m上ってやっと不二洞の中へ。

でもここは直径12m、深さ40mの縦穴の底。上に行くには、この縦穴にあるらせん階段を40m登らなければならない。

この時点で足はガタガタ、呼吸はゼイゼイ。やっと不二洞見学の開始となる。

不二洞見取り図
上野村振興公社HPから

不二洞 (3)
不二洞 (12)
不二洞 (8)
不二洞 (19)
不二洞 (21)
不二洞 (23)
2.2kmのうち、どれくらいが見学コースになってるんだろう?

30分くらいは歩いていたような気が。いろんな名前が付いているが、仏にちなんだものが多いのは、中興開山上人らが修行の場としていたから。

いやぁ~、自然のすごさを実感。すばらしい!! 100年で1cmの成長と言うから、これだけになるには・・・、想像もできない。

出口からは今度は下り。下りもけっこう足にくるんだよね。息も絶え絶え。体力の衰えを痛感!!

このエントリーをはてなブックマークに追加


上毛かるた紀行、第21弾!

ね
(ね) ねぎとこんにゃく 下仁田名産

下仁田
甘楽郡下仁田町。町民の方には怒られそうだが、いたってのどかな田舎町。

下仁田ねぎ
下仁田ねぎ (2)
国道254号沿いには、いくつもの直売店が並んでいる。

そう言えば、国道406号(高崎市街から旧榛名町方面に行く道)沿いも、梨や桃の直売店が軒を連ね、フルーツ街道と呼ばれている。ここも、「ねぎこん街道」とでも名付ければ?

下仁田こんにゃく (2)
とあるこんにゃく屋さん。知り合いのような、知り合いでないようなお店。この日もけっこうお客さんがいた。商売繁盛?

下仁田こんにゃく (3)
道の駅「しもにた」のショップ内。こんにゃく商品がいろいろあり、お客さんもいっぱい。こんにゃくが飛ぶように売れてだぞ。

下仁田こんにゃく
こんな碑を発見。こんにゃくの碑って・・・。

ねぎとこんにゃくは、これからの季節(鍋料理)には欠かせない。おいしく鍋をつっつけるのも、下仁田のおかげ?

このエントリーをはてなブックマークに追加


多野郡神流町の恐竜の足跡。

道路側面壁に穴らしきものがあり、これが恐竜の足跡と判明。まあ、学者さんが言うんだから間違いない!?

恐竜の足跡
恐竜の足跡 (2)
恐竜の足跡 (3)
もともと、瀬林の漣痕(さざ波岩)と言って、波の化石ということで天然記念物になっていた。中生代白亜紀前期(約1億2千万年前)、この辺一帯は浅瀬の海で(今はすごい山奥なのに)、時代が進むにつれ隆起したということ。

恐竜センター (6)
足跡から少し離れたところに恐竜センターがある。

恐竜センター
入るとすぐに、アバトサウルスの上腕骨(本物!)が置いてあり、自由に触ることができる。ここで子どもたちがキャッキャッ騒いでいるのを見ると、つかみは上々って感じ。もちろん、オレもしっかり触ってきた。まあ、特に感想はないけど・・・。

恐竜センター (3)
モンゴルから贈られたという格闘恐竜(タルボサウルス)の大型モデルは、迫力75点くらいかな。ちょっと満点まではいかないけど、立派な部類に入ると思う。

事前予約が必要だけど、土日は化石発掘体験ができる。もともとは海岸だったので、運が良ければアンモナイトの化石が出てくるかも・・・。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市譲原(ゆずりはら)の地すべり資料館。

譲原地区は地すべりが起こりやすい地形とかで、実際に何度も発生しており、その対策内容が展示されている。

地滑り資料館 (4)
地滑り資料館 (3)
地滑り資料館 (2)
地すべりの発生メカニズムから、現在の譲原地区の状況みたいなのまで。地中の様々なサンプルもある。

規模は小さいが(まあ、タダだから)、結構きれいにまとめてある。対象は地元の小学生って感じの内容だけど、大人が見てもへぇ~っというものが多い。

特に、ジオラマと映像を組み合わせた地すべり対策は分かりやすい。

地滑り資料館 (5)
地滑り資料館 (6)
地滑り資料館 (7)
資料館では、常に地下水位や雨量をモニターするため、外にいろんな測定器が設置されている。また、脇には集水井があり、実際に深い穴をのぞくことができる。ちょっと足がすくんで、怖かったけど。

この田舎町に(失礼!)、地元密着の資料館があるなんて、すばらしいことだ!もっとPRして、小学生くらいを対象に地元以外からも、見学者が集まるようになったらいいと思った。

このエントリーをはてなブックマークに追加


上毛かるた紀行、第20弾!

め
(め) 銘仙織出す 伊勢崎市

銘仙は経糸の数が多く綿密な、絹の平織物として知られた織物。銘仙と呼ばれるようになった太繊は、明治から昭和にかけて一世を風靡した。現在は、伊勢崎絣(かすり)と呼ばれて親しまれている。

伊勢崎織物会館
伊勢崎織物会館には、たくさんの伊勢崎絣の作品や反物、それらを利用した様々な作品、関連資料が展示されている。

と言うことだったが・・・。土曜の11時ころに行ったのだが、なぜか閉まっている。休館日??

下城弥一郎・森村熊蔵の碑
下城弥一郎・森村熊蔵の碑 (2)
とりあえず、敷地内にある「下城弥一郎と森村熊蔵」の記念碑。両者とも伊勢崎織物の発展に大きく貢献し、その功績を讃える碑が建立されている。申し訳ないが、おふたりとも全然知らない。

せっかく来たのに、織物も何も見ないで帰るのも・・・。

銘仙
銘仙 (2)
銘仙3
あるところで、偶然銘仙を見つける(見る)ことができた。そこは相川考古館。織物会館から歩いて5分くらいのところ。

良かった良かった。

相川考古館に関しては、上州まったり紀行の方で、別の機会に紹介するよ。

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市山名町の山ノ上碑。
多胡碑、金井沢碑とならんで「上野三碑」と呼ばれている。

山ノ上碑 (2)
山ノ上碑(7)
多胡碑、金井沢碑に続いて、これで上野三碑制覇である。
(多胡碑:「昔を語る 多胡の古碑」参照)
(金井沢碑:「上野三碑 金井沢碑」参照)
681年の建碑で、三碑の中では最古になる。681年は天武天皇の御代になる。

山ノ上碑 (3)
ここも、結構急な石段を登って行く。遺跡・史跡ってのは、だいたいこういう場所にあるね。身体がなまってるのを自覚するにはいい?

山ノ上碑 (4)
山ノ上碑 (6)
多胡碑、金井沢碑同様、碑は覆屋の中に。金井沢碑よりかは、マシな写真が撮れた。でも、ガラス越しの写真は反射して見ずらい。

山ノ上碑
ということで、多胡碑記念館にある山ノ上碑のレプリカ。

山ノ上古墳
隣には円墳があり、山ノ上碑はこの古墳の墓誌と考えられている。内容は、僧長利が山ノ上古墳に葬られた母のために建てたことと、一族の系譜が書かれている。ちなみに、長利は前橋にあった山王廃寺の僧らしい。

女性でこれだけ立派な古墳(墓)に葬られるということは、その夫はかなりの豪族だったんだろうね。

このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ