Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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藤岡市高山の高山社跡。
国の史跡に指定されている。

高山社 (2)
高山社 (1)
高山社とは、高山長五郎が明治17年(1884年)に設立した養蚕改良組織である。(それ以前に、高山組を興していた)

明治時代、生糸は日本の重要な輸出品で、全国的に養蚕が盛んに行われていた。しかし、自然飼育では病気で死んでしまうことが多く、安定した生糸の生産ができなかった。

長五郎は、蚕室の温度・湿度管理に着目した飼育方法「静温育」を確立し、その指導や普及に尽くした。

高山社 (3)
高山社 (4)
長五郎の活動の拠点であった生家は、最近までご子孫が住まわれていたが、平成21年(2009年)に国の史跡に指定され、ご家族も翌年に移転したため、現在は藤岡市が買い取り管理を行っている。

高山社 (5)
群馬県では「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界遺産として登録すべく準備を進めており、その対象の一つに「高山社発祥の地」が挙げられているらしい。

高山長五郎 功徳碑
生家から5、6kmのところにある諏訪神社境内に、高山長五郎功徳碑がある。

長五郎が養蚕を頑張った理由を読むと、けっこう泣けてくるんだよね。農業関係の近代化って大変だったということがよく分かるよ。

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館林市と邑楽町にまたがる多々良沼。

沼じたいは館林市にあるが、多々良沼公園は邑楽町にある。冬になると白鳥が飛来することで、有名である。

多々良沼 (1)
多々良沼 (4)
多々良沼 (2)
いろいろ寄り道して行ったら、着いたのがもう16:00近くて、そそくさ写真だけ撮ってきた、という感じ。

夕方だったけど、白鳥を驚かせないようにフラッシュなしで撮ったら、逆に絶妙(微妙?)な色合いになった。

白鳥を撮っている人がいっぱいいて、驚いた。みんな三脚立てて、本格的。望遠レンズもすごいし。オレみたいに、小さなデジカメで写真撮ってるのって、いなかったなぁ~。

一応、鳥インフルエンザの心配もあったので、きちんと手洗いをしてから帰ってきたぞ。

館林・邑楽はちょっと遠いので、そう何回も行けないけど、機会があったら、浮島弁財天見物とか公園の散策とか、のんびりして来たい。

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安中市松井田町の五料の茶屋本陣。

茶屋本陣は、江戸時代に参勤交代などで、中山道を通行する大名やお公家さんらが、休憩したところ。宿泊用ではなく、休憩や昼食、あるいは碓氷関所の時間待ちなどに利用された。

西と東の2棟からなり、「お西」「お東」と呼ばれている。もともと2軒の家(別のお宅)である。

五料茶屋本陣 お西 (1)
五料茶屋本陣 お西 (9)
五料茶屋本陣 お西 (8)
これは「お西」。文化3年(1806年)の建築で、明治天皇の北陸東海ご巡幸の際には、ご小休所として使われた。

五料茶屋本陣 お西 (6)
妙義山を借景とする、ちょっとした庭があるんだけど、おばさん連中が縁側に居座っちゃって・・・。妙義が撮れず。

五料茶屋本陣 お西 (3)
ちょうどひな人形展をやっていて、3間を使って展示されていた。

五料茶屋本陣 お東 (5)
五料茶屋本陣 お東 (1)
五料茶屋本陣 お東 (2)
こっちは「お東」。「お西」と同様、文化3年(1806年)の建築。

五料茶屋本陣 お東 (3)
書院造りの上段の間。大名やお公家さんが休憩したところ。

五料茶屋本陣 お東 (4)
入り口わきに風呂場の表示が。下から蒸気で蒸す、蒸し風呂?。

この2家とも、松井田城主の家臣の末裔で、慶長6年(1601年)頃には、既に名主を勤めていたらしい。以降、明治5年(1872年)まで、1年交代で名主を勤めたという名家である。

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安中市郷原の江月山海雲寺。

海雲寺 (1)
海雲寺は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで討死した菅沼定清の菩提を弔うため、旧臣が陽雲寺8世・天徳寛隆を開山として創建。定清の戒名(福聚院殿海雲玄智大居士)から海雲寺とした。

海雲寺の寺域は菅沼城(下山城)跡で、定清の居城であった。菅沼氏は徳川家康の関東移封に伴い定盈が上野国阿保(1万石)、定利が吉井(2万石)に配された。同様に定清も配されたのだろうが、菅沼氏は複数の系統があり、定盈、定利、定清の血縁関係は分からない。

海雲寺 (7)
本堂は大正14年(1925年)の建立

海雲寺 (3)
海雲寺 (6)
招福観音を祀る招福堂。東京・豪徳寺からの勧請。

彦根城主・井伊直孝が武蔵野(当時、現在の世田谷あたりは彦根藩の領地だった)に狩りに出て大雷雨にあった時、一匹の猫が現れ片手を上げ招き、豪徳寺(当時は弘徳庵)の茅屋に案内してくれ雨がしのげたことから、直孝が伊家の菩提寺として伽藍などを整備した。猫が福を招いたということから、招福観音(招猫観音とも)を祀る「招猫殿」を建立。

その後、猫が片手をあげて招いている姿を形どった「招福猫児(まねぎねこ)」が作られるようになり、それが「招き猫」になったといわれる。

海雲寺 (4)
海雲寺 (5)
堂前には招き猫が鎮座している。

山門前を始めとし、境内の至る所に招き猫がいる。

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太田市新田大根町の矢太神水源(やだいじんすいげん)。

矢太神水源
矢太神水源2
矢太神水源3
利根川に注いでいる石田川の源だそうで、水量は豊富で水が砂を噴き上げる「自噴現象」が見られる。石田川流域には、縄文時代から中世にかけての遺跡が数多く残っており、この地域に早くから文化が栄えていたことを物語っている。

ここは、国指定史跡「新田荘遺跡」の一部。

矢太神水源4
石田川の周辺には、江田、田中、小角などの郷があり、新田荘の開発に石田川の水が利用されたこと示しているってさ。

子供が落ちないための配慮なのか、あんまり水源には近づけないが、見た目にもきれいだった(ような気がする)。

矢太神水源5
ホタルの里公園として整備されていて、のんびりすることができる。ホタルの里って言うくらいだから、夏にはホタルが見られるのかな?

すぐ南側にも池のある公園があって(なんとか寺跡ってあったと思う)、散歩にもいいね。

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太田市岩松町の岩松尚純夫妻の墓。
今は尚純萩公園として整備されている。

岩松尚純の墓 (7)
岩松尚純の墓 (6)
岩松尚純の墓 (3)
正面には墓碑があり、その左側に五輪塔が建っている。岩松尚純は、このブログで最近よく出てくる、岩松氏の総領。時代的には1500年ころの人。

岩松氏は、新田氏本宗家没落後、新田氏にとって代わったが、尚純の時代になると家臣・横瀬氏(後の由良氏)の台頭を抑えられず、追われるように隠居している。

岩松尚純の墓 (4)
尚純は隠居した後、青蓮寺で連歌の道に励んだという。そのためか歌碑のようなものもある。号は静喜庵。

岩松尚純の墓 (1)
ところでこの墓所は、萩公園と名が付いているくらいだから、尚純と萩には何か関係があるんだろうか?それとも、この辺は萩の群生地?

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太田市岩松町の義国神社。

義国神社 (1)
義国神社 (3)
義国神社 (4)
源義国を御祭神とする義国神社。

義国は、八幡太郎義家の三男で、新田氏の祖・新田義重、足利市の祖・足利義康の父である。(義家の四男との説もある。)

義国神社は、青蓮寺(岩松館跡)から約200mのところにある。畑の中にポツンとあるので(周りに何もない)、その場所はすぐに分かる。ただ、歩いていくには畑の中を突っ切るわけにもいかず、回り道をしないといけないので、5分くらいかかる。

義国神社 (5)
義国神社 (2)
社の裏には、義国夫妻の供養塔といわれる五輪塔があり、その没年(久寿2年:1155年)が記されている。義国夫妻の墓所ともいわれている。

義国は、まず足利に地盤を張り、そこを次男・義康に譲り、長男・義重とともに新田荘を開拓、晩年は岩松館(青蓮寺)に居住していたと考えられている。新田の地で死去したといわれているので、あながちここが墓所でもおかしくない気がする。

でも、正式な墓所があるのは、足利市の鑁阿寺(ばんなじ)だという。そこは、足利義康の館跡。

後に、足利氏と新田氏の立場には大きな差がついたため、足利氏が義国の墓所を鑁阿寺に後から造った、といったところかな?

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太田市岩松町の岩松山青蓮寺(しょうれんじ)。

青蓮寺 山門
青蓮寺 本堂
青蓮寺は岩松山義国院といい、新田・足利両氏の祖・源義国の開基とされている。義国は、あの有名な八幡太郎義家(源義家)の三男。(四男との説もある。)

岩松館跡 解説
ここは義国の館跡と推定され、境内からは堅固な掘立柱跡等の遺構が、数多く出土している。義国の他、義重やその嫡男・義兼らが住んでいたと推定されている。

後にこの館は、岩松時兼に譲られている。岩松時兼は、義重の嫡男・義兼の娘の子という関係。

仁王像 (1)
仁王像 (2)
山門には立派な2体の仁王像がある。特に解説板もなかったので、いつの時代のものなのか、謂れは何かあるのか等、分からず。運慶作との説もあるようだが・・・。

室町時代後期には、金山城主だった岩松尚純が隠居後に、この青蓮寺で連歌の道に励んだとか。

いやぁ~、前回岩松氏の勉強しておいて良かったよ。今回の人物のつながりが、それなりに理解できた。(「新田岩松氏の勉強です -岩松八幡宮-」参照。)

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太田市岩松町の岩松八幡宮。

岩松八幡宮 (1)
岩松八幡宮 (3)
岩松八幡宮 (4)
新田氏の祖・新田義重が、京都の石清水八幡宮に参拝した際、松の実を持ち帰ってこの地に蒔いたところ、松の木が生えたので、岩松と地名を改めて八幡宮を建てたと言われている。創建は、1170年ころと推定される。

生品神社、笠懸の赤城神社とともに、新田三社と呼ばれる。

岩松八幡宮 (2)
南北朝以降、新田氏の実権が新田本宗家から、傍流の岩松氏に移ったことから、ここを「新田総鎮守」と称するようになった。

岩松氏に関しては、色んな資料を見たのだが、見れば見るほど混乱して・・・。結局は(多分)、足利氏の祖・足利義康の子・義純を祖とする源氏の家系ってこと。でも、義純は新田義重に養育されたという。義重は、新田荘に来る前は足利にいたから、その頃の話し??

もうちょっと付き合って。
で、義純は義重の子・義兼の娘を娶るが、後に畠山重忠の未亡人を娶ったので、前妻(義兼の娘)の子(岩松時兼)は新田方に残った。ということで、父方(義純)は足利氏、母方(新田義兼の娘)は新田氏という関係。

南北朝以降、新田本宗家の没落後、足利氏、新田氏両家との関係をうまく、使い、新田氏の総領職を奪い新田荘を中心に栄えたとか。

戦国時代には、重臣・横瀬氏(後の由良氏)に下剋上され没落した。横瀬氏も新田義貞の子孫と称している。義貞三男・義宗の三男・貞氏の家系。貞氏が横瀬氏に婿入りした、ということみたいだけど・・・。

ちなみに、明治維新後に男爵の爵位を与えられた新田氏は、この岩松氏の末裔・岩松俊純である。

ふぅ~、疲れた。
岩松八幡宮の紀行記のはずが、オレの勉強ページになってしまった。申し訳ないです・・・。(間違いもあるかも。)

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太田市安養寺町の呑嶺山明王院安養寺。

明王院

明王院2
明王院は「新田触不動(にったふれふどう)」とも言われる。創建は康平4年(1061年)で、源頼義が開基である。後に新田義貞が、七堂伽藍十二坊を有する大寺院へ再建したという。

明王院3
明王院4
明王院5
不動堂には二体の不動明王が納められている。そのうち一体が義貞鎌倉攻め(旗揚げ)の際、山伏に化身し越後方面の新田一族に一夜にして触れまわったという。それで「新田触不動」と言うそうな。

二天門には、持国天と多聞天があるとのことだったが、修理中との表示が。

明王院6
明王院7
明王院8
境内には、江戸時代建立のピラミッド型の千体不動尊がある。これは、高さが6mもあり、合計で千体の不動明王像が彫られている(陽彫)。

小川宇兵衛重政という人が、延亨4年(1747年)に江戸の石工に85両で造らせたという記録があるとか。ところで、小川宇兵衛重政って誰?? その後、この方のご子孫が昭和32年(1957年)に修復もしているらしい。

尊敬の念に堪えない。

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太田市亀岡町の新田義貞・駒つなぎの松。

新田義貞 駒つなぎの松 (1)
新田義貞 駒つなぎの松 (2)
生品神社で旗揚げた義貞は、鎌倉を目指して進軍を開始した。とは言っても、このときわずか150騎。

進軍経路は諸説あるようだが、生品神社から南進し、国境を流れる利根川を渡る前にこの地で休したという。そのとき愛馬をつないだのが、この松といわれている。

西に向かい、前橋あたりで利根川を渡り、高崎経由で鎌倉に向かったとの説もある。今も残っている鎌倉街道を見ると、こっちの方が正しいような気も・・・。

松じたいは立派であるが、樹齢1000年には見えないので、何度か植え替えられているようだ。

こういう伝説じたいが、この地の人々が新田義貞を慕っていたことの表れかな。

そう言えば、松につないだ愛馬にも伝説がある。義貞が討ち死にする戦に出陣する際、義貞が乗れないほど大きく暴れ、主人の死を予感していたという逸話が太平記に出てくる。

ちなみに、埼玉県狭山市の八幡神社にも、義貞が愛馬をつないだという松がある。

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安中市安中の安中教会。

安中教会 (1)
明治11年(1878年)新島襄より地元求道者30名が洗礼を受け、安中教会が創立された。群馬県で最初の教会であり、同時に日本人の手により創立された最初の教会でもある。

安中教会 (2)
安中教会 (3)
安中教会 (4)
安中教会 (5)
安中教会の教会堂(新島襄記念会堂)。新島襄召天30周年を記念して建てられた会堂。信徒及び日本中から募った献金により大正8年(1919年)に竣工。

中の見学は予約が必要みたいなので、外(敷地外)から写真を撮らせてもらった。門はいつも閉じられている?

まあ、日本のお寺や神社のように、常に解放しておく訳にはいかないってことかな。機会があったら、中に入って(特に教会堂)厳かな雰囲気を味わってみたい。

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桐生市広沢町の彦部家住宅。
国の重要文化財に指定されている。

彦部家住宅 (4)
彦部家住宅 (3)
彦部家住宅 (5)
彦部家の歴史は古く、その祖は天武天皇の第一皇子・高市皇子だそうな。室町時代は足利将軍家に仕え、3代義満から金閣寺造営の作業奉行に任じられるほどの地位にいたらしい。

戦国時代、時の当主・彦部信勝が関東に下向し、この地に留まったという。時に永禄4年(1561年)のこと。

屋敷は山麓に配置した典型的な中世の城の形態をなしている。規模は東西130m、南北110mで、堀と土塁に囲まれている。

彦部家住宅 (2)
彦部家住宅 (1)
主屋は、入母屋造り・かやぶきで、正面18m、奥行き11mと大きい。建築年代は江戸初期であり、約400年の歴史を誇る。スッゲエ~の一言。

長屋門は、屋敷の表門で正面16.2m・奥行き3.8mで、屋根は茅葺・寄棟造りとする細長い建物である。長屋門は江戸中期の建物。

それ以外にも、冬住(別宅)、文庫蔵、穀蔵等の建屋がある。また、主屋裏には竹ヶ岡八幡宮がある。御神橋もあった。屋敷神様なんだろうけど。裏門は搦め手口と名がついている通り、立派な石垣がある。

何よりすごいのは、この主屋に子孫の方々が最近まで住んでいたということ。不便だったと奥さんが言っておられた。

彦部家梅干し (1)
彦部家屋敷周りでとれた梅から作った、「彦部家秘伝 冬漬けの梅」を買ってきた。美味かった。

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安中市安中の旧碓氷郡役所。

旧碓氷郡役所 (5)
旧碓氷郡役所 (4)
明治11年(1878年)、「郡区町村編成法」が公布され、群馬県に17郡が置かれた。そのひとつが碓氷郡。明治21年(1888年)に、現在の地に役所ができている。

しかし明治43年(1910年)に焼失してしまい、翌年竣工したのが現在も残る旧碓氷郡役所である。建築費は5000円。

旧碓氷郡役所 (1)
旧碓氷郡役所 (2)
旧碓氷郡役所 (3)
当時の会議室が、常設展示場となっており、当時をしのぶ様々なものが展示されている。

天覧の絵・天覧の書ってのがあったけど、昭和天皇の巡幸のおり見ていただいた?

郡って結局は、大正10年(1921年)に「郡制廃止に関する法律」の公布により、行政区画になった。つまり自治体じゃなく、地理的な名称ってこと。

最近では平成の大合併によって、郡の名前も消えつつある。思いつくだけでも、碓氷郡、新田郡、山田郡、勢多郡、群馬郡が消滅した。

由緒ある名称がどんどん消えていき、つまんない名前の市や町ができてるよね。どことは言わないけどさ。

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安中市安中の旧碓氷郡役所。

旧碓氷郡役所 (5)
旧碓氷郡役所 (4)
明治11年(1878年)、「郡区町村編成法」が公布され、群馬県に17郡が置かれた。そのひとつが碓氷郡。明治21年(1888年)に、現在の地に役所ができている。

しかし、明治43年(1910年)に焼失してしまい、翌年竣工したのが現在も残る旧碓氷郡役所である。建築費は5000円。

旧碓氷郡役所 (1)
旧碓氷郡役所 (2)
旧碓氷郡役所 (3)
当時の会議室が常設展示場となっており、当時をしのぶ様々なものが展示されている。

天覧の絵・天覧の書ってのがあったけど、昭和天皇の巡幸のおり見ていただいた?

郡って結局は、大正10年(1921年)に「郡制廃止に関する法律」の公布により、行政区画になった。つまり自治体じゃなく、地理的な名称ってこと。

最近では平成の大合併によって、郡の名前も消えつつある。思いつくだけでも、碓氷郡、新田郡、山田郡、勢多郡、群馬郡が消滅した。

由緒ある名称がどんどん消えていき、つまんない名前の市や町ができてるよね。どことは言わないけどさ。

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