Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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前橋市大手町の利根川河畔にある虎姫観音堂。

虎姫観音 (5)
虎姫観音 (3)
お虎という女性の怨霊によって、厩橋城(前橋城)は次々と水害に見舞われたという伝説がある。このため、河川の神・弁財天とともにお虎を観音様として祀って堂が建立された。

虎姫観音 (4)
どんな伝説かというと・・・。(ちょっと長くなるけど)

前橋城主が酒井氏の頃、城中に「お虎」と呼ばれる美しい娘がいた。お虎は赤城山麓の農家の娘だったが、殿様が鷹狩りの際に見初め、城に召された。殿様はお虎をいつも身近において、身の回りの世話をさせていた。こうなると、城中の奥女中たちの嫉妬の的になる。

奥女中たちは、殿様の食事に針をしのばせ、お虎に運ばせた。針に気づいた殿様は激怒し、お虎をヘビやムカデを詰めた木箱に押し込め、生きたまま利根川の渕に沈めた。お虎は木箱の中で、「城を取りつぶして七代の城主に祟ってやる~!」とうめきながら、川の底に沈んでいった。

その後、毎年利根川が氾濫(洪水)し、前橋城の西端は川に欠け落ち、ついには本丸まで崩れ落ちてしまった。人々は、これはお虎のたたり・怨念に違いないと思い、その怨霊を鎮めるために近くの寺に「お虎稲荷大明神」として祀った。そして、今では「虎姫観音」として利根川の岸に祀られている。

ちなみに、現在の場所に観音堂が造られ、観音様が祀られたのは、個人の方の熱意によるものである(費用や行政への陳情含め)。

虎姫観音 (2)
150cmほどの虎姫(お虎)観音は、化粧がほどこされた様な色付の美しい観音像である。右には水の神様である弁財天、左には幾重にもとぐろを巻いたヘビが祀られている。

それにしても、女の嫉妬っていやらしいね。

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館林市下早川町の雲龍寺。

足尾銅山鉱毒事件で、公害闘争の先駆者となった、田中正造のお墓がある。

雲龍寺 (1)
雲龍寺 (2)
天分22年(1553年)に早川田氏家臣により創建された曹洞宗の寺院。雲龍寺は「日本公害の原点」といわれる、足尾銅山鉱毒事件で田中正造や被害農民らの運動の拠点となった。

田中正造は天保12年(1841年)、現在の栃木県佐野市に生まれる。明治24年(1891年)衆議院議員だった正造は、第2回衆議院議会で鉱毒問題に関する質問を行ったのを皮切りに、鉱毒事件に深く関わっていく。

明治33年(1900年)、被害農民と警察隊が衝突した川俣事件後の国会質問は、日本の憲政史上に残る大演説と評されている。明治34年(1901年)には、明治天皇への直訴に及んでいる。直訴そのものには失敗したが、無関心であった東京中が大騒ぎとなった。

雲龍寺 (3)
雲龍寺 (4)
正造は大正2年(1913年)支援者宅で倒れ、その1月後に亡くなっている。享年73歳。

雲龍寺では、密葬が行われた。本葬は栃木県佐野市にある惣宗寺(佐野厄除け大師)で行われ、参列者は数万人といわれている。正造の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、お墓は6箇所にある。

足尾銅山はその後も操業を続け、昭和48年(1973年)に閉山となっている。

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館林市楠町の楠木神社。

鎌倉時代末から建武の新政と、後醍醐天皇に忠誠をつくした楠木正成を祀っている(といわれている)。

楠木神社 (1)
楠木神社 (2)
九州から京都を目指す足利尊氏軍に対して、新田義貞の指揮下で戦う事を命じられ、湊川の戦いにおいて敗北、楠木正成は自刃した。建武3年(1336年)のことである。

戦死した正成の首を、尊氏は丁重に遺族のもとへ還している。これは尊氏が正成のことを一目置いていたためと考えられる。しかし、この首は正成に似てはいるが偽の首で、本物の首は正成の家臣の手により、守られ運び出されていた。

家臣5人は主君の首を塩漬けにし、奥羽にいた北畠顕家を頼って北に向かった。その途中この地に来たとき、野中の大樹の下で休み、いざ出発しようとしたが、首を入れた籠が重くなり、運ぶことができなくなった。

これは正成の遺志として、その大樹の下に首を埋め、社を建てこの地に土着し祀ったのが、楠木神社の始まりと謂れている。

楠木神社 (6)
楠木神社 (5)
境内には大きなクスノキがあるが、正成の時代からのものとは思えない。

首を埋めたとき既に大樹と言われているので、植え替えられていなければ樹齢1,000年近くないと計算が合わない。

楠木神社 (3)
本殿の覆屋はアクリル板(?)のため本殿を観ることができる。

楠木神社 (4)
ふと、その横を見ると、朽ちた木が覆屋付きで囲われている。

もしやっ! 大樹だったが、後に枯れてしまい、でもその謂れから丁重に守られてきた、
とも考えられる?? ちょっと無理かなぁ~。

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館林市城町の向井千秋記念子ども科学館。

平成3年(1991年)、館林市子ども科学館として開館。館林市出身の向井千秋が、日本初の女性宇宙飛行士として宇宙を飛んだことから、向井千秋の名前が冠された。

館林子ども科学館 (3)
館林子ども科学館 (4)
館林子ども科学館 (5)
スペースシャトルや宇宙関係以外にも、身近な(館林の)自然に関する展示や体験ものも多い(らしい)。

館林子ども科学館 (1)
ドーム直径23m、投影恒星数2万5000個の大型プラネタリウムがある。このプラネタリウムは、最新鋭のデジタル制御コンピュータシステムにより、従来型プラネタリウムとは全く異なるタイプ。

従来のプラネタリウムのような地上から見た四季折々の星空だけでなく、太陽系内のあらゆる位置から見た惑星運動等を、過去から未来まで正確に表現するという優れもの。

まあ、すっごいプラネタリウムだってことかな。

館林子ども科学館 (2)
上の写真の右側の方に、男の子と女の子の銅像が小さく写っている。実は男の子はスペースシャトルを持ている。

分かんないよね。もっと大きく撮ってくれば良かった?

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館林市尾曳町の尾曳稲荷神社。

尾曳稲荷神社 (1)
尾曳稲荷神社 (7)
天文元年(1532年)赤井照光が創建したといわれている。館林城址を紹介したところでも書いたが、赤井照光が子ぎつねを助けたところ、お稲荷様の化身の白きつねが現れ、尾を曳いて城の配置を教えてくれたという伝説がある。
(「きつねの尾曳伝説 -館林城址-」参照。)

尾曳稲荷神社 (2)
尾曳稲荷神社 (4)
尾曳稲荷神社 (5)
館林城(本丸)の鬼門(北東)に建立したため、神社建築としては珍しい西向きの社殿となっている。

震災の影響で、鳥居がぐらついているのか、参道は進入禁止になっていた。危険を承知でちょっと入って、写真を撮らせてもらった。(一応、自己責任ということで。)

館林方面も、震災の影響があちこちにあるみたいだね。

尾曳稲荷神社 (6)
最後にお稲荷さん。


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前橋市敷島町のばら園。
敷島公園を横断して、ばら園まで行ってみた(ばら園も敷島公園内だけど)。

ばら園 (1)
昭和46年(1971年)、200種2,000株のばらが咲く公園として開園。その後、平成20年(2008年)にリニューアルを行い、現在では600種7,000株に増えている。

ばら園 (2)
ばら園 (5)
ばらの季節(旬)はもう過ぎているので(だいたい6月下旬まで)、がらぁ~んって感じ。

ばら園 (3)
ばら園 (4)
ばら園 (6)
種類もよく分からないけど、とりあえず咲いているのを、いくつか撮ってきた。(行ったのは7月上旬の某日。)

ちなみに、秋の見ごろは10月下旬から11月上旬らしい。何が咲くのかは・・・、知らない。

以前、ばら園内の「萩原朔太郎記念館」「蚕糸記念館」は紹介済みなので、そちらも見てね。
(「ネコも入りたがる記念館 -萩原朔太郎記念館-」)
(「県都前橋 生糸の市(いとのまち)」)

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前橋市敷島町の敷島公園。
前回の「お艶が岩/お艶観音」を見に行ったついでに、敷島公園内をブラブラしてみた。

敷島公園は、利根川と広瀬川に挟まれた場所に、約37haの広大な面積を有している。全国でも珍しい2,700本の松が茂る松林も味わいがある。

敷島公園 (5)
さすがに休日は家族連れで賑わうね。木陰が多いから、のんびりするにはもってこいだね。

敷島公園 (1)
そうは言っても、やっぱり暑いので、水場は子ども達でいっぱいだった。

敷島公園 (6)
ボートに乗っている人は、ほとんどいなかった。意外と水面の照り返しってきついので、やっぱり暑いからかな。

敷島公園 (4)
土俵を発見。何だろう?前からあったっけ? ということで調べてみたら、毎年わんぱく相撲大会が開催されているらしい。今年は5月に開催されたらしい。高学年の優勝者は、両国国技館で開催される全国大会に出場するみたい。

頑張ってきてね。

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前橋市敷島町の敷島公園内にある、お艶が岩。その上にはお艶観音が建っている。

お艶が岩 (1)
お艶が岩 (3)
前回、前橋市総社町の元景寺に、淀君の墓(?)があることを書いた。
(「淀君のお墓? -元景寺-」参照。)
淀君は大坂夏の陣の際、秋元長朝に助けられ、総社にやって来たという。

その後、総社城や元景寺で何不自由なく過ごしていたが、過去の悲哀に耐え切れず、遂に世をはかなんで利根川に身を投じてしまったという。寛永7年(1630年)のことといわれている。

お艶が岩 (4)
お艶が岩 (2)
身を投じた岩をお艶が岩と言うようになった。また、昭和34年(1959年)には、岩の上に観音様が建立された。お艶の330周忌のことである。

この岩には全然別の謂れもあるので、一応紹介しておく。

お艶という美しい娘が、利根川の対岸に住む青年に恋をした。始めは川を越えて会いに来ていた青年だが、次第に熱が冷めて遂には姿を現さなくなってしまった。お艶はこれを悲しみ、この岩から恋人の名前を呼びつつ身を投げたという。

まあ、どっちにしろ悲哀ただよう謂れである。

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前橋市総社町の気雲山春光院元景寺。
ここには、なんと淀君(!)のお墓がある。

元景寺 (1)
元景寺 (4)
元景寺 (3)
天正18年(1590年)総社藩の初代藩主・秋元長朝が、父親である秋元景朝の菩提を弔うため開創したのが始まりと伝えられている。

元景寺 (7)
元景寺 (10)
秋元景朝、正室・春のお墓。

元景寺 (8)
元景寺 (9)
これが淀君のものと伝わるお墓。墓石には「心窓院殿華月芳永大姉」とある。この「院殿」というのは、武家時代、将軍や大名の戒名に付けた尊号。うぅ~ん、相当地位の高い女性ということの証拠?

なんで、群馬に淀君のお墓があるかと言うと・・・。

秋元長朝が徳川側として大坂夏の陣に参陣した際、高貴な女性が助けを求めてきた。長朝はその女性が淀君と察し、密かに駕籠に乗せ中山道を通り、所領である上野国総社に連れて帰ったという。

元景寺には、淀君が当時乗って来た籠の扉(豊臣の家紋入)、淀君の着ていた打ち掛けが、今も残っている。 (これらの品々は、毎年秋の秋元祭で、年に1回公開される。)

それから後、この地では淀君は身分を隠すために、大橋の局「お艶」と呼ばれていた。

大坂夏の陣での、淀殿の最期を目撃した者がおらず、また遺体も確認されなかったため、逃亡・生存説などの俗説が生まれている。そのひとつが、群馬にあったということ。

次は、この「お艶」のその後に関係する所だよ。

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前橋市総社町の蛇穴山(じゃけつざん)古墳。

蛇穴山古墳 (3)
蛇穴山古墳 (2)
蛇穴山古墳 (1)
一辺の長さが約40m、高さ約5mの方墳である。8世紀前半の造営と推定され、古墳としては最終末期に位置付けられる。

蛇穴山古墳 (4)
蛇穴山古墳 (5)
石室の規模は玄室長3m、幅2.6m、高さ1.8mである。羨道はなく、直接玄室が開いている。

蛇穴山古墳 (6)
玄室の主要部分には、加工された巨大な輝石安山岩の板石を用いており、天井、奥壁、左右の側壁が各々一枚岩というすごさ。

蛇穴山古墳は、上毛野田道(かみつけのたみち)の墓だという言い伝えがある。田道は崇神天皇の皇子・豊城入彦命より5代目の子孫で、仁徳天皇の時代に新羅征伐で名を上げた人物である。

その後、蝦夷征伐に派遣され奮闘するが戦死し、ここに埋葬されたといわれる。蝦夷が田道の墓をあばこうと総社一帯を襲撃した際、墓から大蛇が出現して毒気を吐き、蝦夷はことごとく倒されたという。そこから、蛇穴山の名がついたとされる。

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前橋市総社町の宝塔山古墳。

宝塔山古墳 (3)
宝塔山古墳 (4)
宝塔山古墳 (5)
一辺の長さ約55m、墳丘高11mの規模を誇る方墳である。方墳としては全国的にも大きい部類に入る。7世紀末から8世紀前半の造営と推定され、古墳としては最終末期に位置付けられる。

宝塔山古墳石室 (2)
宝塔山古墳には立派な石室があり、しかも公開されている。

石室の規模は、全長12.4m、玄室長3.3m、奥幅3.02m。玄室には家形石棺が残っている。その底部は4辺ともに格狭間の形にくり抜かれており、古墳への仏教文化の影響を物語っている。

宝塔山古墳 (1)
宝塔山古墳 (2)
墳上部には、秋元家歴代当主の墓所がある。総社から甲斐谷村、川越、山形、館林と移っているが、移封後の当主のお墓もある。

秋元氏の墓所がある、ということで行ったのだが、意外にも立派な石室を見ることができた。

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前橋市総社町の宝塔山古墳。

宝塔山古墳 (3)
宝塔山古墳 (4)
宝塔山古墳 (5)
一辺の長さ約55m、墳丘高11mの規模を誇る方墳である。方墳としては全国的にも大きい部類に入る。7世紀末から8世紀前半の造営と推定され、古墳としては最終末期に位置付けられる。

宝塔山古墳石室 (2)
宝塔山古墳には立派な石室があり、しかも公開されている。

石室の規模は、全長12.4m、玄室長3.3m、奥幅3.02m。玄室には家形石棺が残っている。その底部は4辺ともに格狭間の形にくり抜かれており、古墳への仏教文化の影響を物語っている。

宝塔山古墳 (1)
宝塔山古墳 (2)
墳上部には、秋元家歴代当主の墓所がある。総社から甲斐谷村、川越、山形、館林と移っているが、移封後の当主のお墓もある。

秋元氏の墓所がある、ということで行ったのだが、意外にも立派な石室を見ることができた。

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前橋市総社町の秋元山江月院光巌寺。
慶長6年(1601年)総社藩初代藩主・秋元長朝が、徳蔵寺の亮應を招いて開山したのが始まりとされる。

光厳寺 (2)
光厳寺 (3)
山号は姓の秋元から、院号は長朝の法名・江月院、寺名は長朝の母の法名・光巌院から名付けている。

それにしても、でっかい本堂だ。

光厳寺 (4)
秋元家歴代の菩提寺であり、秋元家が寛永10年(1633年)甲斐谷村へ移封となった後も、秋元家の歴代当主を弔っている。御廟所には入れないようだ。

光厳寺 (1)
光厳寺 (5)
珍しい形をしている楼門。何故か閉まっている。なので、長屋門から中へ入らせてもらった。

光厳寺 (6)
これは薬医門。江戸時代初期に城門だったものを移築したと推定されている。しかし門の多いお寺である。

秋元家の功績としては、天狗岩用水の開発事業がある。これは3年間の租税免除を条件に、領民を集めて灌漑事業を行ったもの。これにより新田開発が行われ、総社藩として豊かになった。この天狗岩用水は、今も灌漑用水として利用されている。

秋元家は、甲斐谷村へ移封後、川越、山形を経て、幕末に館林に移っている。秋元家は、館林でも慕われている。(「つつじが岡第2公園 -旧秋元別邸-」参照。)

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館林市楠町の終南山見松院善導寺。
ここには、德川四天王で館林藩主・榊原康政のお墓がある。

善導寺 (1)
善導寺 (7)
善導寺 (2)
和銅元年(708年)行基の開山と伝えられている。

当初は行基寺と呼ばれていたようだが、建治2年(1276年)、寂恵良曉上人により再興され、善導寺と寺号を改めた。また、元和元年(1615年)院号を見性院から見松院へ改め、現在の形となっている。

善導寺 (3)
本堂裏手には榊原康政をはじめ、長男・大須賀忠政、3男・榊原康勝、康政側室・花房氏らのお墓ある。案内板(?)の左から2番目の、1番立派な墓石が康政のもの。

善導寺 (5)
善導寺 (6)
ところが、3月の震災の影響で、崩れてしまっている。行ったときは、まだ修理も始まってないみたいだった。

善導寺は平成2年(1990年)、館林駅前整備事業のため、現在地へ移転している。現在の楠町は、愛妾「お辻」の供養塔のある善長寺から500mくらいの所である。
(「「お辻」の供養塔 -善長寺-」参照。)

やっと愛妾の近くへやって来れた訳なので、お墓も早く直してやって欲しいね。

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館林市当郷町の巨法山善長禅寺。
つつじが岡公園から見て、城沼の対岸(北岸)にある。

善長寺 (6)
善長寺 (1)
善長寺 (2)
室町時代の大永3年(1523年)に開かれた曹洞宗のお寺。

ここには、德川四天王で館林藩主・榊原康政の愛妾「お辻」の供養塔がある。

善長寺 (3)
善長寺 (5)
善長寺 (4)
榊原康政の側室「お辻」は美しく、康政の寵愛を一身に集めていた。そのため、正室や腰元たちの妬みを受け、ひどくいじめられていた。そして遂に耐えられなくなり、侍女の「お松」とともに城沼に身を投げてしまった。時に慶長10年(1605年)のことと伝えられている。

その霊を弔うために、「お辻」「つつじ」の音が互いに似かよっていることから、つつじを城沼の南岸に植えた。これがつつじが岡公園の始まりと言われている。

その後も、康政の孫・忠次は、新田郡武蔵島村(現:太田市武蔵島町)から、新田義貞の妻・匂当内侍遺愛のつつじを数百株移植している。さらに、寛文年間(1661年~1672年)には徳川綱吉が、日光の山から数株のつつじを移植したと言われている。

つつじが岡公園は、女の嫉妬がもとの悲劇から始まった、ということ。

追記
再訪記はこちら「榊原康政の孫・松平忠次の生母の墓 -善長寺 その2-

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