Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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高崎市箕郷町の箕輪城址。

もともと、この辺は箕輪町だったが、隣の車郷村と合併して箕郷町になった。その箕郷町も高崎市と合併している。

箕輪城址
箕輪城址2
箕輪城は永正9年(1512年)に長野氏が築城したといわれている。その後、武田氏、織田氏、北条氏と城主が変わり、天正18年(1590年)徳川氏の関東入府に伴い井伊直正が城主に。井伊直正が近代城郭へ改造したが、慶長3年(1598年)高崎へ移封されたことで廃城に。

箕輪城址3
箕輪城址4
搦手口から二の丸址を通り本丸址へ。

箕輪城址5
本丸址には、何にもない。ただ野原が広がっているだけ。何か工夫できないもんかねぇ~。まあ、春には桜がきれいだということだが。

箕輪城址6
箕輪城址7
本丸址隣には御前曲輪址がある。ここは永禄9年(1566年)武田信玄の猛攻に耐えきれず、時の城主・長野業盛(なりもり)が自刃した持仏堂があったところ。19歳と言われている。将兵の慰霊碑も建っている。

ところで、道路沿いに駐車場があったので、そこに車を置いて歩いて登って行ったんだけど、二の丸址横にも立派な駐車場があった。知ってれば、こんなに歩いてこなかったのに・・・。

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太田市世良田町の新田荘歴史資料館。
1985年に開館した東毛資料館が平成21年(2009年)に太田市に移管され、太田市立の新田荘歴史資料館として新たに開館した。

新田荘歴史資料館
新田義貞
お~っ、いきなり新田義貞像。期待が持てる。

ちなみに、この銅像の写真は上毛かるた紀行、「歴史に名高い新田義貞」でも使ってるので、そっちも見てね。

新田荘歴史資料館 (6)
新田荘歴史資料館 (5)
新田荘歴史資料館 (4)
新田荘歴史資料館 (3)
新田氏や義貞関係の展示であふれている・・・わけではなく、古代から時代順に並んでいた。義貞関係って、こんなもんしかない。おっと、肩すかし。もう少し、新田義貞や新田氏に関しての展示が多いと思ってたのに・・・。

確かに、この辺は歴史的な遺跡が多く、また各時代に渡っているので、平均的になってしまうのも、分からなくはないが。

新田荘歴史資料館 見取り図
この資料館けっこう大きいのに、資料展示に半分しか使ってないんだよね。
左側の空いてるところを、新田氏と義貞専用展示ブースにするとか、もっと工夫できると思うけど。歴史資料には事欠かない地域なんだから。

あと、事務員何人いるか知らないけど、事務所デカ過ぎ!

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太田市徳川町の徳川山満徳寺。
鎌倉の東慶寺とともに、日本でふたつの縁切寺・駆け込み寺である。

満徳寺
満徳寺2
徳川家の祖とされる徳川義季の娘を開祖とする。徳川2代将軍秀忠の娘・千姫が再婚するに際し、前夫豊臣秀頼との離婚の名目を立てるため入寺したと伝えられる。実際は代理の代理が入寺したようだが。

檀家を持たず徳川の庇護のもとに成り立っていたため、江戸幕府瓦解とともに明治5年(1872年)に廃寺となった。

近年本堂が復元され、隣には資料館も併設された(1992年開館)。

満徳寺3
駆け込み門 外から。

満徳寺4
駆け込み門 中から。駆け込み門を外からと中から見た。門の外と中では大違いだった?

満徳寺5
再建された本堂は中の見学もできる。まあ、何があるという訳ではないが、東照大権現様(笑)の位牌があった。

満徳寺6
資料館には千姫関係の資料もちょこっとあった。写真はないけど、歴代徳川将軍の位牌もずら~っと並んでいた。

映像コーナーでは、アニメで縁切の仕組みとかが解説されていて、ナレーションは「家政婦は見た」で有名なお方であった。

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太田市細谷町の高山彦九郎記念館。

高山彦九郎記念館 (7)
高山彦九郎記念館 (2)
延享4年(1747年)に上野国新田郡(現太田市)に生まれた彦九郎は、13歳の時に太平記を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳で書置きを残して家を出て、京をはじめ諸国を廻り勤皇論を説いた。

高山彦九郎記念館 (3)
太平記に自分の先祖が新田義貞の部下で、南朝に殉節したことを知り尊王の大義に目覚めたらしい。

高山彦九郎記念館 (5)
京都・三条大橋のたもとにある、御所に向かい伏拝している彦九郎の銅像の写真・・・の写真。決して土下座をしているわけではない。

高山彦九郎記念館 (4)
高山彦九郎記念館 (6)
彦九郎は膨大な日記を残している。その日記に記された旅先は、蝦夷地(北海道)と四国を除く日本全国に及んでいる。旅道具も展示してあった。

高山彦九郎記念館 (1)
彦九郎は寛政5年(1793年)筑後国久留米(福岡県久留米市)で自刃して果てている。徳川幕府を批判し王政復古を唱えていたが、果たせずの憤死とも言われている。写真右の手紙に、どす黒い汚れのようなものが見られるが、彦九郎の血痕だと言う。

彦九郎の思想は、長州の吉田松陰に大きな影響を与えたと言われている。ちなみに、吉田松陰の号「松陰」は、彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」からきているとの説も一部にあると、記念館の方から聞いた。

長州の高杉晋作、久坂玄瑞、土佐の中岡慎太郎らが、この地を訪れている。

彦九郎の死から75年後に、王政復古、明治維新が成し遂げられている。

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太田金山城の本丸址にある、新田義貞を祀る新田神社。

新田神社 (2)
新田神社・金山城本丸跡
新田神社 (3)
金山城の御台所曲輪の大ケヤキを通り過ぎ、石段を登って行くと本丸址。そこに新田神社がある。

明治6年(1873年)の創建というから歴史はまだ浅い。ここに建っている経緯はよく分からないが、金山に新田義貞が砦を作ったという説もあるので、それでかな?(考古的な裏付け資料はない。)

個人的には、新田神社のある場所として打って付けだと思う。

新田神社 (1)
案内板を見ると、これまでに大正天皇、昭和天皇、秩父宮殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下等が参拝されている。やはり新田義貞が後醍醐天皇に尽くしたから、皇族方のご参拝が多いのかな。

明治になって天皇中心の中央集権国家に生まれ変わり、新田義貞や楠木正成は忠臣になった。個人的には、尽くしすぎて・・・と思うが。

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太田市(旧市)のほぼ中央にそびえる標高235.9mの金山に築かれた金山城。

金山城址
金山城址 (2)
応仁3年(1469年)新田一族の岩松家純によって築城される。新田義貞が鎌倉時代末に、砦として整備したとの説もある(裏付けデータなし)。戦国城郭史の定説をくつがえした、石垣・石敷きの城といわれている。

金山城址 (3)
大手虎口道。復元みたいだけど、城って雰囲気!

金山城址 (4)
日ノ池。

金山城址 (5)
月ノ池。

山城のため水の確保が重要なのだ。日ノ池の近くにも、大きな(深そうな)井戸があった。水の準備は万全といったところか。

金山城址7
御台所曲輪にある大ケヤキは推定樹齢800年。このケヤキの左の石段を登って行くと本丸址。現在そこには新田義貞を祀る新田神社がある。(新田神社は次回紹介。)

さすがに金山は太田のシンボルだけあって、よく整備されている。南曲輪からの眺めも非常にいい。天気が良ければ富士山も見えるとか。

ただ、この南曲輪に中島知久平の胸像が建ってる。中島知久平じたいは太田の偉人であるが、なぜここにある必要が・・・。

オレ、こういう場違いな銅像・胸像の類、嫌いなんだよね。

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安中市東秋間の通称岩戸山に赤穂浪士47人の石像がある。

四十七士石像
四十七士石像 (2)
長野新幹線の安中榛名駅から榛名町方面へ向かっていくと左側の山。こんもりした木々の中に入り口があり、多少整備された山道を登って行く。

四十七士石像 (8)
四十七士石像 (7)
t
森に入ってから100mくらい行くと、せり出した岩の下にずら~っと石像が並んでいる。よく見ると、一体一体の形が微妙に異なっており、47浪士それぞれを意識して造ったということが伝わってくる。

四十七士石像 (5)
これは、赤穂浪士のひとり片岡源五右衛門の下僕・元助が、20年の歳月をかけて造ったもの。しかし、すごい所に造ったもんだ。

元助は赤穂浪士切腹後、故郷の秋間に戻り、浅野長矩夫妻と47士の供養に残りの人生を費やした。

個人的には、忠臣蔵の逸話(吉良義央の浅野長矩へのいじめ)はすべて作り話と考えているので、吉良から見ればとんだ言いがかり。すべては浅野の短慮から始まっている。この辺は、機会があったら別稿で。

なので、安中市の各種表示は「赤穂義士像」となっているが、ここでは「赤穂浪士」と表記した。

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磯部温泉には多くの文学者が訪れて、数々の作品を残している。それらの作品が、温泉マーク発祥の地記念碑のある磯部公園のいたるところに歌詩碑となっている。

有名な人から、オレの知らない人まで。オレが知らない=無名、ではないので誤解のないように。

大手拓次
大手 拓次

萩原朔太郎
萩原 朔太郎

室生犀星
室生 犀星

北原白秋
北原 白秋

若山牧水
若山 牧水

真っ先に大手拓次を載せているのは磯部出身(地元)だから。後は、オレが知ってる人。

その他、岡田太京、吉野秀雄、久保田万太郎、山口薫、川田順一、松坂一、水原秋桜子、厳谷小波、村上鬼城、湯浅半月、等の碑がある。

温泉マークの発祥の地記念碑と同じ公園内にあるのに、紀行として2つに分けるのは、紀行の水増しではないか? という批判はなしね。いろいろ巡るのもけっこう大変なんだから・・・。

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これは誰もが知っている温泉マーク。この温泉マーク発祥の地と言われているのが、安中市の磯部温泉。

磯部温泉 (2)
愛妻橋から見た磯部温泉と碓氷川。

磯部温泉
温泉街のところどころに、「温泉記号発祥の地 磯部温泉」の幟(のぼり)が立っている。

万治4年(1661年)に土地境界争いがあり、このとき江戸幕府から出た判決文の絵図に、温泉マークが描かれている。現在、これより古い使用例が見つかってないことから、温泉マーク発祥の地とされている。

磯部公園
温泉マークの碑
碓氷川を望む場所に磯部公園がある。この磯部公園内に、温泉マーク発祥の地の記念碑がある。

磯部温泉まで何をしに行ったかというと、この温泉マークを見に行ったのだ。だから、日帰り温泉はおろか、足湯にも入ってこなかった。伊香保温泉に続いて、また温泉に行って温泉に入ってこなかった。(上毛かるた紀行、「伊香保温泉 日本の名湯」参照)

今思うと、温泉まで行ったんだから・・・。トホホ。

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安中市上間仁田の安中ふるさと学習館。

安中ふるさと学習館
丘の斜面に突然立派な建物が! 周りには何にもないけど。3階建てで、考古・歴史関係の展示は2階にある。

安中ふるさと学習館 (2)
いきなり、縄文人と背比べ。趣向はおもしろい。

安中ふるさと学習館 (4)
安中ふるさと学習館 (5)
安中ふるさと学習館 (3)
縄文時代の土器から、古代、中世、近代まで、安中市周辺の代表的な歴史・文化の展示となっている。

写真は撮ってこなかったけど、安中ということで、新島襄や大手拓次(磯部出身の歌人)、杉並木や碓氷峠のコーナーもある。

行ったときは、ちょうど「西上州の中世」という企画展をやっていた。この辺りは、上杉氏、武田氏、織田氏、北条氏など、様々な戦国大名に支配されていた関係で、いろんな文書や遺物があるらしい。

安中ふるさと学習館 (6)
そんな中で、1個だけ興味をひかれたのがこれ。武田晴信(信玄)が、山本菅介に宛てた書状。所領と金子(きんす)を与えるみたいなことが書いてある。

ちなみに、名軍師・山本勘助はその実在がはっきりせず、この菅介と有名な勘助が同一人物なのかは、意見が分かれている。

オレは、この辺の知識がないので、何とも言えないが。

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高崎市八幡町の観音塚考古資料館。
前回紹介した、観音塚古墳から出土した副葬品を中心に展示されている。
(「群馬の石舞台? -観音塚古墳-」参照。)

観音塚考古資料館 (2)
銀装鶏冠頭太刀。

観音塚考古資料館 (3)
金銅製心葉型透彫杏葉と承台付銅鋺。

観音塚考古資料館 (4)
耳環。

出土しているのは埴輪はもちろんだが、銅の鋺や太刀、耳環(耳飾り)等がある。これらは当時の技術や美意識がきわめて高かったことを示している。

観音塚考古資料館
観音塚考古資料館 (6)
観音塚考古資料館 (7)
ちょうど企画展として「中型円墳の埴輪群像」を行っていた。これは高崎市吉井町の中原1号墳の墳丘と埴輪の配列を再現したもの。真ん中の家の形をしている埴輪は、非常に珍しいと思う。でも、展示は1番隅っこなんだよね。

ところで、観音塚考古資料館では観音塚古墳の石室見学用に、懐中電灯を貸してくれる。オレも懐中電灯を借りて、観音塚古墳へ向かったのだ。観音塚古墳までは歩いて2~3分くらいなんだけど、懐中電灯を持って住宅街を歩くのは、意外と恥ずかしかったりする。

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高崎市八幡町の観音塚古墳。

観音塚古墳
観音塚古墳 (7)
観音塚古墳 (2)
全長105mの立派な前方後円墳。しかも常時石室が解放されており、いつでも誰でも石室に入ることができる。これは貴重なこと。

観音塚古墳 (3)
観音塚古墳 (4)
観音塚古墳 (5)
(これは石室の中から)

この石室は、幅3.55m、奥行き7.45m、高さ2.8mの大きさを誇る。石室の天井石は、たたみ6畳より大きく、重さ60トンと推定される。その巨大な石造りから、群馬の石舞台と呼ばれている。ちなみに石舞台とは、奈良県明日香村にある、蘇我馬子の墓と伝えられる、巨大岩で有名な古墳である。

副葬品も30種300点と、豊富に出土している。銅鏡、銅の鋺、金や銀で飾られた武具や馬具等。これらの副葬品は、すぐ近くにある観音塚考古館に展示されている。(出土品は、国の重要文化財に指定されている。)

これらの副葬品が発見されたいきさつがおもしろい。第2次世界大戦真っただ中の昭和20年(1945年)に、地元の方々が後円部に防空壕を掘っていたところ、偶然発見された。全長105mもの古墳で、石室(副葬品)を掘り当てるなんて、トレジャーハンターなみの嗅覚である。

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吾妻郡東吾妻町新巻の水牢跡。

水牢跡 (7)
水牢跡 (3)
水牢跡 (5)
水牢は人を水の中に入れる水責めの一種で、主に年貢の取り立てに使われていた。

水牢は吾妻郡の東部(東吾妻町や中之条町)にのみ残っている。きちんとした資料はないみたいだが、岩櫃城主の斉藤氏が行っていたのをその後吾妻郡東部を勢力圏に入れた真田氏も引き継いだようだ。

当時(1650年~80年ころ)、沼田・真田氏の重税は過酷を極め、年貢未納の農家の家族(妻子)を縛って水牢に投獄し、寒中の水の中に立たせたといわれている。そのため、借金をしたり土地を売ったりして年貢を納め家族を救い出した。

あまりの重税や取り立ての過酷さに、「天下の義人 茂左衛門」で有名な杉木茂左衛門に代表される直訴が相次ぎ、他の不祥事も重なり沼田・真田氏は改易になっている。

水牢跡 (6)
水牢跡 (2)
現在は非常にきれいな水を湛え、ここの水は眼病に効くといわれている。

真冬に、縛られたうえ寒水に浸けられるなんて、想像もできない。ろくでもない為政者ってのは、常人では思いもつかないような拷問を考えるね。とんでも領主様だ。

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吾妻郡東吾妻町原町の大ケヤキ。

原町の大ケヤキ
原町の大ケヤキは旧吾妻町市街地のはずれ、県道35号の交差点の中に立っている。樹齢1000年といわれている。

かつては、日本3大ケヤキのひとつとされていた。だが現在は、交通量の多い交差点の真ん中にある関係で、排ガスと振動にさらされ、往時の姿は見る影もない。(往時の姿、知らないけど・・・。)

なんでこんな場所にあるかというと、400年前にこの地を治めていた真田氏が町割りをするときにこのケヤキを基準にしたからといわれている。

残念ながら、枯死寸前。どこかに移植しない限り、延命できないんだろうな。

今回は交差点の真ん中にという地理上の問題、交通量も多く車を停める場所もなさそうだったので、車中からの写真が1枚というものぐさ紀行です。(赤信号で止まったときに撮ったのだ。)

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吾妻郡東吾妻町矢倉の矢倉島頭神社の神代杉。

神代杉
神代杉 (3)
神代杉 (2)
樹齢1400年といわれているが、天明のころ火災(浅間山の噴火?)にあって、今は高さ6m、周囲10m、厚さ45cmの枯れ木になっている。中は空洞になってしまっており、ワイヤーでつなぎとめている状態。

空洞の中に、また杉の木が生えており、こちらは樹齢200年。親子杉と呼ばれている。

神代杉 (4)
案内板によると、この杉は日本武尊が東征の際この地に植えたものだという。

さすが吾妻郡、日本武尊伝説が多い。仙人窟にも足跡が残っていた。
(「苦労して登ったわりには・・・ -仙人窟-」参照。)

でも、日本武尊が植えたとすると、樹齢1400年では合わない。1800年以上になるはず。日本武尊が実在したかというと「?」であるから、まあいいかっ!!

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