Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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上毛かるた紀行、第33弾!

ぬ
(ぬ) 沼田城下の 塩原太助

利根郡新治村(現みなかみ町)の出身で、宝暦11年(1761年)江戸に出て、炭屋山口屋で奉公。勤勉な働きぶりで蓄財に励む。後に独立し、本所相生町に店を出し大繁盛、ついには幕府のお金御用を務めるまでになった。

塩原太助 (9)
塩原太助 (3)
みなかみ町(旧新治村)新巻に塩原太助翁記念公園がある。

塩原太助 (6)
塩原太助 (2)
江戸に出て身を興したい、という申し出を父親に許されず、ある朝草刈りに行くふりをして、愛馬「あお」を引いて家を出る。まあ、今で言う家出である。

塩原太助 (7)
塩原太助 分かれの松
香才ケ原で、あおを松の木につないで別れた。これが上毛かるたの絵札。いや~っ、本当のところ塩原太助のことなんて知らなくて、絵札の意味ももちろん知らなかったんだよね。

塩原太助 (8)
記念公園から数10mの所に、太助の生家がある。まだご子孫がお住まいのようだ。

富豪になってからも謙虚な気持ちで清潔な生活を送り、私財を投じて道路改修や治水事業などを行った。群馬県内にも、太助が寄進したというものが、けっこうある。オレが知ってるのは、榛名神社の石玉垣と榛名湖への道沿いの常夜灯や灯篭。

戦前には立志伝型人物として教科書に載っていたのも、うなずけるところだ。

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上毛かるた紀行、第32弾!

て
(て) 天下の義人 茂左衛門

茂左衛門地蔵 (1)
茂左衛門地蔵 (2)
利根郡みなかみ町月夜野(旧月夜野町)の茂左衛門地蔵尊。

茂左衛門地蔵 (6)
茂左衛門地蔵 (3)
杉木茂左衛門は、沼田城主・真田伊賀守信利の圧政に苦しんでいた、利根・吾妻・勢多の177村領民のため、一命をかけ将軍(徳川綱吉)への直訴を決行。天和元年(1681年)のこと。

見事直訴は成功し、沼田真田家は改易となったが、茂左衛門は天和2年(1682年)11月5日、磔の刑に処せられた。

領民はその死をいたみ、刑場跡に地蔵尊を建て、供養を続けてきた。大正11年(1922年)各地からの浄財により、茂左衛門を祀る千日堂が建立された。

茂左衛門資料館 (1)
千日堂の隣に資料館(?)があり、30数枚の絵で流れをうまく説明している。まあ、紙芝居のようなもんだね。

茂左衛門資料館 (8)
真田信利は無理な検地により、もともと3万石程度の領地を、14万4000石とした。そのため領民は5倍の増税となった。8公2民くらいだったらしい。

茂左衛門資料館 (6)
領民の生活は困窮を極めていたが、信利は華美贅沢三昧。

茂左衛門資料館 (5)
年貢未納者には容赦のない拷問。これは水責め。

だいぶ端折るけど・・・・・。

茂左衛門資料館 (3)
茂左衛門は、月夜野竹之下河原で磔の刑に。享年48歳。

絵はこのままでいいので、これにナレーションつけて映像化してくれると、非常に分かりやすいと思った。絵についている解説文が、意外と小さく見づらいので。

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富岡市七日市の七日市藩陣屋(藩邸)跡。
県立富岡高校内にある。

七日市藩邸跡 (2)
七日市藩邸跡 (3)
七日市藩邸跡 (5)
七日市藩陣屋は元和2年(1616年)、藩祖・前田利孝によって築かれる。前田利孝は、有名な前田利家の5男である。

陣屋は約100m四方で東側と北側には水堀、西側と南側は空堀を廻らし、高さ1.8mほどの土塁の上に1.5mの塀を築いていたといわれている。敷地内には藩主の居館や藩行政施設、家臣の宅邸が軒を連ね、城郭ではなく、陣屋構えの形式だった。

七日市藩邸跡 (1)
現在は天保14年(1843年)に再建された、御殿の玄関と書院の一部、中門(黒門)が移築保存されている。

七日市藩邸跡 (7)
七日市藩邸跡 (6)
庭園もきれいに整備されており、ゴミも落ちていない。生徒を含む高校関係者の、文化財への造詣の深さの表れ、と勝手に解釈。

七日市藩は1万石という小藩であり、財政的にはかなり厳しく、本家である加賀藩からの援助なくしては、成り立っていなかったようだ。

上野国唯一の外様大名で、1万石という小藩であったが、明治維新まで改易されることなく、しぶとく存続している。

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富岡市富岡の宮崎山龍光寺。

龍光寺 (5)
龍光寺 (1)
龍光寺 (2)
創建は長禄年間(1457年~1460年)、奥平氏によって開かれたのが始まりと伝えられている。

富岡製紙女工さんの墓 (2)
富岡製紙女工さんの墓 (3)
富岡製紙女工さんの墓 (4)
富岡製紙女工さんの墓 (5)
明治6年(1873年)には工女総数404人に達し、品質優良な生糸は海外でも名声を博していた。

工女さんたちは、北は北海道、南は九州から集まっており、帰郷後は指導者として活躍した人もいる。しかし、不幸にして病に倒れ、異郷の地で亡くなった工女さんも多い。明治6年から明治34年までの間に、60人の工女さんが亡くなっている。

国の繁栄のために、故郷の親元を離れ、病により異郷のこの地で命を落とした乙女たちのこと考えると・・・・・。

あぁ~、泣けてきた。

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太田市東本町の東武鉄道・太田駅北口前に、新田義貞像がある。

新田義貞像 (1)
威風堂々とした、たたずまいの新田義貞像。昭和63年(1988年)に建立された。改築前の太田駅北口時代は、目立ないところにあったらしいが、今や駅前に鎮座状態。

ところで、もう一人は誰?? 碑文にも書いてないし。弟の脇屋義助?

新田義貞像 (2)
新田義貞像 (3)
太田駅には7、8年前に仕事できたことがあるけど、その時は工事中だった記憶がある。しかも、用事があったのが南口方面で、北口に新田義貞像があることなど、知るよしもなかった。

それにしても立派な駅になったのね。太田市の規模を考えれば、当然だけど。でも、日曜の午後にしては、人通りが少ない・・・・・。

新田義貞像 (4)
義貞像の目線に立つと、駅舎の壁がまじかに見えるだけ。もう少し、開放感があった方が、義貞も安心できるのに、なぁ~んて考えてしまった。

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太田市本町の高山神社。
江戸時代後期の勤皇思想家、高山彦九郎を祀る。

高山神社 (1)
高山神社 (5)
創建は明治6年(1873年)に、高山彦九郎生誕の地・太田市細谷町に祠が設けられたのが始まり。その後、明治12年(1879年)天神山中腹に社殿が造営され、昭和7年(1932年)現在地に遷座している。

天神山の山頂にあるため、下から石段を上っていく。石造りの鳥居は重厚感があり、明治維新の礎となった勤王思想家を祀るにふさわしい。

高山神社 (2)
高山神社 (3)
高山神社 (4)
拝殿は横に大きく、威圧感がある。透かし塀の中の本殿は、神明造りで荘厳である。とは言え、社殿周りには余計なものはなく、悪く言うと閑散というか・・・・・。

ここは、拝殿の掲額以外に、高山神社の社号標がなかったと思う。ちゃんと場所を調べて行ったので、こことは思いながらも、拝殿の掲額を見るまでは一抹の不安があった。

太田市にはちょこちょこ来てるとはいえ、太田の地理には不案内なので・・・・・。

ちなみに、太田市細谷町には、高山彦九郎記念館がある。
(「勤皇の先駆者 -高山彦九郎記念館-」参照。)

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上毛かるた紀行、第31弾!

ら
(ら) 雷と空風 義理人情

個人的に、上毛かるた紀行の最難関札と位置付けていた、「ら」。さて、どうしたもんかと思案していたのだが、こうなりました。

まずは雷。

雷電神社 (1)
雷電神社 (5)
邑楽郡板倉町の雷電神社。主な御祭神は、天地に轟き、火と水の大いなる働きをつかさどる、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)、大雷大神(おおいかづちのおおかみ)、別雷大神(わけいかづちのおおかみ)。

雷の神様の、オンパレード!

歴史は古く、推古天皇6年(598年)、聖徳太子が天の神の声を聞いて、天の神を祀ったのが最初とされている。

雷電神社 (3)
雷電神社 (4)
現在の社殿は、天保6年(1835年)の造営で、左甚五郎10代目の名人彫物師・石原常八の華麗な彫刻に装飾され、北関東のこの時代にしか見られないという特異な建築となっている。

雷電神社 (2)
雷電神社は、関東地方に数多い「雷電さま」の総本宮。

つづいて空風。

吉岡風力発電 (1)
吉岡風力発電 (2)
吉岡風力発電 (3)
北群馬郡吉岡町の吉岡自然エネルギーパーク。平成11年(1999年)に完成した、高さ41.5m、羽の直径30mの風力発電装置。

これは群馬県営で、群馬県の風が強い地域性を利用してのもの。3.0m/s以上で発電できるらしい。

吉岡風力発電 (4)
行った日は、すっごく風が強く、292.7kWもの発電だった。発電機出力が300kW仕様なので、ほぼフル発電状態。

コストパフォーマンスは優れていると思うが、風がないと発電できないという弱点が・・・。あと、けっこう音がするんだね。グォッ~、って感じ。

雷と空風に関係するところに行ってきたので、これで良しとしよう。

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高崎市石原町の山徳記念館。
前回の徳明園内にあり、山田徳蔵氏のコレクションを展示している。

山徳記念館 (1)
山徳記念館 (6)
山田徳蔵氏のコレクションの中に、近代漫画の新時代を開いた、北沢楽天の作品が多数含まれていたことから、記念館を開設することになったらしい。

山徳記念館 (4)
山徳記念館 (2)
田河水泡の「のらくろ」関係が、多数展示されていた。

山徳記念館 (5)
山徳記念館 (3)
手塚治虫、石ノ森章太郎、長谷川町子、小島功、ちばてつや、田中正雄の色紙もあった。でも、これも田河水泡へ贈っているような感じ。

北沢楽天はどこに・・・・・。

北沢楽天の資料もあったんだろうけど、オレの知ってるのらくろや、有名漫画家の方に目がいってしまったのかも・・・・・。

ちなみに、北沢楽天は現代的な意味での、「漫画」という用語の最初の使用者である。「楽天全集」は、幼少期の手塚治虫に影響を与えたことで、有名である。

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高崎市石原町の徳明園。
前回の洞窟観音と同様、山田徳蔵氏により造成される。

徳明園 (1)
徳明園 (2)
回遊式日本庭園で、そのスケールの壮大さで、北関東一の名園と称される。

徳明園 (3)
徳明園 (4)
群馬の名石三波石を主として、全国から集められた数多くの石造物や巨岩で構成され、一部には枯山水をも配している。自生の赤松に、新潟の黒松や、さつき等様々な名木を配植している。

徳明園 (6)
池の中に鶴を発見。

徳明園 (5)
先に進むと、亀に乗った釣竿を持った男性が。これは、まさしく浦島太郎!

この庭園、そんなに広くはないんだけど、色んなものがある。景色もいいし。

徳明園 (7)
正面に写っている建物は、山徳記念館。これは次回ね。

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高崎市石原町の洞窟観音。

洞窟観音 (5)
洞窟観音 (6)
新潟県柏崎市出身で、高崎で呉服店を開き財を成した、山田徳蔵氏により建設された。

昭和2年(1927年)に着工され、徳蔵氏が80歳で亡くなる昭和39年(1964年)まで続けられた。

洞窟観音 (3)
洞窟観音 (4)
洞窟観音 (1)
洞窟観音 (2)
洞窟内の400mにわたる坑道には、巨岩・名岩が連なり、それらに囲まれるように、名工・楽山が彫刻した観音像が36体安置されている。

中は冷んやりしていて、心地よかった。冬だと寒いかもね。

観音様にも、いろんな種類があるんだね。ほとんど知らなかった。いくつか紹介すると、遊戯(ゆうげ)観音、延命観音、蛤蜊(はまぐり)観音とか。

山田徳蔵氏は30歳ちょっとで観音霊場の建設を思い立ち、すべての私財と情熱を傾けて、この建設を続けたという。信仰心の厚い徳蔵氏は、財を私することを潔しとしなかったということ。

成功する人ってのは、俗人とはやっぱりなんか違うね。

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高崎市吉井町黒熊の入野碑。

入野碑 (3)
入野碑 (1)
入野碑 (4)
明治22年(1889年)町村制施行の際、多比良・黒熊・小串・石神・深沢・中島・馬庭・小暮・岩井の九村を、合併して入野村とした。入野は万葉集の歌にちなんで付けたもので、碑は合併を記念して建てられた。

入野碑 (2)
万葉集、新古今和歌集、夫木集から、計3歌が刻まれている。

実はちょっと勘違いをしていて・・・・・。入野って地名は、万葉集にも出てくる古い由緒ある地名なので、もっと歴史的な碑だと思ってた。

だって、この近くには多胡碑をはじめ、山ノ上碑、金井沢碑の上野三碑があるからさ。ところが、合併し入野村ができた記念碑だった。しかも明治に。

入野碑 (6)
ここは奥浅間山というちょっとした山で、この碑はその山頂に建ってる。登っていく山道は、非常に整備されているのだが、それでも山道は山道。

足を棒にして、やっとたどり着いたら、合併の記念碑だった。このショックは、行った人間でないと分からない。

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高崎市石原町の華蔵山清水寺。

大同3年(808年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征討の際、戦勝祈願と兵士の武運長久を願い、京都の清水寺から勧請し、開基したと伝えられている。

清水寺 (1)
清水寺 (2)
長ぁ~い石段、なんと518段を上っていく。

清水寺 (3)
やっと楼門が見えてきたころには、足はガクガク、息はゼイゼイ。汗が噴き出す。

清水寺 (4)
清水寺 (5)
観音堂内には、狩野常信筆の大絵馬があるが、残念ながら見えなかった。

清水寺 (6)
清水寺 (7)
浮世絵師・一椿斎(いっちんさい)芳輝献額十六面が、回廊を飾っている。

清水寺 (8)
清水寺 (9)
観音堂の脇には田村堂があり、ここには元治元年(1864年)の下仁田戦争で戦死した、高崎藩士の木像を祀っている。本当は坂上田村麻呂の木造がメインなんだけど。

こんなに石段が長ぁ~いとは思わなかった。最初は1段飛ばしで軽快に上って行ったのだが・・・。もう最後は、どうなるかと思った。

体力ないなぁ~・・・・・。

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藤岡市緑埜の堀越三右衛門の墓。
堀越家の墓所内にある。

堀越三右衛門 (1)
堀越三右衛門 (2)
たまたま信号で止まって、ふと目に入ったのが、お疲れの案内板(?)。「義民 堀越三右衛門の墓入口」。

ただ、堀越三右衛門って誰?状態だったので、調べてみた。

江戸時代の初めころ(徳川家綱の時代)、この辺一帯は(藤岡市と吉井町の境あたり)旗本・倉橋内匠の知行地だった。こいつがとんでもないヤツで、江戸の屋敷に住み、農民のことなどまったく考えずに、年貢は取れるだけ取るということをやっていた。

凶作が続いて農民は食べるものがないというありさまでも、年貢の取り立ては厳しさを増していった。この窮状をなんとかしようとしたのが、旧緑埜村(現、藤岡市緑埜)の名主・堀越三右衛門。

この時代、知行所に頼んでも何とかなるものではなく、最後は幕府への直訴しかない。しかし直訴は死罪である。三右衛門は直訴に成功するが、死罪となった。寛文7年(1667年)のこと。

それでも、倉橋内匠はより一層過酷な取り立てを行ったため、黒熊村(現高崎市吉井町黒熊)名主・三木市右衛門が2度目の直訴に及ぶ。残念ながら事前に露見し、8年間の投獄の末、所払いとなる。

しかし、2人の身を捨てた訴えは幕府に届き、年貢を減らす処置がとられ、倉橋内匠は追放となった。

上毛かるたに出てくる、杉木茂左衛門が有名だけど、各地に死を賭して訴えた義民がいたんだね。

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甘楽郡甘楽町小幡の松井家住宅。

松井家住宅 (1)
松井家住宅は、江戸時代名主を務めた松井家を移築・復元したもので、建築年代は江戸時代中期(18~19世紀初頭)とされている。全面茅で葺かれた屋根は、堂々とした風格を持つ。

松井家住宅 (2)
松井家住宅 (3)
松井家住宅 (4)
木造平屋建て、寄棟、茅葺、直屋形式で、当時の姿に復元して移築保存されている。座敷には床の間があるなど、上級農家の格式も備えている。

松井家住宅 (5)
天井がなく内部に厩を取り組んだ、この地方の農家建築の典型である。

甘楽町物産センター裏に移築されているんだけど、あんまり見学している人はいない。物産センターには、お客さんがいっぱいいたけど。・・・。

こういう江戸時代の農家建築を見て、地方の人々の歴史に想いを馳せてみてはいかが?

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藤岡市譲原の石器時代住居跡。

石器時代住居跡 (1)
石器時代住居跡 (2)
この住居跡は、昭和12年(1937年)旧譲原小学校の工事中に発見され、昭和23年(1948年)に国の史跡に指定されている。

出土した土器や土偶から見て、縄文時代後期から晩期初頭にかけてのものと考えられている。

石器時代住居跡 (7)
石器時代住居跡 (8)
それにしても、立派な覆屋である。中に入ると、自動で音声説明が流れる。

石器時代住居跡 (3)
炉跡は4個の結晶片岩で長方形に築かれ、55cm×44cm、深さは36cm、中には灰と少量の炭が見られる。

周りには、大きな結晶片岩や砂岩が敷き詰められている、敷石式住居。

石器時代住居跡 (6)
石器時代住居跡 (4)
年表や想像画も展示されており、勉強にもいいね。

近くを流れる神流川を東に、すぐ西には山が広がる河川段丘の地は、縄文人が生活するのに、適していたっていうことだね。

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