Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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藤岡市三ツ木の平井地区1号古墳。

平井地区1号古墳 (2)
平井地区1号古墳 (3)
直径24m、高さ3.5mの2段積みの円墳で、6世紀後半の造営と推定される。

平井地区1号古墳 (1)
平井地区1号古墳 (4)
石室は北に開口する横穴式両袖型石室で、羨道、玄室からなり、大きさは6.8mである。

前回の、皇子塚古墳のすぐ隣。隣接している。(「藤岡市・皇子塚古墳」参照)

平井地区1号古墳 (5)
埋め戻されているが、このあたりが、石室の入り口と思われる。帽子埴輪、金銅装単鳳環頭太刀、甕、高杯等が出土している。

皇子塚と南北に並び造営されていることや、副葬品の組み合わせ(鳳凰頭太刀は、龍頭太刀と一対になるもので、龍は男性、鳳凰は女性の持ち物)から、皇子塚古墳被葬者の后の墳墓と推定される。

でも、隣の古墳には皇子塚なんて、それなりの名前がついているのに、ここは平井地区1号って・・・・・。皇子塚の后と推定されるんだから(オレの推定だけど)、ちゃんとした名前を付けてあげたい。

ということで、后塚古墳にする。って、そのまんまじゃないかっ!(ちなみに塚ってのは、土を盛ったお墓って意味ね。)

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藤岡市三ツ木の皇子塚古墳。

皇子塚古墳 (1)
皇子塚古墳 (2)
直径31m、高さ6mの4段積みの円墳で、6世紀後半の造営と推定される。

皇子塚古墳 (3)
皇子塚古墳 (4)
石室の大きさは全長8.33m、前庭部を含めると12.16mにもなる。群馬県内では例の少ない、前室、玄室を持つ複室構造の石室。

埴輪や馬具、鉄鏃、単龍環頭太刀柄頭等、多数の貴重な出土品が確認されている。

ただ、石室は埋め戻されており、今は見ることができない。

現在この辺は、毛国白石丘陵公園として整備中である。そのため、石室の開放は難しいんだろうな。公園ということで人がたくさん集まれば、良からぬことをする人も出てくるかもしれないからね。

保存するには、埋め戻して見せないが1番いいんだろうけど・・・・・。ちょっと残念。

皇子塚古墳 (5)
手前が皇子塚古墳で、向こう側(奥側)が平井地区1号古墳。

次は、平井地区1号古墳だよ。

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富岡市上高尾の祝融山神泉院長学寺。

長学寺 (7)
長学寺 (2)
弓削道鏡が勅命により戒壇院建立を図り、関東諸国を巡ったときに、ここに薬師如来を請じた、という記録があるらしい。

承和2年(835年)山城国(京都府)真済が、勅命により関東諸国に一切経を納めた際、上野国については貫前神社宮司に適地を選定させ、そのとき当地にお堂を建てたと伝えられている。

長学寺 (1)
長学寺 (4)
急な石段を上っていくと、ちょっと変わった山門がある。横から見ると、釣鐘があり、楼門だった。

長学寺 (6)
元和2年(1616)に、前田利孝が七日市藩主になると、歴代の菩提寺とした。

長学寺 (3)
長学寺 (5)
境内には、歴代七日市藩主・前田家の墓碑である五輪塔がある。2代・利意(としもと)、3代・利広(としひろ)、5代・利英(としふさ)、6代・利理(としただ)、10代・利和(としよし)が眠っている。

しかし殿様の名前、読み方が難しいね。

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富岡市七日市の蛇宮神社。
七日市陣屋跡(富岡高校)の南側。

蛇宮神社 (3)
蛇宮神社 (2)
蛇宮神社 (4)
創建はよく分かってないが、平安時代の上野国神名帳に、甘楽郡(当時)32社の中で、従五位上の格式をもつ於神明神と記されている。なので、創建時代は平安時代以前と推定される。

江戸時代に入ると七日市藩主・前田家の崇敬社となった。場所が藩邸と隣接していたから?

蛇宮神社 (1)
蛇宮神社
木々に囲まれていて、いい雰囲気である。

春は4月15日、秋は10月第4日曜が例大祭らしい。春の大祭には、境内に農・蚕具を中心とした多くの露店が並んで賑わう。(甘楽の3大露店市と言われているらしい。)

蛇宮神社 (5)
秋の大祭では、蛇宮神社太々神楽保存会の人々によって神楽が奉納されるとか。

社殿の規模に対して、広い境内だなぁ~ってのが印象。まあ、例大祭の時露店がたくさん出るみたいなので、これでもいっぱいになっちゃうってことかな。

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上毛かるた紀行、第33弾!

ぬ
(ぬ) 沼田城下の 塩原太助

利根郡新治村(現みなかみ町)の出身で、宝暦11年(1761年)江戸に出て、炭屋山口屋で奉公。勤勉な働きぶりで蓄財に励む。後に独立し、本所相生町に店を出し大繁盛、ついには幕府のお金御用を務めるまでになった。

塩原太助 (9)
塩原太助 (3)
みなかみ町(旧新治村)新巻に塩原太助翁記念公園がある。

塩原太助 (6)
塩原太助 (2)
江戸に出て身を興したい、という申し出を父親に許されず、ある朝草刈りに行くふりをして、愛馬「あお」を引いて家を出る。まあ、今で言う家出である。

塩原太助 (7)
塩原太助 分かれの松
香才ケ原で、あおを松の木につないで別れた。これが上毛かるたの絵札。いや~っ、本当のところ塩原太助のことなんて知らなくて、絵札の意味ももちろん知らなかったんだよね。

塩原太助 (8)
記念公園から数10mの所に、太助の生家がある。まだご子孫がお住まいのようだ。

富豪になってからも謙虚な気持ちで清潔な生活を送り、私財を投じて道路改修や治水事業などを行った。群馬県内にも、太助が寄進したというものが、けっこうある。オレが知ってるのは、榛名神社の石玉垣と榛名湖への道沿いの常夜灯や灯篭。

戦前には立志伝型人物として教科書に載っていたのも、うなずけるところだ。

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上毛かるた紀行、第32弾!

て
(て) 天下の義人 茂左衛門

茂左衛門地蔵 (1)
茂左衛門地蔵 (2)
利根郡みなかみ町月夜野(旧月夜野町)の茂左衛門地蔵尊。

茂左衛門地蔵 (6)
茂左衛門地蔵 (3)
杉木茂左衛門は、沼田城主・真田伊賀守信利の圧政に苦しんでいた、利根・吾妻・勢多の177村領民のため、一命をかけ将軍(徳川綱吉)への直訴を決行。天和元年(1681年)のこと。

見事直訴は成功し、沼田真田家は改易となったが、茂左衛門は天和2年(1682年)11月5日、磔の刑に処せられた。

領民はその死をいたみ、刑場跡に地蔵尊を建て、供養を続けてきた。大正11年(1922年)各地からの浄財により、茂左衛門を祀る千日堂が建立された。

茂左衛門資料館 (1)
千日堂の隣に資料館(?)があり、30数枚の絵で流れをうまく説明している。まあ、紙芝居のようなもんだね。

茂左衛門資料館 (8)
真田信利は無理な検地により、もともと3万石程度の領地を、14万4000石とした。そのため領民は5倍の増税となった。8公2民くらいだったらしい。

茂左衛門資料館 (6)
領民の生活は困窮を極めていたが、信利は華美贅沢三昧。

茂左衛門資料館 (5)
年貢未納者には容赦のない拷問。これは水責め。

だいぶ端折るけど・・・・・。

茂左衛門資料館 (3)
茂左衛門は、月夜野竹之下河原で磔の刑に。享年48歳。

絵はこのままでいいので、これにナレーションつけて映像化してくれると、非常に分かりやすいと思った。絵についている解説文が、意外と小さく見づらいので。

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富岡市七日市の七日市藩陣屋(藩邸)跡。
県立富岡高校内にある。

七日市藩邸跡 (2)
七日市藩邸跡 (3)
七日市藩邸跡 (5)
七日市藩陣屋は元和2年(1616年)、藩祖・前田利孝によって築かれる。前田利孝は、有名な前田利家の5男である。

陣屋は約100m四方で東側と北側には水堀、西側と南側は空堀を廻らし、高さ1.8mほどの土塁の上に1.5mの塀を築いていたといわれている。敷地内には藩主の居館や藩行政施設、家臣の宅邸が軒を連ね、城郭ではなく、陣屋構えの形式だった。

七日市藩邸跡 (1)
現在は天保14年(1843年)に再建された、御殿の玄関と書院の一部、中門(黒門)が移築保存されている。

七日市藩邸跡 (7)
七日市藩邸跡 (6)
庭園もきれいに整備されており、ゴミも落ちていない。生徒を含む高校関係者の、文化財への造詣の深さの表れ、と勝手に解釈。

七日市藩は1万石という小藩であり、財政的にはかなり厳しく、本家である加賀藩からの援助なくしては、成り立っていなかったようだ。

上野国唯一の外様大名で、1万石という小藩であったが、明治維新まで改易されることなく、しぶとく存続している。

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富岡市富岡の宮崎山龍光寺。

龍光寺 (5)
龍光寺 (1)
龍光寺 (2)
創建は長禄年間(1457年~1460年)、奥平氏によって開かれたのが始まりと伝えられている。

富岡製紙女工さんの墓 (2)
富岡製紙女工さんの墓 (3)
富岡製紙女工さんの墓 (4)
富岡製紙女工さんの墓 (5)
明治6年(1873年)には工女総数404人に達し、品質優良な生糸は海外でも名声を博していた。

工女さんたちは、北は北海道、南は九州から集まっており、帰郷後は指導者として活躍した人もいる。しかし、不幸にして病に倒れ、異郷の地で亡くなった工女さんも多い。明治6年から明治34年までの間に、60人の工女さんが亡くなっている。

国の繁栄のために、故郷の親元を離れ、病により異郷のこの地で命を落とした乙女たちのこと考えると・・・・・。

あぁ~、泣けてきた。

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太田市東本町の東武鉄道・太田駅北口前に、新田義貞像がある。

新田義貞像 (1)
威風堂々とした、たたずまいの新田義貞像。昭和63年(1988年)に建立された。改築前の太田駅北口時代は、目立ないところにあったらしいが、今や駅前に鎮座状態。

ところで、もう一人は誰?? 碑文にも書いてないし。弟の脇屋義助?

新田義貞像 (2)
新田義貞像 (3)
太田駅には7、8年前に仕事できたことがあるけど、その時は工事中だった記憶がある。しかも、用事があったのが南口方面で、北口に新田義貞像があることなど、知るよしもなかった。

それにしても立派な駅になったのね。太田市の規模を考えれば、当然だけど。でも、日曜の午後にしては、人通りが少ない・・・・・。

新田義貞像 (4)
義貞像の目線に立つと、駅舎の壁がまじかに見えるだけ。もう少し、開放感があった方が、義貞も安心できるのに、なぁ~んて考えてしまった。

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太田市本町の高山神社。
江戸時代後期の勤皇思想家、高山彦九郎を祀る。

高山神社 (1)
高山神社 (5)
創建は明治6年(1873年)に、高山彦九郎生誕の地・太田市細谷町に祠が設けられたのが始まり。その後、明治12年(1879年)天神山中腹に社殿が造営され、昭和7年(1932年)現在地に遷座している。

天神山の山頂にあるため、下から石段を上っていく。石造りの鳥居は重厚感があり、明治維新の礎となった勤王思想家を祀るにふさわしい。

高山神社 (2)
高山神社 (3)
高山神社 (4)
拝殿は横に大きく、威圧感がある。透かし塀の中の本殿は、神明造りで荘厳である。とは言え、社殿周りには余計なものはなく、悪く言うと閑散というか・・・・・。

ここは、拝殿の掲額以外に、高山神社の社号標がなかったと思う。ちゃんと場所を調べて行ったので、こことは思いながらも、拝殿の掲額を見るまでは一抹の不安があった。

太田市にはちょこちょこ来てるとはいえ、太田の地理には不案内なので・・・・・。

ちなみに、太田市細谷町には、高山彦九郎記念館がある。
(「勤皇の先駆者 -高山彦九郎記念館-」参照。)

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上毛かるた紀行、第31弾!

ら
(ら) 雷と空風 義理人情

個人的に、上毛かるた紀行の最難関札と位置付けていた、「ら」。さて、どうしたもんかと思案していたのだが、こうなりました。

まずは雷。

雷電神社 (1)
雷電神社 (5)
邑楽郡板倉町の雷電神社。主な御祭神は、天地に轟き、火と水の大いなる働きをつかさどる、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)、大雷大神(おおいかづちのおおかみ)、別雷大神(わけいかづちのおおかみ)。

雷の神様の、オンパレード!

歴史は古く、推古天皇6年(598年)、聖徳太子が天の神の声を聞いて、天の神を祀ったのが最初とされている。

雷電神社 (3)
雷電神社 (4)
現在の社殿は、天保6年(1835年)の造営で、左甚五郎10代目の名人彫物師・石原常八の華麗な彫刻に装飾され、北関東のこの時代にしか見られないという特異な建築となっている。

雷電神社 (2)
雷電神社は、関東地方に数多い「雷電さま」の総本宮。

つづいて空風。

吉岡風力発電 (1)
吉岡風力発電 (2)
吉岡風力発電 (3)
北群馬郡吉岡町の吉岡自然エネルギーパーク。平成11年(1999年)に完成した、高さ41.5m、羽の直径30mの風力発電装置。

これは群馬県営で、群馬県の風が強い地域性を利用してのもの。3.0m/s以上で発電できるらしい。

吉岡風力発電 (4)
行った日は、すっごく風が強く、292.7kWもの発電だった。発電機出力が300kW仕様なので、ほぼフル発電状態。

コストパフォーマンスは優れていると思うが、風がないと発電できないという弱点が・・・。あと、けっこう音がするんだね。グォッ~、って感じ。

雷と空風に関係するところに行ってきたので、これで良しとしよう。

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高崎市石原町の山徳記念館。
前回の徳明園内にあり、山田徳蔵氏のコレクションを展示している。

山徳記念館 (1)
山徳記念館 (6)
山田徳蔵氏のコレクションの中に、近代漫画の新時代を開いた、北沢楽天の作品が多数含まれていたことから、記念館を開設することになったらしい。

山徳記念館 (4)
山徳記念館 (2)
田河水泡の「のらくろ」関係が、多数展示されていた。

山徳記念館 (5)
山徳記念館 (3)
手塚治虫、石ノ森章太郎、長谷川町子、小島功、ちばてつや、田中正雄の色紙もあった。でも、これも田河水泡へ贈っているような感じ。

北沢楽天はどこに・・・・・。

北沢楽天の資料もあったんだろうけど、オレの知ってるのらくろや、有名漫画家の方に目がいってしまったのかも・・・・・。

ちなみに、北沢楽天は現代的な意味での、「漫画」という用語の最初の使用者である。「楽天全集」は、幼少期の手塚治虫に影響を与えたことで、有名である。

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高崎市石原町の徳明園。
前回の洞窟観音と同様、山田徳蔵氏により造成される。

徳明園 (1)
徳明園 (2)
回遊式日本庭園で、そのスケールの壮大さで、北関東一の名園と称される。

徳明園 (3)
徳明園 (4)
群馬の名石三波石を主として、全国から集められた数多くの石造物や巨岩で構成され、一部には枯山水をも配している。自生の赤松に、新潟の黒松や、さつき等様々な名木を配植している。

徳明園 (6)
池の中に鶴を発見。

徳明園 (5)
先に進むと、亀に乗った釣竿を持った男性が。これは、まさしく浦島太郎!

この庭園、そんなに広くはないんだけど、色んなものがある。景色もいいし。

徳明園 (7)
正面に写っている建物は、山徳記念館。これは次回ね。

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高崎市石原町の洞窟観音。

洞窟観音 (5)
洞窟観音 (6)
新潟県柏崎市出身で、高崎で呉服店を開き財を成した、山田徳蔵氏により建設された。

昭和2年(1927年)に着工され、徳蔵氏が80歳で亡くなる昭和39年(1964年)まで続けられた。

洞窟観音 (3)
洞窟観音 (4)
洞窟観音 (1)
洞窟観音 (2)
洞窟内の400mにわたる坑道には、巨岩・名岩が連なり、それらに囲まれるように、名工・楽山が彫刻した観音像が36体安置されている。

中は冷んやりしていて、心地よかった。冬だと寒いかもね。

観音様にも、いろんな種類があるんだね。ほとんど知らなかった。いくつか紹介すると、遊戯(ゆうげ)観音、延命観音、蛤蜊(はまぐり)観音とか。

山田徳蔵氏は30歳ちょっとで観音霊場の建設を思い立ち、すべての私財と情熱を傾けて、この建設を続けたという。信仰心の厚い徳蔵氏は、財を私することを潔しとしなかったということ。

成功する人ってのは、俗人とはやっぱりなんか違うね。

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高崎市吉井町黒熊の入野碑。

入野碑 (3)
入野碑 (1)
入野碑 (4)
明治22年(1889年)町村制施行の際、多比良・黒熊・小串・石神・深沢・中島・馬庭・小暮・岩井の九村を、合併して入野村とした。入野は万葉集の歌にちなんで付けたもので、碑は合併を記念して建てられた。

入野碑 (2)
万葉集、新古今和歌集、夫木集から、計3歌が刻まれている。

実はちょっと勘違いをしていて・・・・・。入野って地名は、万葉集にも出てくる古い由緒ある地名なので、もっと歴史的な碑だと思ってた。

だって、この近くには多胡碑をはじめ、山ノ上碑、金井沢碑の上野三碑があるからさ。ところが、合併し入野村ができた記念碑だった。しかも明治に。

入野碑 (6)
ここは奥浅間山というちょっとした山で、この碑はその山頂に建ってる。登っていく山道は、非常に整備されているのだが、それでも山道は山道。

足を棒にして、やっとたどり着いたら、合併の記念碑だった。このショックは、行った人間でないと分からない。

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