Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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安中市安中の洞谷山龍昌寺。

龍昌寺 (1)
龍昌寺 (4)
龍昌寺 (5)
元和2年(1616年)の創建で、正式には洞谷山角峯院龍昌寺という。ちょうど逆光で・・・。本堂には、ご本尊釈迦牟尼仏を安置している。

龍昌寺 (2)
龍昌寺 (3)
参道の両側には108の梵鐘が並んでいる。開運小槌で「過去・現在・未来」と3回たたけば、その澄んだ音が重なり合い、人々の心を洗い清めるように響きます。

とのことだったので、たたいてみた。鐘自体は小さいので、ちょっと高めの
音色。心に響いた・・・、ことにしておく。

本当は、開運小槌を有料で買って、たたくらしい。指先でたたいたって良い音しないよね。

ここは、新島襄がキリスト教の布教活動を行ったことでも、知られている。確か新島襄は、安中には3週間しかいなかったはず。その3週間の間に、地元の人に洗礼したり、布教活動したり忙しかったのね。
(「平和の使徒 新島襄」、及び「外から失礼 -安中教会-」参照。)

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高崎市上佐野町の常世神社。

常世神社 (7)
常世神社 (8)
謡曲「鉢木」で有名な、佐野源左衛門常世を祀っている。源左衛門常世の屋敷跡といわれる。また、謡曲「鉢木」は観阿弥の作といわれている。

常世神社 (1)
常世神社
本殿のように見えるが実は覆屋で、中に石の祠が納められている。

常世神社 (4)
常世神社 (2)
常世は、旅の僧(実は鎌倉幕府執権・北条時頼)に一夜の宿を頼まれた際、暖を取る薪もないことから、秘蔵する盆栽の「鉢木」を焚いてこの僧をもてなした。また、僧との話の中で、今はこんなに落ちぶれているが、れっきとした鎌倉武士で、いざ鎌倉に事があれば真っ先に駆けつけるつもりだ、と話した。

後に、鎌倉に招集がかかった時、常世は時頼から恩賞として、薪にした松、梅、桜の鉢にちなんで、上野の松井田、加賀の梅田、越中の桜井を賜ったという。

佐野源左衛門常世って、実在の人物ではないし、モデルがいたわけでもないらしいので、鉢木はフィクションなんだけど、正直者・忠義者には良いことがあるって教訓かな。

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太田市新田木崎町の宝広山大通寺。
この大通寺の境内に、新田義貞が冠を掛けたと云われる冠掛の松がある。

冠掛の松
冠掛の松2
新田義貞が生品神社で旗揚げし、鎌倉に向かい進軍中に休憩した際、この松に冠を掛けたといわれている。

当時の松は既に枯れてしまい、現在の松は江戸時代末に赤堀の旧家から奉納されたもの。

ここは生品神社から南に3kmくらいしか離れておらず、「さあ~鎌倉攻めだぁ」って気合いを入れて進軍を始めて、3kmで「よぉ~し休憩」って早すぎ?進軍経路も西進説の方が、信憑性高いと思うし。

大通寺 山門
大通寺 (6)
大通寺の山門。新田義貞公何とか跡とあるが、オレには読めない。下に行くほど字が小さくなる、小学生の書初めみたいで(怒らないでね)。

仁王像 (1)
仁王像 (2)
大通寺 本堂
山門には立派な2体の仁王像が。本堂は最近再建されたようで、真新しい。

大通寺境内には、木崎町幼稚園がある。園児は新田義貞伝説に触れながら(知らないと思うが)、健やかに育っていくんだろうね。

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太田市新田反町町の矢止めの松。

矢止めの松
矢止めの松2
新田義貞が生品神社で旗揚げした際、南方に戦の吉凶を占う鏑矢を放った。その矢が当たったと云われているのが、この松。

生品神社から南に約2km。矢が2kmも飛んだということになる?

矢止めの松3
矢止めの松4
まあ、矢が本当にここまで飛んできた、ということはないだろうから、伝説の一種。松は当然、当時のものではなく、後に植え替えられている。

以前紹介した「駒つなぎの松」も、進軍経路とは違うとの説もあり、同様の伝説。
(「新田義貞 駒つなぎの松」参照。)

次回、また松がらみの伝説を紹介するよ。

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太田市新田金井町の大田市新田庁舎。元の新田町役場。
ここに新田義貞像がある。

新田義貞像 (1)
オレの義貞イメージとは、ちょっと違うけど立派な銅像。オレは上毛かるた(上毛かるたの絵札)のイメージしかないので。持ってる太刀が、なんとなく青竜刀っぽく見えるけど・・・。

像の後ろを見たら、どうも一般の方が定年を迎えたので、寄贈したようなことが書いてあった。人生の節目に、地元に恩返しって感じで、すばらしいことだよね。

新田義貞肖像画
これは福井県福井市の藤島神社にある肖像画。凛々しいよね。藤島神社は、新田義貞を御祭神とし、義顕(長男)、義興(次男)、義宗(三男)、脇屋義助(弟)を御配祀神とする、義貞ファンにはたまらない神社。

2円札
明治の初めには、新田義貞は2円札になってたんだよね。分かりずらいけど、右側が新田義貞で、左側は児島高徳。児島高徳は、あんまり知られてないかもしれないけど、南朝方の忠臣。

新田庁舎
一応、新田庁舎の写真も。噴水があり、オブジェもあちこちに飾ってあり、意外とモダン。でもポリシーがよく見えない、とも思ったけど。

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太田市新田上江田町の江田館跡。

江田館跡 (2)
江田館跡 (1)
新田義貞とともに挙兵し、鎌倉を攻めた江田行義の館跡と言われている。江田行義は、新田氏の祖・義重の四男・義季の4世と言われる。義季は徳川の祖になった例の・・・である。

江田行義は鎌倉攻め(極楽寺坂の戦)の際、大舘宗氏とともに大将をつとめ、軍功をあげた。(「今は小さな諏訪神社があるだけ -大舘氏館跡-」参照)

太平記には江田三郎光義と記載されているが、行義のことと思われる。

江田館跡 (3)
江田館跡 (4)
江田館跡 (5)
堀と土塁がある以外は、何にもないみたい。土塁上を1周する気にもならなかったので、奥の方へは行ってないが、もしかしたら何かあったかも。

復元図を見ると、相当立派な館である。戦国時代には、金山城の出城として使われていたくらいだからね。

江田行義の最期はよく分かってないが、新田義貞同様、二度と新田荘に戻ることはなかった。江田氏は室町時代、備後国(広島県東部)に落ち延び、足利の目を逃れていたという。そして、室町幕府滅亡後の文禄年間(1592年~1596年)に、10代目がようやく新田荘に帰参したという。

雌伏250年!ってところかな。

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藤岡市高山の高山社跡。
国の史跡に指定されている。

高山社 (2)
高山社 (1)
高山社とは、高山長五郎が明治17年(1884年)に設立した養蚕改良組織である。(それ以前に、高山組を興していた)

明治時代、生糸は日本の重要な輸出品で、全国的に養蚕が盛んに行われていた。しかし、自然飼育では病気で死んでしまうことが多く、安定した生糸の生産ができなかった。

長五郎は、蚕室の温度・湿度管理に着目した飼育方法「静温育」を確立し、その指導や普及に尽くした。

高山社 (3)
高山社 (4)
長五郎の活動の拠点であった生家は、最近までご子孫が住まわれていたが、平成21年(2009年)に国の史跡に指定され、ご家族も翌年に移転したため、現在は藤岡市が買い取り管理を行っている。

高山社 (5)
群馬県では「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界遺産として登録すべく準備を進めており、その対象の一つに「高山社発祥の地」が挙げられているらしい。

高山長五郎 功徳碑
生家から5、6kmのところにある諏訪神社境内に、高山長五郎功徳碑がある。

長五郎が養蚕を頑張った理由を読むと、けっこう泣けてくるんだよね。農業関係の近代化って大変だったということがよく分かるよ。

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館林市と邑楽町にまたがる多々良沼。

沼じたいは館林市にあるが、多々良沼公園は邑楽町にある。冬になると白鳥が飛来することで、有名である。

多々良沼 (1)
多々良沼 (4)
多々良沼 (2)
いろいろ寄り道して行ったら、着いたのがもう16:00近くて、そそくさ写真だけ撮ってきた、という感じ。

夕方だったけど、白鳥を驚かせないようにフラッシュなしで撮ったら、逆に絶妙(微妙?)な色合いになった。

白鳥を撮っている人がいっぱいいて、驚いた。みんな三脚立てて、本格的。望遠レンズもすごいし。オレみたいに、小さなデジカメで写真撮ってるのって、いなかったなぁ~。

一応、鳥インフルエンザの心配もあったので、きちんと手洗いをしてから帰ってきたぞ。

館林・邑楽はちょっと遠いので、そう何回も行けないけど、機会があったら、浮島弁財天見物とか公園の散策とか、のんびりして来たい。

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安中市松井田町の五料の茶屋本陣。

茶屋本陣は、江戸時代に参勤交代などで、中山道を通行する大名やお公家さんらが、休憩したところ。宿泊用ではなく、休憩や昼食、あるいは碓氷関所の時間待ちなどに利用された。

西と東の2棟からなり、「お西」「お東」と呼ばれている。もともと2軒の家(別のお宅)である。

五料茶屋本陣 お西 (1)
五料茶屋本陣 お西 (9)
五料茶屋本陣 お西 (8)
これは「お西」。文化3年(1806年)の建築で、明治天皇の北陸東海ご巡幸の際には、ご小休所として使われた。

五料茶屋本陣 お西 (6)
妙義山を借景とする、ちょっとした庭があるんだけど、おばさん連中が縁側に居座っちゃって・・・。妙義が撮れず。

五料茶屋本陣 お西 (3)
ちょうどひな人形展をやっていて、3間を使って展示されていた。

五料茶屋本陣 お東 (5)
五料茶屋本陣 お東 (1)
五料茶屋本陣 お東 (2)
こっちは「お東」。「お西」と同様、文化3年(1806年)の建築。

五料茶屋本陣 お東 (3)
書院造りの上段の間。大名やお公家さんが休憩したところ。

五料茶屋本陣 お東 (4)
入り口わきに風呂場の表示が。下から蒸気で蒸す、蒸し風呂?。

この2家とも、松井田城主の家臣の末裔で、慶長6年(1601年)頃には、既に名主を勤めていたらしい。以降、明治5年(1872年)まで、1年交代で名主を勤めたという名家である。

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安中市郷原の江月山海雲寺。
招き猫の寺として有名。

海雲寺 (1)
山門前に、いきなり招き猫がいる。

海雲寺 (7)
彦根城主の井伊直孝が、武蔵野に狩りに出て大雷雨にあった時、一匹の猫が現れ片手を上げ招き、茅屋に案内してくれ雨がしのげた、というのが招福観音・豪徳寺(東京)の由来。

海雲寺の住職がその分身を勧請、全国でも数少ない招き猫の寺だとか。

海雲寺 (3)
海雲寺 (4)
海雲寺 (5)
その名の通り、福を招く招福堂。両脇に招き猫が鎮座している。

海雲寺 (6)
小さくてよく見ずらいが、祭壇に白い招き猫が奉られている。

思っていたわりに、全体的に地味。お寺だから、キャピキャピって訳にはいかないんだろうけど。(表現が古い!)招き猫の表情が、いまいち暗いよね。本当に福が来るのかよ、って思ってしまった。

ちなみに、ここで引いたおみくじは、「吉」だった。微妙~。

一般的に、大吉、中吉、小吉、吉、末吉、凶、大凶だと思うので、吉は真ん中。

でも調べたら、大吉、中吉、小吉、吉、半吉、末吉、末小吉、凶、小凶、半凶、末凶、大凶だそうだ。

これだと、「吉」ってけっこう良い方だ。喜んでおこう。

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太田市新田大根町の矢太神水源(やだいじんすいげん)。

矢太神水源
矢太神水源2
矢太神水源3
利根川に注いでいる石田川の源だそうで、水量は豊富で水が砂を噴き上げる「自噴現象」が見られる。石田川流域には、縄文時代から中世にかけての遺跡が数多く残っており、この地域に早くから文化が栄えていたことを物語っている。

ここは、国指定史跡「新田荘遺跡」の一部。

矢太神水源4
石田川の周辺には、江田、田中、小角などの郷があり、新田荘の開発に石田川の水が利用されたこと示しているってさ。

子供が落ちないための配慮なのか、あんまり水源には近づけないが、見た目にもきれいだった(ような気がする)。

矢太神水源5
ホタルの里公園として整備されていて、のんびりすることができる。ホタルの里って言うくらいだから、夏にはホタルが見られるのかな?

すぐ南側にも池のある公園があって(なんとか寺跡ってあったと思う)、散歩にもいいね。

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太田市岩松町の岩松尚純夫妻の墓。
今は尚純萩公園として整備されている。

岩松尚純の墓 (7)
岩松尚純の墓 (6)
岩松尚純の墓 (3)
正面には墓碑があり、その左側に五輪塔が建っている。岩松尚純は、このブログで最近よく出てくる、岩松氏の総領。時代的には1500年ころの人。

岩松氏は、新田氏本宗家没落後、新田氏にとって代わったが、尚純の時代になると家臣・横瀬氏(後の由良氏)の台頭を抑えられず、追われるように隠居している。

岩松尚純の墓 (4)
尚純は隠居した後、青蓮寺で連歌の道に励んだという。そのためか歌碑のようなものもある。号は静喜庵。

岩松尚純の墓 (1)
ところでこの墓所は、萩公園と名が付いているくらいだから、尚純と萩には何か関係があるんだろうか?それとも、この辺は萩の群生地?

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太田市岩松町の義国神社。

義国神社 (1)
義国神社 (3)
義国神社 (4)
源義国を御祭神とする義国神社。

義国は、八幡太郎義家の三男で、新田氏の祖・新田義重、足利市の祖・足利義康の父である。(義家の四男との説もある。)

義国神社は、青蓮寺(岩松館跡)から約200mのところにある。畑の中にポツンとあるので(周りに何もない)、その場所はすぐに分かる。ただ、歩いていくには畑の中を突っ切るわけにもいかず、回り道をしないといけないので、5分くらいかかる。

義国神社 (5)
義国神社 (2)
社の裏には、義国夫妻の供養塔といわれる五輪塔があり、その没年(久寿2年:1155年)が記されている。義国夫妻の墓所ともいわれている。

義国は、まず足利に地盤を張り、そこを次男・義康に譲り、長男・義重とともに新田荘を開拓、晩年は岩松館(青蓮寺)に居住していたと考えられている。新田の地で死去したといわれているので、あながちここが墓所でもおかしくない気がする。

でも、正式な墓所があるのは、足利市の鑁阿寺(ばんなじ)だという。そこは、足利義康の館跡。

後に、足利氏と新田氏の立場には大きな差がついたため、足利氏が義国の墓所を鑁阿寺に後から造った、といったところかな?

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太田市岩松町の岩松山青蓮寺(しょうれんじ)。

青蓮寺 山門
青蓮寺 本堂
青蓮寺は岩松山義国院といい、新田・足利両氏の祖・源義国の開基とされている。義国は、あの有名な八幡太郎義家(源義家)の三男。(四男との説もある。)

岩松館跡 解説
ここは義国の館跡と推定され、境内からは堅固な掘立柱跡等の遺構が、数多く出土している。義国の他、義重やその嫡男・義兼らが住んでいたと推定されている。

後にこの館は、岩松時兼に譲られている。岩松時兼は、義重の嫡男・義兼の娘の子という関係。

仁王像 (1)
仁王像 (2)
山門には立派な2体の仁王像がある。特に解説板もなかったので、いつの時代のものなのか、謂れは何かあるのか等、分からず。運慶作との説もあるようだが・・・。

室町時代後期には、金山城主だった岩松尚純が隠居後に、この青蓮寺で連歌の道に励んだとか。

いやぁ~、前回岩松氏の勉強しておいて良かったよ。今回の人物のつながりが、それなりに理解できた。(「新田岩松氏の勉強です -岩松八幡宮-」参照。)

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太田市岩松町の岩松八幡宮。

岩松八幡宮 (1)
岩松八幡宮 (3)
岩松八幡宮 (4)
新田氏の祖・新田義重が、京都の石清水八幡宮に参拝した際、松の実を持ち帰ってこの地に蒔いたところ、松の木が生えたので、岩松と地名を改めて八幡宮を建てたと言われている。創建は、1170年ころと推定される。

生品神社、笠懸の赤城神社とともに、新田三社と呼ばれる。

岩松八幡宮 (2)
南北朝以降、新田氏の実権が新田本宗家から、傍流の岩松氏に移ったことから、ここを「新田総鎮守」と称するようになった。

岩松氏に関しては、色んな資料を見たのだが、見れば見るほど混乱して・・・。結局は(多分)、足利氏の祖・足利義康の子・義純を祖とする源氏の家系ってこと。でも、義純は新田義重に養育されたという。義重は、新田荘に来る前は足利にいたから、その頃の話し??

もうちょっと付き合って。
で、義純は義重の子・義兼の娘を娶るが、後に畠山重忠の未亡人を娶ったので、前妻(義兼の娘)の子(岩松時兼)は新田方に残った。ということで、父方(義純)は足利氏、母方(新田義兼の娘)は新田氏という関係。

南北朝以降、新田本宗家の没落後、足利氏、新田氏両家との関係をうまく、使い、新田氏の総領職を奪い新田荘を中心に栄えたとか。

戦国時代には、重臣・横瀬氏(後の由良氏)に下剋上され没落した。横瀬氏も新田義貞の子孫と称している。義貞三男・義宗の三男・貞氏の家系。貞氏が横瀬氏に婿入りした、ということみたいだけど・・・。

ちなみに、明治維新後に男爵の爵位を与えられた新田氏は、この岩松氏の末裔・岩松俊純である。

ふぅ~、疲れた。
岩松八幡宮の紀行記のはずが、オレの勉強ページになってしまった。申し訳ないです・・・。(間違いもあるかも。)

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