上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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安中市中宿の清水山蓮華寺。

蓮華寺 (1)
蓮華寺 (2)
蓮華寺 (3)
蓮華寺は寛喜3年(1231年)栄朝禅師が開山と伝わる。凍りついた池の中から、蓮の花が氷を破りせり上がってきたことから、蓮華寺と称するようになったといわれている。

栄朝は永万元年(1165年)上野国那波郡に生まれ、京都建仁寺の栄西に学んで臨済宗を修め、新田義季に招かれて世良田に長楽寺を開いている。新田義季って言えば、徳川氏の祖ってことになってる(笑)。

蓮華寺 (4)
蓮華寺 (5)
開山堂には栄朝禅師の木像が安置されている。高さ108cm、座高70.6cmの寄木造りで、袈裟には金箔や絵の具が残り、目には玉眼をはめ込んでいる。鎌倉時代末期から室町時代ころの特徴を有している。

栄朝禅師の像は長楽寺の開山堂にも安置されている。
(長楽寺は「太田市世良田町・世良田山長楽寺」参照)

蓮華寺 (6)
蓮華寺から柳瀬川を渡ったところに、牛石と呼ばれる大石がある。これは栄朝禅師がこの場所に着いたときに、一緒に旅をしてきた牛が動かなくなり、そのまま石に化したという伝説がある。

ただ、参考にした安中市の観光パンフでは、草に埋もれているとあったんだけど、ちょっとイメージが違う。けっこう歩きまわって探したんだけど、それっぽいのは写真の石のみ。

もしかして違っていたら申し訳ないです。


高崎市下豊岡町の忠霊塔と忠魂碑。
常安寺の駐車場になっている空地(?)に忠霊塔と忠魂碑が建っている。

忠霊塔や忠魂碑は各地に建っており、戦地に散った英霊を弔っている。日頃はあんまり気に留めて見たことはないんだけど、忠魂碑に「稀典」って書いてあったので、もしや「乃木大将?」と思い確認してみた。

豊岡忠魂碑
調べてみると、確かに乃木稀典大将の揮毫であった。明治40年(1907年)豊岡尋常高等小学校の校庭に建てられたもの。昭和21年(1946年)学校内の忠魂碑などは撤去せよとの指示が出され、校庭に埋められたという。(いつ現在地に移ったかは不明)

豊岡忠霊塔 (1)
豊岡忠霊塔 (2)
隣の忠霊塔も見てみたら、揮毫が東条英機! 写真では分かりづらいが、「陸軍〇〇 東条英機 謹書」とある。〇〇が大臣なのか大将なのかは判別できず。昭和17年(1942年)に建てられている。

プレート上にまだらな異物が付いているので、戦後しばらく(と言うか最近まで?)名前を隠すように表面を何かで覆っていたようである。

群馬県内の忠魂碑の揮毫は乃木大将の他、大山巌元帥、児玉源太郎大将など、名だたるメンバー。忠霊塔は、約半数が東条英機の揮毫だという。

揮毫者に対していろいろ意見もあるかもしれないけど、大事なのは戦没者への畏敬の念だから。誤解のないように。

今度から、忠霊塔や忠魂碑も注意して見るようにする。


前回に引き続き、高崎市下豊岡町の八幡山月光院常安寺。

柳川政右衛門の墓 (1)
柳川政右衛門の墓 (2)
常安寺にある稲川政右衛門の墓。

稲川政右衛門は、明治時代に関脇まで出世した相撲取り。本名は吉井貞四郎といい、明治4年(1871年)旧豊岡村の生まれ。

初土俵は明治21年(1888年)16歳の時で、四股名は「豊岡」。明治32年(1899年)には稲川政右衛門を襲名し、現役と親方の二枚鑑札となっている。その後、明治42年(1909年)に現役を引退。大正5年(1916年)に脳溢血のため死去。享年46歳。

稲川は身長167cm、体重110kg。今の相撲取りと比べると小兵だが、当時の平均は170cm、100kg程度だったらしいので、まあ平均クラス。

群馬県出身の相撲取りの最高位は関脇なので、出世頭である。(他は、栃赤城と琴錦)


高崎市下豊岡町の八幡山月光院常安寺。

常安寺 (1)
常安寺は元亀元年(1570年)禰津政直の創建。政直は出家後、松鷂軒常安と称しており、法名は月光院殿心源常安居士。そのため、月光院常安寺と名付けられたと思われる。

禰津氏は長野県東部を拠点とした滋野三家のひとつで、政直は武田家に従っていたが、滅亡後は徳川家康に仕え、天正18年(1590年)の家康関東入府に伴い豊岡の地を与えられている。(政直は徳川氏臣従後、禰津から根津に改めている)

政直の甥・信政は慶長7年(1602年)に5000石加増され(計1万石)、豊岡藩を立藩している。

常安寺一帯は根津氏(豊岡藩)の陣屋跡である。

常安寺 (2)
常安寺 (3)
常安寺 (4)
明治26年(1893年)の火災により、山門を残して本堂などすべてが焼失してしまったが、大正11年(1922年)に再建されている。現在の本堂は、平成19年(2007年)の新築である。

常安寺 (5)
墓地には政直の墓がある。

豊岡藩は信政の後、政次、信直と続いたが、信直が嗣子なく没したため、寛永3年(1626年)には廃藩となっている。

豊岡藩なんていうのがあったなんて、まったく知らなかった。


高崎市下豊岡町の若宮八幡宮。

若宮八幡宮 (1)
若宮八幡宮 (2)
永承6年(1051年)源頼義・義家父子の建立。前九年の役のおり、奥州・安倍氏の鎮圧に向かう途上、源頼義・義家父子はこの地に仮陣屋を設けてしばらく逗留し、軍勢を集めるとともに戦勝を祈願するため、若宮八幡宮を建立した。

若宮八幡宮 (3)
鎌倉時代には、里見義俊(里見氏の租)の3男・豊岡三郎の崇拝を受けたという。

若宮八幡宮 (4)
若宮八幡宮 (5)
江戸時代の寛文2年(1662年)に、江戸幕府代官・諸星惣左衛門が社殿を大修築している。

若宮八幡宮 (6)
明治期には乃木稀典大将も参拝に訪れている。

八幡宮といえば御祭神は誉田別命(応神天皇)なんだけど、ここは何故か大鷦鷯尊(仁徳天皇)。一部には、応神・仁徳同一人物説もあるけど、日本書紀では父子の関係。

若君を祀ったので「若宮」かな?


藤岡市中の寶幢山光明寺。

藤岡・光明寺 (1)
延文4年(1359年)僧・浄義の開山。天正10年(1582年)兵火で伽藍はすべて焼失し、慶長13年(1608年)現在地へ移建したという。

この山門は、関東管領・山内上杉氏の居城であった平井城から移築したものだという。
(「関東管領 山内上杉氏の居城・平井城址」参照)

藤岡・光明寺 (2)
山門の屋根には見事な鯱が。

藤岡・光明寺 (3)
藤岡・光明寺 (4)
本堂は文政11年(1828年)に焼失、天保6年(1835年)に再建。現在の本堂は昭和59年(1984年)新築建立。入母屋瓦葦、コンクリート造り。

平井城は天文21年(1552年)に小田原の北条氏康に攻められ落城。関東管領・上杉憲政は越後に亡命。永禄3年(1560年)長尾景虎(上杉謙信)により奪回されたが、同年に廃城となっている。

この時、光明寺に山門が移築されたのかな? でも、このお寺と上杉氏との関係は不明。


前橋市西大室町の荒砥富士山古墳。

荒砥富士山古墳 (1)
荒砥富士山古墳 (2)
荒砥富士山古墳 (3)
荒砥富士山古墳直径36m、高さ4mほどの円墳で、7世紀末ごろの築造。4段に築かれており、周囲には幅5mから6m、深さ0.5mの堀が確認されている。 この堀を含めた直径は46mとなり、古墳時代末期としては大型の古墳である。各段の斜面の部分には石がふかれていると言うが、季節がら草木でよく分からず。

石室は横穴式で、南に入り口があり、羨道は幅1.1m、玄室は長さ3.6m、幅2.1m、長さ2.4mで安山岩が使われている。入り口の天井石は露出しているが、石室は埋め戻されている。鉄鏃や銅鋺、土師器、須恵器などが出土している。

荒砥富士山古墳 (4)
墳丘部にあった石。何か書いてあるようだが、よく分からず。何か祀ってあった残骸かも。

以前も思ったんだけど、古墳を見に行くのは冬がいいね。この時期だと草木が生い茂っていて、形もよく分からない。


前橋市粕川町深津の七ツ石雷電神社。

七ツ石雷電神社 (1)
七ツ石雷電神社 (2)
七ツ石雷電神社 (3)
七ツ石雷電神社 (4)
小さい鳥居から参道を進んでいくと、あばら家のような拝殿らしきものが見える。

七ツ石雷電神社 (5)
七ツ石雷電神社 (6)
拝殿の奥には巨石が。巨石の上に祠があり、これが雷電様かな。ご神体はこの巨石群と思われる。

七ツ石というくらいだから、巨石は7つあるのかも。季節がら草が生い茂っており、詳細はよく分からない。七つよりあったような気もする。

七ツ石雷電神社 (7)
七ツ石雷電神社 (8)
ここは七ツ石祭祀遺跡という名もあり、もともとは巨石信仰・祭祀の場であり、後に雷電様を祀り雷電神社と呼ぶようになったと思われる。

この巨石群は、赤城山からの岩屑なだれが集積したものと考えられ、前橋市下大屋町の産泰神社、伊勢崎市下触町の石山観音(万徳寺)も同様である。
 「前橋市上大屋町・産泰神社
 「伊勢崎市下触町・観音山万徳寺

この周辺では弥生時代~古墳前期にかけての住居址が20ヶ所以上、小古墳が100基以上見つかっており、この集落の人々の祭祀の場であったと考えられる。


前回に引き続き、前橋市苗ヶ島町の霊松山金剛寺。
(「前橋市苗ヶ島町・霊松山金剛寺」参照)
金剛寺の墓地には東宮鐡男(とうみやかねお)陸軍大佐の墓がある。

東宮大佐180ピクセル
東宮大佐は明治24年(1892年)生まれ、前橋中から陸軍士官学校に進学、大正4年(1915年)陸軍歩兵少尉に任官。大正14年(1925年)大尉に進級し、翌年独立守備隊第2大隊中隊長に就き、奉天に屯在する。昭和3年(1928年)の張作霖爆殺事件では、爆破のスイッチを押したという。

爆殺事件後、満蒙開拓移民の構想を抱き、実行に移していく。この構想は満州を日本の生命線としていた関東軍首脳の興味を捕らえた。

昭和6年(1931年)の満州事変以降に日本からの満州国への移民は本格化し、農業従事者を中心に、村落や集落などの地縁関係に重点をおいた移民団(開拓団)が日本の各地で結成された。

満州開拓移民の募集には、「王道楽土」や「五族協和」などをスローガンに喧伝したキャンペーンが大々的に行われ、多くの人々が募集に応じた。

東宮鐵男の墓 (1)
東宮鐵男の墓 (2)
東宮大佐自身は、満蒙開拓が軌道に乗ることを見ることなく、昭和12年(1937年)上海にて戦死している。左胸に被弾した東宮大佐は、もはや助からないことを自覚し、部下にノートと鉛筆を出させ、
 うれしさや 秋晴れの野に 部下と共
という辞世の句を残し絶命した。享年45歳。

満蒙移民は終戦直前のソ連の参戦で、その多くが国境地帯の取り残され、帰国には困難を極めた。帰国途中での死亡、行方不明、ソ連・シベリアの収容所へ送られたものも多かった。

このような満蒙開拓団の悲劇のため、東宮家は長らく移民関連資料を秘匿していた。しかし平成18年(2006年)NHKの求めに応じ、一部を提供している。いかなる批評をされても仕方ないとの判断だったようだ。

国策として行われた満蒙開拓移民に関しては、様々な意見があるだろう。日中戦争と結び付けたり、後の中国残留孤児問題の発端でもあり、批判的な意見も多いかもしれない。

しかし軍事的な目的もさることながら、各地農村の疲弊を目にした救済策であることも事実であり、こういう視点をもった軍人はいなかったのも事実である。

最後に、東宮大佐の葬儀は盛大を極め、後の首相・東条英機や岸信介も参列している。


前橋市苗ヶ島町の霊松山金剛寺。

金剛寺 (1)
金剛寺 (2)
開山は承安年間(1171~75年)赤城山大通庵に創建し、 山号を厳松山と称した。慶長(1596~1615年)、元和(1615~24年)の頃現在地に移っている。

創建時の大通竜跡の松を採って観音菩薩を作ったところ、その根に霊芝が生えてきてその形が尊像にな ったことから、霊松山の山号となったと伝えられる。

金剛寺 (3)
金剛寺 (4)
宝暦年間(1751~63年)に火災の為灰燼に帰したが、後に再建されている。

金剛寺には、前橋市の重文が数多くあるので、いくつか紹介する。

金剛寺 (5)
六地蔵の石幢。灯籠の形で火袋の変わりに六地蔵を刻んだ塔身を入れ、竿部に輪廻車孔を持っている。塔身部は三面を一面各々二体づつ地蔵を配し他の一面は弥陀三尊像を刻している。輪廻孔左右に銘文が刻まれている。

金剛寺 (6)
開山・円義上人の墓。

金剛寺 (7)
金剛寺 (8)
おびんづる様の石殿。中に木像ののおびんづる様が鎮座していたが、朽ちてしまい、昨年立派なおびんづる様が再建されている。おびんづる様といのは お釈迦様の十六人の弟子(十六羅漢)の一人。

金剛寺 (9)
赤城塔と呼ばれる五輪塔。だいぶ草が生い茂っていた(笑)。

金剛寺 (10)
金剛寺 (11)
本堂の欄間彫刻。写真のものが重文指定のものかは不明。

その他、双体道祖神が有名らしいが、見逃したようだ。

金剛寺墓地には、東宮鐡男(とうみやかねお)陸軍大佐の墓がある。これは次回。


前橋市鼻毛石町の赤城寺。
赤城は「あかぎ」ではなく「せきじょう」と読む。

赤城寺 (1)
赤城寺 (2)
赤城寺は戦国時代に北爪一族の菩薩寺として創建された。

赤城寺 (3)
鼻毛石出身の武将・北爪将監の供養塔。北爪氏って全く知らないけど、北爪長秀を祖先とする豪族らしい。と言っても、北爪長秀って? さらに将監も?だけど・・・。

この供養塔は享保11年(1726年)の建立で、子孫が将監没後100年に造立したもの。近年の供養塔の改修工事の際、甕の中から兜や仏像、経文、奥歯などが見つかっている。

赤城寺 (4)
赤城寺 (5)
六地蔵石幢は風化が激しく覆屋内で保存されている。鎌倉時代のものと推定されている。

赤城寺 (6)
赤城寺 (7)
種子十三仏塔と呼ばれる石塔。梵字によって十三仏が書かれている? 梵字が分からないのでなんとも・・・。

十三仏とは冥界の審理に関わる13の仏のことで、十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る役目を持つという。ちなみに、不動明王、釈迦如来、文殊観音、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩の十三仏。


前橋市総社町総社の山王廃寺跡。

山王廃寺 (1)
現在は小さな日枝神社が建っているが、ここは大正10年(1921年)に塔心礎が発見され、古い時期の寺院跡であることが分かり、地名から山王廃寺と呼ばれている。

山王廃寺 (2)
発掘調査や出土品から、飛鳥時代・白鳳期の豪壮な寺院跡で、回廊の中に西に金堂、東に塔が並ぶ伽藍配置であることが判明している。

ちなみに、白鳳は正式な年号ではなく、白雉(650~54年)の別称・美称とされる。661~83年、672~85年を表す場合もあるらしい。

山王廃寺 (3)
山王廃寺 (4)
山王廃寺 (5)
日枝神社境内に残る五重塔の塔心礎。輝石安山岩製で、柱のホゾ穴(径65cm、深さ18cm)や舎利孔(径27cm、深さ30cm)、環状の溝や十字溝が加工されている。十字溝は東西南北を示している。

山王廃寺 (6)
山王廃寺 (7)
金堂の屋根に据えられていた石製鴟尾。角閃安山岩製で、高さ1m、重量約1トン。

鴟尾は火にあうと口から水を噴き出すと信じられている、防火のまじないである。唐招提寺の金堂のものが有名。なお、鯱(しゃちほこ)は中世以降鴟尾から変化したもの。

山王廃寺 (8)
根巻石は柱の根元を装飾するもので、7つの蓮弁からなっている。五重の塔の心柱を飾っていたものと推定されている。輝石安山岩製で径は96.5cm。つまり五重塔の心柱は、径が1m近かったということ!

山王廃寺 (9)
塔の基礎をかざった根巻石と塔心礎の関係を示した復元図。

放光寺瓦
山王廃寺の塔跡の西側から出土した「放光寺」と刻まれた瓦により、山ノ上碑に記された「放光寺」は、山王廃寺であると考えられている。

山ノ上碑は「高崎市山名町・山ノ上碑」参照。


吾妻郡草津町南本町の伊勢宇橋の碑。

伊勢宇橋の碑
天保年間(1830~43年)、江戸浅草花川戸の伊勢屋宇平衛という常陸の国出身の商人が、長年の病が草津温泉での湯治で全快したことに感謝し、草津への道筋の90箇所もの沢に橋を架けた。

これに対し、草津宿が橋のたもとに「伊勢宇橋碑」を建てたという。

170年経った現在、橋と碑が全存するのは、わずか3基になっている。

草津温泉には様々な碑がある。以前、その碑巡りをした時の記事。
 草津温泉の碑
 草津温泉の碑 その2
 草津温泉の碑 その3


吾妻郡草津町南本町の泣き燈籠。
町の入り口、運動茶屋公園内にある。

泣き燈籠 (1)
泣き燈籠 (2)
万延元年(1860年)新田郡阿久津村の白石栄左衛門という人が、宿病全快の記念と草津温泉への感謝の気持ちから寄進したもの。

当時の湯治客は長期間滞在するため、湯治客の間で親交を持ち、帰郷の際、宿の女中や湯治客がこの燈籠まで見送り、別れを惜しんだことから「泣き燈籠」と呼ばれるようになった。

実は以前草津の行った時、この「泣き燈籠」がどうしても見つからなかったんだよね。道の駅・運動茶屋公園内にあるという情報は持っていたんだけど。

運動茶屋公園は国道292号を挟んで両側に広がってるんだけど、逆側しか探してなかったから。今回、草津白根山からの帰りに、ちらっと燈籠が見えたので行ってみたらあったということ。


吾妻郡中之条町入山の日本国道最高地点。

国道最高地点 (1)
国道292号を草津温泉街を抜け白根山(湯釜)を横目にさらに長野県境(渋峠)へ向かうと、「日本国道最高地点」の石碑が建っている。標高は2172mで、日本全国の国道でも最も標高が高い地点である。

国道最高地点 (2)
草津白根山の火口湖・湯釜の外壁の反対側(裏側)。

国道最高地点 (3)
崖下には高層湿原・芳ヶ平が広がる。芳ヶ平は白根山の北から横手山南東方向に広がり、標高1830mにある湿原。 芳ヶ平には約300種類の植物が自生している。荒涼とした白根山(湯釜)とは対照的に緑あふれる高原である。

国道最高地点 (4)
この辺りの国道292号線は11月下旬から冬季は豪雪のため閉鎖される。開通はだいたい4月下旬からゴールデンウイークあたり。よくニュース映像に開通式の映像と雪の回廊が映し出される(写真はWikipediaから)。

この最高地点からちょっと行った群馬-長野県境上にホテル(ヒュッテ)があり、「日本国道最高地点到達証明書」を売っているとのこと。帰って来てから知った。証明書を買うかは別にして、ホテルの外観で県境を示しているとかいうので、せっかくここまで行ったので寄って来ればよかった。ちょっと後悔・・・。

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