上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

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桐生市梅田町の梅原館跡。

梅原館址 (1)
梅原館跡は平安時代に桐生を所領した足利俊綱の家臣である桐生六郎の居館であったといわれている。室町期になり桐生国綱によって桧杓山城が築かれ、領主の居住地が城山の麓である居館に移ったことによって、この梅原館跡は下屋敷となった。

足利俊綱は藤原秀郷(俵藤太)の後裔で、源氏の足利氏ではない。(藤姓足利氏とも呼ばれる)

また、桐生氏の出自には諸説あり、「桐生市史」では桐生六郎の系譜を「前桐生氏」、桐生国綱の系譜を「後桐生氏」と呼んでいる。(オレはよく分からないので、桐生市HPに従うよ。)

梅原館址 (2)
現在は薬師堂が建っている。

梅原館址 (3)
梅原館址 (4)
現在でも西・南側の一部と北側には土塁が残され、その外側には堀跡の痕跡が認められる。

発掘調査の結果、館跡内からは多数の柱穴跡が発見され、継続的に建物があったことが明らかとなり、前桐生氏の時期である12世紀代の遺物も認められている。

堀跡の調査では、堀は14世紀~16世紀にかけて存在していたことが確認され、桧杓山城が築城された後桐生氏の時代になっても、城館として使用されていたことが裏付けられている。


桐生市境野町の瑞龍山祥雲寺。

祥雲寺 (1)
祥雲寺は慶長3年(1598年)高橋丹波守橘英元の開基。英元は丹波国から下向し由良国繁に仕え、由良氏四天王のひとりに称される活躍を見せたが、由良氏が常陸国牛久に転封になった際、この地に土着している。

由良国繁は牛久転封時に石高が1/3になったので、多くの家臣が桐生に土着せざるを得なかった。四天王と言われた家臣も例外ではなかったということ。

祥雲寺 (2)
鐘楼が山門と本堂の中間に位置している。鐘楼はだいたい参道の脇にあるのが一般的なので、この伽藍配置は珍しい。本堂に参拝するのに梵鐘の下をくぐる鐘楼門としての役割を果たしている?

祥雲寺 (3)
祥雲寺 (4)
現在の本堂は寛成元年(1789年)の再建。外観が比較的きれいなので、改修はされていると思う。

祥雲寺 (5)
本堂裏にある開基・高橋丹波守橘英元の墓。

祥雲寺 (6)
丸橋彦三郎海軍少将の碑。碑の揮毫は海軍大将・鈴木貫太郎(後の首相)。丸橋少将は当地の出身で、日露戦役の日本海海戦で信濃丸副長として敵艦来襲をいち早く報告し、海戦を勝利に導くもとをつくった功で金鵄勲章を賜っている。


桐生市東町の円戒山光性寺。

光性寺 (1)
光性寺は石原石見守正時の開基。創建年は不明だが、境内に樹齢400年を超える松の大木が存在することから、江戸時代初期には創庵されていたと推測される。

光性寺 (2)
光性寺 (3)
昭和49年(1974年)改築の本堂鉄筋コンクリート造り。

光性寺・不動明王
寺宝である不動明王尊は平安朝末期のもので、円珍という僧の作。穏やかで優雅な親しみやすい風貌の中に憤怒を見せている。(写真は桐生市のHPから)

京都で作られたものだが、下野国(栃木県)出身の妙宏師が文化14年(1817年)に動座したとの寺伝がある。

この不動明王に願をかけると宝くじが当たるという「噂」がある。TVや雑誌でも紹介されていて、光性寺は一部の宝くじファンから「宝くじの総本山」と呼ばれている。

オレも「年末ジャンボで大当たりしますよぉ~にっ!」って、祈ってきた。ただ、小銭の持ち合わせが10円しかなく、お賽銭が少なかったのかもしれない。そのせいか、年末ジャンボは惨敗だった。


2013年も、もう残すところわずかになった。

今年も色んなところに行ってきた。ざっくり数えたら162ヶ所。神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、博物館・資料館などなど。

ということで、今年も良かったところ、残念だったところを個人的偏見で発表する。

まずは、ベスト5から。
5位 山王廃寺跡(前橋市)
塔芯礎、石製鴟尾、根巻石がすばらしい!

4位 水上温泉ふれあい交流館(みなかみ町)
アントニオ猪木コレクションに元気をもらった!(ただし、企画展の評価であり、交流館の評価ではない)

3位 大隅俊平美術館(太田市)
日本刀(刀剣)の美しさに驚嘆・感激!

2位 群馬県埋蔵文化財調査センター(渋川市)
甲(よろい)を着た古墳人を見られて興奮した!(ただし、埋蔵文化財調査センター自体の評価ではない)

1位 草津白根山・湯釜(草津町)
神秘的なエメラルドグリーンの火口湖に疲れも忘れた!

つづいてワースト5。
5位 黒井峯遺跡(渋川市)
埋め戻されてただの野っ原。早く遺跡公園にしてほしい。

4位 八ッ場ダム広報センター・やんば館(長野原町)
ただのムダ。しかも八ッ場ダムが完成すると水没。さらにムダ。(現在、展示施設は道の駅「八ッ場ふるさと館」内へ移転)

3位 光徳寺(高崎市)
行った目的の旧威徳寺の内陣がよく見えず。

2位 善龍寺(桐生市)
龍門の滝がセコ過ぎ。

1位 岩宿博物館(みどり市)
興味もないのに行ったオレがバカだった・・・。

あくまで、オレの個人的な主観に基づく見解なので、そのへん誤解なきようお願いします。

ということで、来年も「上州まったり紀行」をご期待ください。


桐生市菱町の田澤山青枩林泉龍院。
山林号を有する古禅林。

泉龍院(1)
泉龍院(2)
泉龍院は応永24年(1417年)の創建で、開基は桐生出羽守。桐生出羽守が誰なのかはよく分からず。

泉龍院(3)
泉龍院(4)
上は中門のようになっている旧鐘楼堂。下が新しい鐘楼堂。

泉龍院(5)
泉龍院には薬師如来にまつわる逸話がある。薬師如来の真言により池の龍を封じ、霊力で疫病を治めたことから深く信仰され、厄除け・祈祷寺と知られている。

泉龍院(6)
本堂の前にあった厄落としくぐり門。簡単に言うと、この門を1度くぐって奥の薬壺石に触れると、お百度参りと同じ意味があるというもの。これは便利!

泉龍院(7)
四方竹。桐生市の天然記念物に指定されている純四稜形の茎を持った竹。写真では分かんないけど、実際に見ると確かに四角い。中国原産の竹らしいが、泉龍院にいつ移植されたかは不明。

明からの修行僧も来ていたことがあるらしいので、当時の僧が持参したのではないかと推察されている。

泉龍院(8)
中世にこの地を治めた細川内膳の屋敷門を移築したと伝えられる長屋門。2階建て武家造りとなっている。屋根の茅は今年葺き替えられている。細川内膳については、「細川内膳の墓 -文昌寺-」参照。

泉龍院(9)
山門手前にある下村昌伯の墓。
下村昌伯は医師で、安政5年(1858年)に当地で天然痘が流行した際、貧しい人には無料で種痘を行った名医として知られる。


桐生市菱町の瑞雲山文昌寺。

文昌寺 (1)
文昌寺 (2)
文昌寺 (3)
文昌寺は開山が鳳仙寺第八世・応山牛喚大和尚ということ以外は、開基や創建年も不明である。それは天保14年(1843年)に桐生市を襲った「荒神の大火」により一堂も残さず焼失し、古文書や記録などが残っていないため。

現在の伽藍は昭和48年(1973年)~昭和60年(1985年) にかけて建立されたもの。

文昌寺 (4)
鐘楼脇に縄文時代の物と伝えられる「石棒」がある。当然お寺ができるはるか前の時代だが、男性自身を表しているとの説もある。

文昌寺 (5)
文昌寺 (6)
地蔵堂は度重なる火災により焼失し、現在のお堂は再建されたものたが、石造りのお地蔵さんは当時の姿のままという。

文昌寺 (7)
隣接地には明治5年(1872年)に廃寺となった西善院の跡地があり、そこには西善院開基・細川内膳の墓がある。西善院跡地は文昌寺が合併管理をしている。

細川内膳と言うと一般的には細川忠興(細川ガラシャの旦那)の嫡男・忠隆(ただし廃嫡される)の孫に当たる忠孝が内膳を名乗り、その後代々の当主が内膳を名乗ったことからその家系を指す。

でも、この墓に眠る「細川内膳」とは時代が違う。調べた限りでは、足利氏から下菱村を拝領した細川氏の5代目で、天文13年(1544年)に桐生助綱に滅ぼされている。理由は所持していた名馬を「寄こせ」と言われ、「嫌だ」と言ったら合戦になったらしい。

まあ名馬の件は口実で、助綱は細川氏を滅ぼしにかかっていたというところか。ちなみに、桐生助綱は桐生氏全盛時代の当主である。


桐生市梅田町の鶴松山高園寺。

高園寺 (1)
高園寺 (2)
高園寺の創建は室町時代の応永年間(1394~1428年)。天文2年(1533年)に七堂伽藍が完成するが、その後幾度となく火災や水害に見舞われている。

山門は明治時代に倒壊してしまったが、昭和63年(1988年)再建されている。

高園寺 (3)
高園寺 (4)
本堂は昭和7年(1932年)に大改修が行われている(再建年代は分からなかった)。

高園寺 (5)
高園寺 (6)
本堂左手に小さな池があるが、「宇治川の先陣争い」で有名な名馬「池月」が育てられた池という伝承(伝説)がある。

「宇治川の戦い」は、永寿3年(1184年)の源範頼・義経軍と木曽義仲軍との間の合戦。この合戦で佐々木高綱と梶原景季が先陣を争い、矢が降りそそぐ宇治川を勇猛果敢に渡り勝利に貢献したというもの。佐々木高綱が乗っていたのが「池月」、梶原景季は「磨墨」。「池月」も「磨墨」も源頼朝から拝領している。先陣争は「池月」に乗った佐々木高綱が一歩先んじている。

ついでに、佐々木高綱と梶原景季は両者とも群馬県に多少の関係がある。佐々木高綱は兄・佐々木盛綱夫妻の墓との伝承がある五輪塔が安中市磯部の松岸寺にある。
(「伝佐々木盛綱夫妻の墓・磯明山松岸寺」参照)

梶原景季は梶原景時父子の墓との伝承がある五輪塔が前橋市富士見町の珊瑚寺にある。父(景時)子(景季・景高・景茂)を指す。
(「源頼朝の墓と梶原景時父子の墓・石井山珊瑚寺 その3」参照)

ついでに名馬の話で言うと、一ノ谷合戦(源平の戦い)などで熊谷直実とともに活躍した「権田栗毛」は旧倉渕村の産出との伝説がある。
(「伝・権田栗毛 終焉の地」参照)

さすが群馬県! 数々の伝承・伝説がある!


桐生市梅田町の梅松山渭雲寺。

渭雲寺 (1)
渭雲寺は天正元年(1573年)渡瀬繁詮(わたらせしげあき)の開基。

渡瀬繁詮は由良(横瀬)成繁の次男である。繁詮は北条氏に仕えていたが、やがて中央に上って羽柴秀吉の家臣となる。その後、秀吉の命で豊臣秀次の家老となるが、文禄4年(1595年)の秀次事件に連座し切腹させられている。

渭雲寺創建の天正元年(1573年)は、父・成繁が桐生氏を滅ぼした年なので、成繁とともに太田から桐生に移ってきたと考えられる。(太田金山城はは長兄・国繁が城主となっている。)

渭雲寺 (2)
渭雲寺 (3)
本堂は昭和47年(1972年)の再建。 なんか、お寺の本堂っぽくない、洒落た感じである。

渭雲寺 (4)
六地蔵も本堂脇の壁にはめ込まれている感じ。

渭雲寺 (5)
渭雲寺 (6)
小さいながらも手入れの行き届いた庭園の池。

由良成繁の次男が秀吉に仕え、しかも遠江国横須賀3万石の大名だったなんて、全く知らなかった。秀次事件に連座したせいか、嫡男は後を継げず農民になったという。


桐生市宮本町の大慈山光明寺。

桐生・光明寺 (1)
光明寺は天平宝字11年(739年)に行基がこの地に一宇を建立したのが始まりという。

行基が東大寺大仏造営の勧進のため桐生に来たときに、観音様が夢に現れ渡良瀬川のほとり、吾妻山景に囲まれた所聖地ありと告げたという。行基がその地を訪れると、あまりにも見事な霊地であることに大変喜び、さっそく一宇のお堂を建立した。

当時は水月庵と言い、光明寺となったのは寛永元年(1624年)。

桐生・光明寺 (2)
山門脇にはたくさんの庚申塚がある。「千庚申」と呼ばれている。とは言え、多分1000体はないと思う。200くらい?

桐生・光明寺 (3)
桐生・光明寺 (4)
現在の伽藍は、昭和44年(1969年)の竣工である。

桐生・光明寺 (5)
桐生・光明寺 (6)
観音堂には底の抜けたひしゃくがたくさん奉納されている。これは安産を祈る者が、軽く抜ける(生まれる)ようにと祈願したもの。

桐生・光明寺 (7)
光明寺は桐生七福神の第一番札所として弁財天を祀っている。桐生七福神は平成に入ってからできた新しい巡拝コース。

写真右の弁財天はなじみのある格好の石像だが、左も弁財天だという。室町時代に造立された「宝珠型仏塔」という珍しいもの。高さ86cm。

桐生・光明寺 (8)
以前行った桐生が岡遊園地がよく見えた。
(「桐生市宮本町・桐生が岡遊園地」参照)


桐生市横山町の松樹山栄昌寺。

栄昌寺 (1)
栄昌寺 (2)
栄昌寺 (3)
栄昌寺は寛永2年(1625年)天海の法弟・覚盛の創建と伝えられる。上野の寛永寺の様式にならって配されたといわれている弁天堂と、徳川家康を祀る権現堂がある。

栄昌寺 (4)
弁天堂。
弁天様の像としては、琵琶を持った二臂像がよく知られているが、ここに祀られているのは八臂像の弁天様。脇待として大黒天と毘沙門天を配し、さらに眷属として童子を15体も従えるという、ご利益満点の陣容となっている。

栄昌寺 (5)
栄昌寺 (6)
権現堂の扉両側に三つ葉葵の家紋がついている。

栄昌寺には、天海が着用したとされる燕尾帽と袈裟、徳川家康と天海が描かれた掛け軸が伝えられているらしい。

栄昌寺のHPを見ると、天海も1度は栄昌寺へ来たことがあると考えられると弱気に書いているが、それもそうだろう。日光街道が東海道に次いで整備され、桐生に寄る理由は全くないから。

ちなみに、天海来山の記録は残ってないようだ。


桐生市本町六丁目の田中山浄運寺。

浄運寺 (1)
浄運寺 (2)
浄運寺は、天文年間(1532~54年)玉念上人が広沢村後谷付近に営んだ草庵を起源とし、永禄元年(1558年)に哀愍寺を創建した。 1580年頃、広沢から渡良瀬川対岸の新宿村へ移転、寺名を浄運寺と改めている。慶長10年(1605年)現在地に移転している。

浄運寺 (3)
本堂は寛永元年(1624年)の建立。水害の被害を受け宝暦3年(1753年)に再建。六室構成の方丈系本堂である。正面一間半、両側面及び背面に一間分の広縁を回らす。

屋根は当初茅茸であり、天保6年(1835年)と明治19年(1886年)に茸替えの記録が残っている。明治期の葺き替えの際、茅葺から現在の桟瓦茸になっている。

開山の玉念上人は、天正7年(1579年)安土城下の浄厳院で行われた安土宗論(安土問答)の浄土宗側の首座である。

安土宗論(安土問答)は織田信長の命により、浄土宗の玉念、貞安などと法華宗の日珖・日諦・日淵などの間で行われ、浄土宗側が勝利している。敗れた法華宗は、今後は他宗を誹謗しないとの詫び証文を出させられた。(発端は玉念が安土城下で説法中に、法華宗から議論をふっかけられたことによる。法華宗から言えば折伏。)

安土宗論に関しては、信長の法華宗への陰謀説だとかもあるけど、その後の法華宗側の動き(特に反発せず一揆などを起こさず)をみると、陰謀説は無理がある(と思う)。

玉念上人は信長から直々に扇を賜っている。

浄運寺には安土宗論の記録が残っている。


甘楽郡甘楽町大字白倉の甘楽古代館。

甘楽古代館には2011年に1度行ったんだけど、土日・祭日が休館日だって知らなくて(行ったのは土曜日)、見学できなかったんだよね。
(「甘楽町白倉・甘楽古代館」参照)

まあ、平日にわざわざ行くこともないな、って感じだったんだけど、富岡市(甘楽町の隣)に行く用事があったことと、その後時間が空いたので寄ってみた。

甘楽古代館 (1)
甘楽古代館 (2)
木造倉庫建築を代表する東大寺の正倉院を思わせる外装(という振れ込み)。

甘楽古代館 (3)
甘楽古代館 (5)
甘楽古代館 (4)
甘楽古代館 (6)
甘楽古代館 (7)
旧石器時代(約1万年前)から鎌倉時代(約700年前)までの石器、土器や埴輪などの出土品が展示されている。

展示物もけっこう多く、それなりに見られた。

ただ、発掘した遺跡や古墳のほとんどは残ってないようだ。現在は、ゴルフ場、特養老人ホーム、福祉センター、体育館に陸上競技場などに、その姿を変えている。

まあ甘楽町に限ったことではないが、なかなか遺跡や古墳を残すのは、よほどのこと(世紀の大発見!)がないと、難しいということだね。


安中市松井田町松井田の貞枩山崇徳寺。

崇徳寺 (2)
崇徳寺は歴応3年(1340年)鎌倉・円覚寺の仏満法忻禅師招き開山とし開創。開基は足利尊氏である。天正18年(1590年)の松井田城落城の兵火に罹り、堂宇・宝物・古文書等を焼失。以降、寺勢は衰えて行ったが、畳嶂和尚が堂宇の再建などにより寺勢を回復させたことから準開山とされている。

崇徳寺 (1)
足利尊氏が開基とされる経緯は不明だが、墓域の過去碑にもしっかり記されている。

崇徳寺 (3)
崇徳寺 (4)
山門から見て右手に大きな本堂がある。建立年などは不明。

崇徳寺 (5)
山門の正面にあるのは観音堂。宝形造りで聖観音菩薩像、千手観音菩薩像などが安置されている。

崇徳寺 (6)
境内には崇徳保育園がある。遊具の奥に見えるのが本堂だが、本堂前は園児の遊び場兼グラウンドになっているようだ。行ったときは白線が引いてあった。運動会でもあったのかな?

崇徳寺 (7)
境内には古木も多く、味わいがある。


安中市松井田町松井田の小倉山本照寺。

本照寺 (1)
本照寺は安永2年(1774年)親鸞聖人の開山、僧・釈智流の開基。親鸞は平安末から鎌倉初期の人だが、江戸時代創建の本照寺の開山となっているのは次の理由による。

浄土真宗の開祖である親鸞は越後国に配流となっていたが、建暦元年(1211年)に赦免の沙汰があった。建保2年(1214年)法然を慕い上洛しようとしたが、北陸道は雪が深く信濃より鎌倉を経由し東海道をと考え、碓氷峠を越えて松井田に入った。

ここで京都の禅房でともに学んだ智明坊と偶然会い、師である法然の死を聞かされた。親鸞は泣き崩れ、血の涙を流したと伝えられる。親鸞は京都へ行くことを辞め、常陸国へ向かったという。

後の安永2年(1774年)僧・釈智流がこの地を探しあて一宇を建立。これが現在の本照寺である。親鸞がこの地を訪れてから、約500年後のことである。この経緯から親鸞が開山となっている。

本照寺 (2)
本堂や境内などは近年整備されているようだ。

この地は「親鸞聖人御心替血之辻御坊」と呼ばれる。


安中市松井田町新堀の碓氷山金剛寺。

金剛寺 (1)
金剛寺 (2)
金剛寺は長元年間(1028~36年)源頼光四天王・碓氷定光の開基と伝わる。源頼光は清和源氏の3代目で摂津源氏の祖。碓氷定光は当地の出身で荒童子と呼ばれていた。後に武将となり、御伽草子の「酒呑童子」でも知られる渡辺綱、坂田公時(金太郎)、ト部季武とともに源頼光四天王として名をはせた。

この地に戻った定光は碓氷山中で村民や往来の人を悩ませた毒蛇と対決し、大鎌をふりまわし大蛇を倒した。この時、弘法大師作の十一面観音のご加護があったことから金剛寺を開基し、本尊として祀ったという。

金剛寺 (3)
金剛寺 (4)
本堂は江戸時代に数度の火災により焼失したが、享和3年(1803年)に再建されている。

金剛寺 (5)
本堂裏にある定光の供養塔。脇に焼却炉があって、少し残念な立地。

金剛寺 (6)
碓氷石を使った立派な庭園。水も流せるようになっている。

金剛寺 (7)
たまに神社で見かける「カエル」の石像。由来はこちらを参照。
(「安中市郷原・日枝神社」)

碓氷定光が越後から上野へと向かう道中に読経をしていると「汝が読経の誠心に感じて四万の病悩を治する霊泉を授ける。我はこの山の神霊なり」とのお告げを受けた。そこで定光が周囲を調べたところ温泉を見つけた。これが四万温泉の始まりとされる。

*碓氷定光は一般的には「貞光」と記されるが、金剛寺関連では「定光」とされる。これは金剛寺の院号が「定光院」であることに起因すると思われる。そのため、本記事では「定光」とした。

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