Tigerdreamの上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

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館林市千塚町の判官塚。

千塚の判官塚 (1)
千塚の判官塚は、高さ1m程度の塚である。
塚と言われているくらいなので、小さな円墳だと思われる。

伝説では源義経が奥州に落ち延びる際、ここで休んだとされる。義経の
官位が左衛門尉だったので「判官」と呼ばれたことから「判官塚」。

千塚の判官塚 (2)
塚上には1本の松の他、「判官塚」の石塔と庚申塚、馬頭観音などがある。
松はまだ若いので、近年植え替えられているようだ。

群馬県内には、奥州に向かった義経の様々な足跡が、伝説という形で
残されている。また、義経の後を追ったという静御前や常盤御前のもの
といわれる墓もある。

関連
 「源義経が沐浴した井戸 -冠稲荷神社-
 「義経馬殿塔 -正観寺-
 「静御前のお墓? -養行寺-
 「静御前のお墓??
 「常盤御前のお墓? -極楽寺-


館林市赤生田本町の永明寺。

永明寺 (1)
永明寺は養老年間(717~24年)創建と伝わる古刹である。

永明寺 (2)
永明寺 (3)
弘化元年(1844年)、火災により堂宇を焼失。
現在の本堂は昭和53年(1978年)の再建。非常に特徴的。

永明寺 (4)
永明寺 (5)
境内にある「生祠 秋元宮」
秋元宮は安政4年(1857年)に赤生田村の住民によって建てられた
石祠。平成6年(1994年)に永明寺境内に移されている。

赤生田村は用水・排水の便が悪く、水害や旱魃の影響を受けやすい
土地だった。米の作況が悪くても年貢は一定に納めねばならないため、
住民は苦しんでいた。

弘化2年(1845年)に山形から移封されてきた秋元志朝は、この状況を
理解し、作況にあわせ年貢量を調整する施策を行った。
また、安政3年(1856年)の大洪水の時には、救助米の支給を行うなど
善政を敷いていた。
赤生田村の住民は、これらに感謝し志朝を「生き神様」として祀った。

秋元氏は江戸時代初期、総社(前橋)藩主だったが、総社での評判も
非常良い。


館林市、大泉町、板倉町、邑楽町、千代田町、明和町

足腰の神様 -子神社-
徳川家康ゆかりの寺? -普済寺-
秋元春朝像 -秋元別邸 その2-
榊原康政の守護仏・十一面観音 -遍照寺-
ペッタンコ祭 -富士嶽神社-
新田義重の勧請 -足次赤城神社-
館林市・日向義民地蔵
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大谷休泊の墓
館林市高根町・大山祇神社
原田種政の墓? -龍興寺-
永明寺のキンモクセイ -永明寺-
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志士之碑(竹岸武兵衛の顕彰碑) -神光寺-
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館林市・旧二業見番組合事務所
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榊原康政の孫・松平忠次の生母の墓 -善長寺 その2-
戸泉鋼作の墓 -大道寺 その2-
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玉眼嵌入彩色仁王像 -木崎東光寺-
元応の板碑 -舞木円福寺-
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多々良沼の岬に鎮座 -浮島弁財天-
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埋蔵文化財常設展示室 -大泉町文化むら その2-
裕福な自治体はいいね -大泉町文化むら-
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大泉町・城之内古墳
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楠木正成の首塚? -楠木神社-
向井千秋記念 子ども科学館
きつねの尾曳伝説 その2 -尾曳稲荷神社-
徳川四天王・榊原康政の墓 -善導寺-
「お辻」の供養塔 -善長寺-
館林市・山王山古墳
つつじが岡第2公園 その2 -館林城出土墓石群-
つつじが岡第2公園 -旧秋元別邸-
明治の擬洋風建造物 -旧上毛モスリン事務所-
きつねの尾曳伝説 -館林城址-
館林市第1資料館
旧館林藩の武家屋敷 -武鷹館-
白鳥の舞 -多々良沼-


館林市赤生田町の子神社。

子神社 (1)
子神社 (2)
子神社の創建は不詳。江戸期までは「子之権現様」の名称で崇められて
きた。足腰の神様として近郷近在にない御利益のある神様で、関東各地
より参拝する人が多く訪れる。

子神社 (3)
子神社 (4)
子神社 (5)
現在の社殿は明治2年(1869年)の改築。

子神社 (6)
大型の草鞋が掲げられている。金属製のようだ。

子神社 (7)
子神社 (8)
社殿を囲むようにに多くのわらじ(ステンレス製)が奉納されていた。
「足腰が良くなりますように」「膝の痛みが消えますように」など、
足腰にまつわる病などの治癒祈願がほとんど。

子之権現は子之聖人のことで、天長9年(833年)紀伊国生まれで、
7歳で出家した後、出羽国・湯殿山で修行重ね、諸国を行脚した。
生まれが子年子月子日子刻であったため、人々に子之日丸と呼ばれた。

武蔵国(現、飯能市)で悪魔に襲われ足腰に深い火傷を負い、その地に
留まり、120歳(!)の長寿を全うしたという。その死に際して、
「魔火のため腰と足を傷め悩めることあり。故に腰より下を病める者、
一心に祈らば、その験を得せしめん」
と言い遺したことから、足腰の神仏として信仰を集めることとなった。

でも、子神社のご祭神は大己貴命。子之聖人ではない。
大己貴命が「旅好きで大変な健脚の持ち主」だったので、それにあや
かって草鞋などを奉納するようになったとある。

ちなみに大己貴命は大国主命の別名であるが、大国主命が足腰の
神様であるとの説はあまり聞かない・・・。


館林市羽附町の龍洞山普済寺。

普済寺 (1)
普済寺 (2)
普済寺 (3)
普済寺は大永3年(1523年)大雲伊俊禅師の開山。

普済寺 (4)
普済寺 (5)
藁葺の中門(?)内に銅鐘が置かれている。
銅鐘は慶安2年(1649年)に地元民が栃木佐野の鋳物師に造らせ、
普済寺に寄進したもの。口径69cm、胴の高さ99cm、全長1.26m。
館林市の重文となっている。

普済寺 (6)
鐘楼にも梵鐘が吊るされている。

普済寺 (7)
普済寺 (8)
現在の本堂は平成13年(2001年)の再建。

普済寺 (9)
このしだれ桜の親木は徳川家康が手植えしたもので、親木は枯れて
しまったが、その根から別れ育ったのが、このしだれ桜だという。

なぜ徳川家康が? と思うが、普済寺5世は家康の幼友達で、しかも
長尾景虎(上杉謙信)の弟という伝承があるらしい。家康は天正9年
(1591年)には現在の板倉町の一部を寺領として普済寺に与えたと
いう。

そのためか、普済寺のご朱印には「家康ゆかりの寺」と記載されている。



館林市尾曳町の旧秋元別邸。
(「つつじか岡第2公園 -旧秋元別邸-」参照)
その庭園の一角に明治期の秋元家当主・春朝の像がある。

秋元春朝像
秋元春朝が池に向かって投網で魚を獲る姿を模った像。
別邸に足を運んだ際に、城沼で魚獲りをしたのだろうか?

幕末の弘化2年(1845年)に山形から転封となった秋元家は最後の
館林藩主である。明治維新時の館林藩主は秋元礼朝で、春朝は礼朝の
孫になる(実際は礼朝の養子・興朝の婿養子)。

春朝は明治14年(1881年)の生まれで、大名家なので子爵の位に
あった。貴族院の子爵議員に選出されている。

解説板には、「春朝は自然をこよなく愛した粹人で、村人からも親しま
れたなかなかの好人物」とあった。

ちなみに、秋元家の菩提寺は前橋市総社町の光巌寺。
(「秋元氏の菩提寺 -光巌寺-」参照)
光巌寺が管理する宝塔山古墳上に、礼朝までの歴代の墓がある。
(「秋元氏歴代の墓所 -宝塔山古墳-」参照)


館林市緑町の高鑰山遍照寺。

遍照寺 (1)
遍照寺 (2)
遍照寺は新田義重が建久9年(1198年)に矢島郷(現、明和町)に創建
したと伝わる。新田義重は新田氏の祖である。
天正18年(1590年)館林に入った榊原康政が現在地に移転し、榊原家の
祈願所として崇敬した。榊原家は姫路や越後村上に移封された後も寄進を
続けている。

遍照寺 (3)
遍照寺 (4)
寛延3年(1750年)建立の本堂には本尊である不動明王の他に、榊原
康政の守護仏だった十一面観音も祀られている。
十一面観音は寛永9年(1642年)に松平忠次(榊原康政の孫)が寄進
したもの。

遍照寺 (5)
興教大師像があり、周りは四国八十八ヶ所霊場御砂踏場となっている。
興教大師は覚鑁(かくばん)と言い、真言宗中興の祖にして新義真言宗の
始祖である。

遍照寺 (6)
遍照寺 (7)
境内には立派な聖観音像と大日如来坐像があった。

遍照寺は東上州33観音霊場の6番札所であるが、元々は末寺の観音院が
札所であった。明治時代に観音院が廃寺となり遍照寺が引き継いでいる。
その際に、康政守護仏の十一面観音が札所本尊になったようだ。


館林市富士原町の富士嶽神社。

富士嶽神社 (1)
富士嶽神社 (2)
富士嶽神社の創建は不詳だが、文禄元年(1592年)榊原康政により
再建、後の領主らも修復・営繕を行い、広く住民の崇敬を集めて来た。

富士嶽神社 (3)
参道を進むと割拝殿のようなものがある。「絵馬殿」とあったが、内部
には1枚の絵馬があっただけだった。

富士嶽神社 (4)
社殿は小桑原古墳群のひとつ富士嶽神社古墳(前方後円墳)上にある。
45段の石段を登ることを富士山登山に見立て、社殿に拝礼することで
そのご利益が得られるという。

富士嶽神社 (5)
富士嶽神社 (6)
本殿の全景は撮影できなかったが、素晴らしい彫刻が施されている。
昭和48年(1973年)に修復されている。

富士嶽神社 (7)
富士嶽神社の初山祭に幼児の成長を祈願して額に御神印を押す
行事は、独特の神事として永く伝承されている。
御神印を押すことから「ペッタンコ祭」と呼ばれている。
(写真は「両毛広域都市圏総合整備推進協議会」のHPから拝借)


富岡市、甘楽町、下仁田町、南牧村

織田の御馳走門 -長岡家の薬医門と四脚門-
那須与一所縁のお社 -与一八幡社-
甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-
甘楽町で2番目に古い板碑 -建長の板碑-
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上野蔵屋敷跡 -吉田家の土塁・濠跡-
天引石の阿弥陀三尊 -今宮寺-
庭木盆栽式アカマツ -鍛冶屋沢の松-
甘楽町天引・向陽寺
奉行ザクラ -天引諏訪神社-
文永5年銘の小幡型板碑 -甘楽町・宝勝寺-
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万葉集東歌の歌碑 -丹生神社-
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建治銘の石造地蔵菩薩像 -額部神社-
元応2年・貞治2年銘の板碑 -富岡市・西方寺-
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稲部市五郎種昌の墓 -富岡市・金剛院-
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千鳥破風の鬼面彫刻 -富岡市妙義町・菅原神社-
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いろいろな碑が建っている -貫前神社前公園-
ゆかりは古し貫前神社 再訪
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彦狭島王の墳墓? その3 -天王塚古墳-
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甘楽町・天引の笠塔婆と板碑
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伝・庭屋氏累代の墓 -甘楽町・庭谷の五輪塔-
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富岡市上高瀬の薬師堂
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富岡市・堂山稲荷古墳
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昭和初期の近代和風建築 -富岡市社会教育館-
甘楽古代館再訪
本殿の修理が完了しました -妙義神社 その2-
荒船・妙義山系山岳信仰 -黒瀧山不動寺-
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富岡製紙工女の墓 その2 -海源寺-
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下仁田戦争の碑 -義烈千秋の碑 & 維新之礎碑-
驚き!の空堀 -麻場城址-
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小野小町所縁の薬師様 -小野の塩薬師-
ナニコレ珍百景に登場 -夫婦岩-
地方商人の家宝(?) -岡部温故館-
「おのれの滝」の水源 -曽木神社-
昭憲皇后(明治天皇妃)の歌碑とおのれの滝
お菊の墓が旧妙義町にもあった
前田利家側室・明運尼の墓 -永心寺-
上野国十二之宮 -宇芸神社-
小野小町の開基 -得成寺-
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お菊伝説 -宝積寺 その2-
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七日市前田家の崇敬社 -蛇宮神社-
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拝殿の天井絵がみたい! -小幡八幡宮-   
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学問のすすめの意外な事実 -甘楽町歴史民俗資料館-
唯一残る大名公園 -楽山園-
織田家7代の墓碑
富岡市・もみじ平総合公園
本殿は修理中でした・・・ -妙義神社- 
日本一の大黒様 -中之嶽神社-


甘楽郡甘楽町造石の長岡家の薬医門と四脚門。

長岡家の門 (1)
薬医門は切妻屋根の草葺きで、江戸時代初期の建築と推定される。
門の両側には石塁の跡が残り、城構えの門のような形式をとっていた
と考えられる。写真に見える石積みは、もちろん後世のもの。

長岡家の門 (2)
四脚門は薬医門の内側にあり、切妻屋根で現在は瓦が乗っている。
扉は引戸式になっていたらしく、敷居に1本の溝が残っている。

四脚門は、小幡藩織田氏(織田信雄の4男・信良)が福島村に仮陣屋を
構えてから(元和3年:1617年)小幡に陣屋を築くまでの間、長岡家が
米・塩などの補給を行ったので、その返礼をして建てられたといわれる。
そのため「織田の御馳走門」と呼ばれている。

長岡家は細川藤孝(幽斎)の長男・忠興とガラシャ(玉)の次男・興秋の
末裔といわれている。
細川輿秋は慶長10年(1605年)人質として江戸に向かう途中に出奔し、
その後慶長19年(1614年)の大坂の冬の陣では豊臣方に加担した
ため、戦後忠興の命により切腹したといわれている。
しかし興秋は長岡大学と名を改め、甘楽町造石に土着したという。

これを事実と仮定すると、なぜ造石に土着したかは、織田信雄が小幡を
所領した(元和元年:1615年)からと思われる(織田家は元の主君)。
さらに想像を巡らせると米・塩の返礼に門を建てたのも、長岡家当主が
輿秋だったからではないか?

関連
 「組石造りの地蔵像 -法華経供養遺跡-
 「細川興秋の末裔・長尾家の供養施設 -弥勒寺-


甘楽郡甘楽町秋畑の与一八幡社。

与一八幡社 (1)
与一八幡社の詳細は不詳だが、那須与一が創建したとの伝承がある。
那須与一は「平家物語」に記される屋島の戦いで、扇の的を射抜いた
話が有名な武将。

与一八幡社 (2)
与一八幡社 (3)
小さな木製の祠があるだけの質素なお社。

なぜ秋畑地区に那須与一所縁のお社があるかというと、与一が所領
していたとも、与一の兄が所領していたともいわれる。現に当地は那須
地区という地名である。

与一はここを訪れ(住み)、弓の稽古をしたと伝えられている。
その場所は「的場」という地名となって残っている。また、弓の稽古後に
与一が水を飲みに来た湧水が「与一の渡井戸」として残っている。

実は「与一の渡井戸」を一生懸命探したのだが、なにしろ道は狭いわ
坂は急だわで、結局見つからなかった。
帰宅後に地図で再調査したところ、すぐ近くまで行っていたことが判明
した。あの狭い坂道を登って行く勇気はなかった。
(秋畑那須地区のみなさん、失礼な物言いでごめんなさい)。

ということで、機会があれば再訪したい。


甘楽郡甘楽町小川の仁治の板碑。

仁治の板碑 (1)
仁治に板碑は、高さ348cm、幅83cm、厚さ9cmの緑泥片岩製で、
仁治3年(1242年)の銘がある。
甘楽町最古の板碑である。群馬県内でも2番目に古い。

ちなみに、甘楽町で2番目に古い板碑は、養学寺跡にある建長3年
(1251年)銘の板碑。
(「甘楽町で2番目に古い板碑 -建長の板碑-」参照)

仁治の板碑 (2)
金剛界五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空
成就如来)を表す梵字が刻まれている。
碑文から集団・結衆(仏と縁を結ぶ)によって建てられた碑と言える。

しかし風化が進んでおり、ほぼ判読できない。
どうやら長い間、付近を通る鎌倉街道の石橋にされていた影響が大きい
ようだ。

貴重な板碑と認められ、現在地へ移転されたのは明治14年(1881年)
になってからである。

なお、富岡市下高尾に「仁治の碑」(仁治4年:1243年)と呼ばれる
五智如来と薬師如来を表す梵字を刻んだ板碑があるが、別の板碑で
あるのでお間違えないように。
ちなみに、富岡市の「仁治の碑」は状態も良く(梵字も判読できる)、
群馬県の重文になっている。まだ行ってないので、そのうちにでも。


甘楽郡甘楽町秋畑の建長の板碑。

建長の板碑 (1)
板碑は養学寺(廃寺)跡にあり、高さ302cm、幅43cm、厚さ12~
14cm。結晶片岩製で建長3年(1251年)の銘がある。
甘楽町では2番目に古く、群馬県内でも4番目に古い板碑である。

建長の板碑 (2)
碑の上部に胎蔵界大日如来を示す梵字を刻む。
碑文は亡くなった母親のために、5人の子供が大日如来を祀って供養
する旨が書かれている。

平成5年(1993年)に当碑を10mばかり移動した際、元は別の場所に
建っていたものを移し、建て直していることが分かったという。

建長の板碑 (4)
建長の板碑 (5)
付近には他の板碑やその残骸が残っており、この辺では古くから板碑での
供養が行われていたことを示している。


甘楽郡甘楽町小幡の下薬師堂の石仏。

城町薬師堂の石仏 (1)
織田氏が小幡に陣屋を置いたころから、上薬師・下薬師として城内の
信仰を集めていた。ここは下薬師。
高さ15cmほどの小さい石仏が多数奉納されている。
また、堂内の石仏3体(鎌倉~室末期)が甘楽町の重文に指定されて
いる。

城町薬師堂の石仏 (2)
向かって右側の座像は天引石製のため風化が進んでおり、仏種は不詳
(薬師如来?)。高さ40cm、幅32cm、厚さ18cm。
この石仏は上薬師から遷されたといわれている。

中央に置かれているのは安政5年(1858年)銘の薬師如来と思われる。
(これは重文ではない)

左側は観音菩薩坐像で、天引石製、高さ45cm、幅35cm、厚さ19cn。
頭部が欠損しているうえ風化が激しい。

薬師堂内に重文の石仏が3体あると調べて行ったのだが、配置から
この3体を重文の石仏と勘違いしてしまった。
実は観音菩薩坐像のさらに左側に重文の地蔵菩薩坐像があったらしい。
ちなみに地蔵菩薩坐像は安山岩製で、高さ29cm、幅36cm、厚さ
19cm、頭部が欠損してしまっている。

今思えば、観音菩薩の左に頭部が欠損した石仏があったような気も
する・・・。

言い訳をすると、薬師堂の前の道が狭く、車を停めて見学していると
近所の方の車が来て見学中断・車移動、というのを2回繰り返し、落ち
着いて見てられなかったんだよね。


甘楽郡甘楽町上野の吉田家の土塁・濠跡。

吉田家の土塁 (1)
吉田家の土塁 (2)
吉田家の土塁・濠跡は、室町から戦国期の方形館跡の周囲の土塁と
濠跡である。土塁は方形館を囲んでいたが、特に西側は素晴らしい形で
現存している(北側は約半分、東側は一部現存、南側は削平)。

吉田家の土塁 (3)
吉田家の土塁 (4)
西側土塁は長さ約70m、下幅約8m、上幅約2.5m、高さ2.5mの
規模を誇る。

吉田家の土塁 (6)
西側濠跡は長さ約80m、幅は約6m。素人目にも濠跡だと分かる形で
残っている。野菜が植えられているのは、ありがちだ。

当地は江戸時代初期に直轄地として代官・深谷氏が居住しており、その
時の館跡の形状を維持していると考えられる。
(その後、旗本・河野氏の知行地となり、明治に至る)

箕輪軍記に出てくる「上野城」に比定するむきもあるが、詳細は不明で
ある(甘楽町は「上野城」と考えているようだ)。また、代官が居住して
いたことから、上野陣屋跡と呼ぶ場合もある。

上野城かどうかはともかく、これだけの土塁が現存していることは驚き
である。

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